”私はいない、ということは、真我というものも無いのか?” という質問に対し、Aさんは”無いです!”と言ってました。
完全に悟った人はそう言うらしいですよ…何でそう言い切れちゃうワケ?…
何かの論証でそう導き出されるのですか? 何が論証されようと実際に何が有るとか無いとか…本当のところは誰にも分かりません。
こういう事というのは概念の中にしか存在しないのです!
私はいる、とかいない、とかって話なんて本当に不毛な話だとは思いませんか?
悟り系?のネットには頭のいい人ばかりなのか、この種の論及や議論で溢れかえっているようです。
私のようなバカにはとても着いて行けそうにありません。
で…何でも論破出来る人という人というのは悟っているんだろうか?
何が究極の覚醒者だか知りませんけど、誰にも確かめられないような領域のことを論理の世界に持ち込んで、そこで真理が明らかにされると思ってる人がいたとしたら、これこそ究極のバカじゃないですか!
私にはこの界隈がどうも知的戯論に偏りがちで、肝心のことが抜け落ちてしまっているように感じてならないのですが…
ちなみにブッダは、そういう真我、アートマンのようなものについては…有るとも無いとも言いませんでした…
おそらくこれが、逆説的正解なのでしょう…
ブッダはおそらく、そういう概念が独り歩きして不毛な議論が起こるのを避けたかったのだろう、と思います。
真我、見えざる導師、現臨、神(私的には皆同じ意味合いのもの)…私も有るとも無いとも言えないようなもののことを、さも有るかのように言ったりしてます。
それはしかし、改めてのことですが、実際に実在しているもののように言い表すことは出来ないのです。
真我というものの実体は私にはわかりません。肉体を超えた、”OO体”といったもので説明している向きもありますが、私にはわからない…(そういう理解で説明できるものというのは、おそらく物質的、固定的なもの、相対的なものの延長でしょう…)
だから”真我とはこういうものだ”という説明は出来ません。でもこういう事はハッキリ言えます。
”この私だと思っているこのものが、本当の私の全てでは無い!”
私の場合の真我とは、この私を超えたあるものを想定した時に、導き出されるあるもののことなのです。本当でない(偽我ではない)自分というものに応対して出てくる表現なのです。つまりは仮称に過ぎないのです。(以下のものも)
ここ最近私は”普遍性”という言葉をよく使います。普遍世界なんて如何にも見てきたかのように言ってますが、実際にはアッチの世界でも見てません!
勿論この世にも無いです! 有ったらこの世は地上天国です。
でも度々言いますが、実体が無い、分からない、からといって”無いです!”で済む訳ありません!
論理の世界で何が論証されようと、現代科学で何が実証されようと、ここでは何の関係もありません!
アリアリとした実感というものが、その否定論を打ち消してしまうのです!
これは多分、主観的な事を言っているだけなのかも知れません。
ですから、そういうものは”有ります!”と主張するつもりは有りません。
論証も実証も出来ないですしね…
でも…無条件の愛というものは、論理の世界とも客観的科学の世界とも無縁です。
論理も科学も愛を知らないのです。
ネットでは、分離思考だとか何だとかってことが盛んに取り沙汰されています。
そういうものに接している度に私は感じてきます。”分離感”が…
”有る”とか”無い”とか決めつけた物言い…これぞ分離というものの何たるかが伺えてきます。
そう言い放つことで、人が自分自身で答えを見つけようとする道を塞いでしまうのではないでしょうか?ちっとも愛など感じてきません。
もっとも自分で見つけようとする人は、どんな他人の意見にも動じないでしょうけど…
おそらく、これがブッダが真我について明言しなかったもう一つの理由でしょう。
愛はああでもない、こうでもない、理屈を超えて無条件に人を誘うものです。愛が抜け落ちた時分離が始まるのです…。
”僕は黙って君を見つめていたい…”
完全に悟った人はそう言うらしいですよ…何でそう言い切れちゃうワケ?…
何かの論証でそう導き出されるのですか? 何が論証されようと実際に何が有るとか無いとか…本当のところは誰にも分かりません。
こういう事というのは概念の中にしか存在しないのです!
私はいる、とかいない、とかって話なんて本当に不毛な話だとは思いませんか?
悟り系?のネットには頭のいい人ばかりなのか、この種の論及や議論で溢れかえっているようです。
私のようなバカにはとても着いて行けそうにありません。
で…何でも論破出来る人という人というのは悟っているんだろうか?
何が究極の覚醒者だか知りませんけど、誰にも確かめられないような領域のことを論理の世界に持ち込んで、そこで真理が明らかにされると思ってる人がいたとしたら、これこそ究極のバカじゃないですか!
私にはこの界隈がどうも知的戯論に偏りがちで、肝心のことが抜け落ちてしまっているように感じてならないのですが…
ちなみにブッダは、そういう真我、アートマンのようなものについては…有るとも無いとも言いませんでした…
おそらくこれが、逆説的正解なのでしょう…
ブッダはおそらく、そういう概念が独り歩きして不毛な議論が起こるのを避けたかったのだろう、と思います。
真我、見えざる導師、現臨、神(私的には皆同じ意味合いのもの)…私も有るとも無いとも言えないようなもののことを、さも有るかのように言ったりしてます。
それはしかし、改めてのことですが、実際に実在しているもののように言い表すことは出来ないのです。
真我というものの実体は私にはわかりません。肉体を超えた、”OO体”といったもので説明している向きもありますが、私にはわからない…(そういう理解で説明できるものというのは、おそらく物質的、固定的なもの、相対的なものの延長でしょう…)
だから”真我とはこういうものだ”という説明は出来ません。でもこういう事はハッキリ言えます。
”この私だと思っているこのものが、本当の私の全てでは無い!”
私の場合の真我とは、この私を超えたあるものを想定した時に、導き出されるあるもののことなのです。本当でない(偽我ではない)自分というものに応対して出てくる表現なのです。つまりは仮称に過ぎないのです。(以下のものも)
ここ最近私は”普遍性”という言葉をよく使います。普遍世界なんて如何にも見てきたかのように言ってますが、実際にはアッチの世界でも見てません!
勿論この世にも無いです! 有ったらこの世は地上天国です。
でも度々言いますが、実体が無い、分からない、からといって”無いです!”で済む訳ありません!
論理の世界で何が論証されようと、現代科学で何が実証されようと、ここでは何の関係もありません!
アリアリとした実感というものが、その否定論を打ち消してしまうのです!
これは多分、主観的な事を言っているだけなのかも知れません。
ですから、そういうものは”有ります!”と主張するつもりは有りません。
論証も実証も出来ないですしね…
でも…無条件の愛というものは、論理の世界とも客観的科学の世界とも無縁です。
論理も科学も愛を知らないのです。
ネットでは、分離思考だとか何だとかってことが盛んに取り沙汰されています。
そういうものに接している度に私は感じてきます。”分離感”が…
”有る”とか”無い”とか決めつけた物言い…これぞ分離というものの何たるかが伺えてきます。
そう言い放つことで、人が自分自身で答えを見つけようとする道を塞いでしまうのではないでしょうか?ちっとも愛など感じてきません。
もっとも自分で見つけようとする人は、どんな他人の意見にも動じないでしょうけど…
おそらく、これがブッダが真我について明言しなかったもう一つの理由でしょう。
愛はああでもない、こうでもない、理屈を超えて無条件に人を誘うものです。愛が抜け落ちた時分離が始まるのです…。
”僕は黙って君を見つめていたい…”
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