人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ずっと神と共にある

2024-08-18 10:08:27 | 
いつも言うように、私には神がどういう存在なのかは分かりません。
しかし、自分の思いを超えたあるもののことは分かるのです。
知識的にではなく、感覚というか、直接体験として。
それは、愛、平安、リアリティを伴ったものとして。
それが所謂神と呼ばれるものなのかどうかは分からないけれど、私的にはそれ以外に神的なものを思い浮かべることは出来ません!
だから、所謂神のことなどどうでもいいのです。所謂神について語られるものは、ほとんどが知識、外聞として語られるものばかりではないか?
私の思いを超えているということは、その私自身が、それまでかく思っていた私では無かったということなのです。
といって、取り立てて、“私は神と一つになった“、などと言う必要もありません。それでは凡夫の、ダメな私が段々神と一なる境地に達したなどと誤解されてしまうことでしょう。
私はそういう修行などしてこなかったのです。私はずっと凡夫、ダメなままなのです。
その私が、“ずっと神的なものと共にある“、と言ったらダメなのか?
自覚的には、そうですね、精神的な道に関心を持って、その愛、平安、リアリティを感じ始めてからです。
勿論、これは今でもそうなのですが、それが諸々の想念、欲望などで覆われて、見失うこともありますよ。
だけど、それは本来の、本当の自分の状態、神と共にある状態でないことに気付けるかどうか...これが肝心なことなのです。
それが分からないことが、本当にダメなことでしょう?...本当の自分のことなんだから!
何が本当でないかは分からなければオカシイ!
これを何人の人が読まれているのかは知る由もないけれど、人に知ってもらう、認めてもらうことじゃありません。自分自身としてどうなのか?
人を意識すると、ともすれば自分の思想、信仰、信念などの正しさを人に認めてもらおうと
図ったりするものですね。己の立場に固執する。何故、固執する必要があるのか?...内心はその正当性は、ホントはアヤしいと思っているからではないのか?
自分自身に、神に聞いてみればいい!
それで、自分の信念などコッバミジンになったとて構わないではないか!
修行して積み上げてきて、一体何が残るというのだろう...
ずっと積み上げてきた信念、立場が爆破されても、ずっと、そこに在り続けるもの...
それは、決して私のものとはならない、そうしてはならないものでしょう。私物化することは出来ないのです。
神に意識を向け、神を頂いていなければ、そのように主我的にならざるを得ないのです。
そこには、一個なる自分、自我しかなくなってしまうからです。
真我を求めることでも、容易く自我に取って代わってしまうでしょう。神と切り離された本当の自分というものは無いのですから!...
私は、神を自分の主義や信仰、修行などで取り込んだことはありません。多分、(イロイロな意味で)ダメだということが分かっているからでしょう。
だから、私は神と共にある、というよりも神の方がずっと私と共って下さるのでしょう...。





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