人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神は絶対的②

2025-02-18 06:56:37 | 
“神には善なる神も居れば、人間に災いをもたらす悪なる神も居る:..
完全なる覚醒を目指すには、神を超えなければならない...“

このように何か神のことを分かったようなつもりになって、物言いしている向きに触れていつもナンセンスに感じてなりません。
極めつけは、“神と言えども現象界の表れなので、相対を超えたものではない!“、なんて宣っていることです。
神はいつ、どこに現象界に現れたというのでしょうか?...一種の霊的現象としてある時に示現したという話はあります。だけどその真実性は勿論一度も明らかにされたことは無いのですよ。
神は、時に“仮現“するということもあるかもしれませんが、基本的に見えないものだし、分からないものではありませんか?...もうこれは、呆れ返るような児戯に等しい神理解という他ありません。
いや、そこには、ただ人からの受け売りの、言葉の切れ端だけしか無く、何一つ理解などというものは無いのでしょう。
これが半世紀近くも五井先生に従って信仰、修行をしてきた人間の言葉だったりするのだから、これまで何をしてきたのか分からないことを自ら暴露しているようなものではないか?
一々指摘する程のことじゃないのですが、ここで問題となるのは、神を実体として分別知で思い描いていることなのです。それ自体が相対観念の域を出ないということになるでしょう。
ここでは神は、モノのようにしか捉えられていないのです。まるで“唯物神“ではないか?!
又、五井先生に習って“統一行“をしたりするらしいですよ。統一なんか出来る、なる訳が無いでしょう!
神を意識しようとしても、善なる神と悪なる神に分裂するだけですよ!...否定する自分と肯定する自分が分裂する...瞑想ごとにかかる狂気に陥るような観念を持ち込むのは絶対タブー、と言わねばならないでしょう!...何という無知であろう!
神は分別知で絶対に捉えられるものではありません。クドイ程言っているように人の思いを超えているのです。
そして、その思いを超えせしめるものは神的なもの、神しかありません。だからこの意味で神は絶対的なものであり、言うまでもなく、相対を絶したものなのです。
その実体は分からなくても、そういうハタラキがある。それを感得することは出来るのです。それに与るならば、如何なる皮相的な神観念も消えてゆく姿になるしかありません。
五井先生が“神には善神、悪神とがある“、“神を超えなければならない“などとは絶対に言う訳が無い!...一から五井先生から学び直した方がいい!
このことは先生云々でなくとも、自分自身の真実に照らせば、自ずと分かることではないか!
神と自己実存は、超えるも何も切り離すことが出来ない...
神、本心に意識を向かわせないものがある。それは業想念でしかない...
だから神は如何なる相対的思いを超えて、絶対的なものです!...
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本心と照明 | トップ |   

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事