人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

わが主なる神

2023-04-03 10:07:13 | 
宗教の世界では神は礼拝するもの、という固定観念が付きまとっているようです。
礼拝する私が居て、祭られる対象として神を礼拝する、という二元的な在り方が当たり前のようになっています。
そこで、如何なる、何と呼ばれる神を礼拝するかが問題となったりします。
しかし、私など神社にお参りする時、まあ、大体が自分自身、自分のルーツに所縁がありそうな祭神を選んだりする(本当に正しい由緒なのかどうかは分かないですよ、そういうことらしいことにしておこう、というノリです)訳ですが、時に私の内側から何か神的なエネルギーみたいなものが呼び起こされることもあったりするのです。そう、それは現臨感覚に通じるようなものなのです。
つまりは、何の神が祭られているかはあまり関係ないとも言えるのです。
だから、それが宇宙の最高神だろうと、一祖先神だろうと神的な現臨に会うということが重要だとは思われませんか?...でなければ一体何のための神礼拝なのでしょう?
その点、キリスト教というのは、一寸異形でして、ああいうハッキリした祭壇のようなものは無く、そういう神礼拝なども行われておりません。偶像崇拝につながるからでしょうか?
聖書には「汝ら自らが聖霊の宮である」「神の国は汝らのただ中にある」とあるように、自分の外に神を置かない傾向が強いようです。
というか、神というのは、イエス.キリストに重ねられているのです。ユダヤ教で“主なる神“とされているのを受けて“主“と呼ばれるのは、こうした神格なのですが、そこには先の内在的な神の響きも感じられます。
端的にそれは、“わが主“という一言に集約されるでしょう。私の内なるもの、実存と切り離されたものに、こういう一如なる消息の伝わる言葉は表わすことは出来ないでしょう。
現実に、そうした実存的在り方が生きているかどうかは別の話になりますが...
それについては、聖書に何が書いてある、公認の、正統なる教義ではどう説かれているかなど問題にならないではないか!
いくら、イエスを観念的に信じようと、わが魂が揺さぶられずして何になるでしょうか!
つまりは形は違えど、信じる私が居て、対象として観念上の神を信じる、という二元性を超えられないのは、礼拝宗教と同じになってしまうのです。“わが主なる神“が生きてこないならば!
イエスは言った、「私のことを“主よ、主よ“、と呼ぶものが天国に入る訳ではないのだ」と。わが主は、人づてにあらず、直にここに臨みたもう!
私は礼拝宗教も神人信仰も否定するつもりはありませんが、超越的な神が、一人一人の内在的、実存的なものと一つに導かれる、というその神信仰の本来性、霊性の宗教の回復を願ってやまないのです。
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