“悟りを開くには、神と一つになるには、思いを、欲望を無くさなければならない...“、こういう“思い“というものは、刷り込まれているように根強いものがあります。
そうです!、それは思わされていることなんですよ!...そして、それは“こうしたい!“という欲望でもあるのです。
その思い、欲望無くさなければなりませんか?
無くさなければならないものなら何故我々は、それらを持って生まれて来たのでしょうか?
中には肉体を無くさなければならない、なんて正気の沙汰でないこと思い込んでいる者も居るようです。
信仰的な人なら、神が我々をお造りになり、それらを与えたもうた、ということも信じているだろうに、何故そういう矛盾に気が付かないのでしょうか?
事実はともかく、現実にそれらは元々あったもの、持ち前のものであったのです。
だから、それを無くそうという発想は実に非現実的で、よほど強靱な意志の持ち主でなければ、不可能なことでしょう。
そして又、それが出来たからといって、悟る、神と一つになれる保障などどこにも無いのです。
少なくとも私はそういう事例はほとんど知りません。そんなの不自然だろう、と思わなきゃ!
もう、精神的な道では昔から、“無くす、捨てる、断滅“...こんなんばかりじゃありませんか!
“無くした、捨てた“、というだけだったら全くもって...“ご苦労さんでした“、と言う他ありません!
私もここで、“思いから離れる“、なんてこと言いますよ!...“無くせ!“なんてこた、勿論一度も言ったことないですが...
それは取りも直さず、“思いを超えたもの“に与ることとつながるからなのです。
つまり、意識を向けるべきことは、無くしたり、捨てることじゃなくて、このものとつながることなんですよ!...そうでなければ一体何だ、何になるというのか?!...我慢比べか!
だから、現実に思い、欲望を捨てることが出来なければ、神に“どうかそれらが無くなりますように!“、と祈ればいいじゃないですか?
いや、そうじゃなくって...最初から神的なもの、そのものを求めたらいいんじゃないですか?!
“それって、思い、欲望?“...何だっていいわ!
そのものに意識を向ける、ということは、それらを超えたもの、止揚されたものを頂くということなのです。
そして、そのものが通ることにより、それらは無くなる訳でなく、自然に離れてゆくのです。
そしてそして...そうなることにより、愛、安らぎにつつまれるようになる...これは間違いの無いことなのです!
それらを得るための祈りでなくて、それらは神と一つのものなのです。
持ち前のものは、無くすことも捨てることも出来ない、ということが最初から分かっている、つまりはそれらに対して無力だ、ということが分かっている人は最初から、それらを超えたもの、最初からあるものに意識を向けられるでしょう。
それは、最初から神に愛でられている人なのかもしれません...。
そうです!、それは思わされていることなんですよ!...そして、それは“こうしたい!“という欲望でもあるのです。
その思い、欲望無くさなければなりませんか?
無くさなければならないものなら何故我々は、それらを持って生まれて来たのでしょうか?
中には肉体を無くさなければならない、なんて正気の沙汰でないこと思い込んでいる者も居るようです。
信仰的な人なら、神が我々をお造りになり、それらを与えたもうた、ということも信じているだろうに、何故そういう矛盾に気が付かないのでしょうか?
事実はともかく、現実にそれらは元々あったもの、持ち前のものであったのです。
だから、それを無くそうという発想は実に非現実的で、よほど強靱な意志の持ち主でなければ、不可能なことでしょう。
そして又、それが出来たからといって、悟る、神と一つになれる保障などどこにも無いのです。
少なくとも私はそういう事例はほとんど知りません。そんなの不自然だろう、と思わなきゃ!
もう、精神的な道では昔から、“無くす、捨てる、断滅“...こんなんばかりじゃありませんか!
“無くした、捨てた“、というだけだったら全くもって...“ご苦労さんでした“、と言う他ありません!
私もここで、“思いから離れる“、なんてこと言いますよ!...“無くせ!“なんてこた、勿論一度も言ったことないですが...
それは取りも直さず、“思いを超えたもの“に与ることとつながるからなのです。
つまり、意識を向けるべきことは、無くしたり、捨てることじゃなくて、このものとつながることなんですよ!...そうでなければ一体何だ、何になるというのか?!...我慢比べか!
だから、現実に思い、欲望を捨てることが出来なければ、神に“どうかそれらが無くなりますように!“、と祈ればいいじゃないですか?
いや、そうじゃなくって...最初から神的なもの、そのものを求めたらいいんじゃないですか?!
“それって、思い、欲望?“...何だっていいわ!
そのものに意識を向ける、ということは、それらを超えたもの、止揚されたものを頂くということなのです。
そして、そのものが通ることにより、それらは無くなる訳でなく、自然に離れてゆくのです。
そしてそして...そうなることにより、愛、安らぎにつつまれるようになる...これは間違いの無いことなのです!
それらを得るための祈りでなくて、それらは神と一つのものなのです。
持ち前のものは、無くすことも捨てることも出来ない、ということが最初から分かっている、つまりはそれらに対して無力だ、ということが分かっている人は最初から、それらを超えたもの、最初からあるものに意識を向けられるでしょう。
それは、最初から神に愛でられている人なのかもしれません...。
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