私は生来、科学に疎いです。
小さい頃、人体とか虫とかの生物、雲だとか、科学と関わるものに興味を覚えましたが、その子供にも分かる簡単な説明に接している内はよかったのですが、大きくなって、より専門的な科学的説明を聞かされると、もう興ざめになってしまいました。
そういうものは、”おお、人体ってのはこんなになっていたのか!、色んな虫、生き物がいて面白いな!”、という単純な、見て感じる興味とは何の関係も無いと思われたのです。
しかし、そんな私も科学的な教説に触れて、電撃を受けたような感動を覚えたことが二度ほどあります。
一つは昭和60年頃、当時一部でもてはやされていた、ニューサイエンスの主要な学説、”ホロン”の理論で、それは例えば、一つの細胞たる端子は、その集合たる、からだ全体を映すという、フラクタルな関係性を説き明かしていました。
もっともこの理論は、”正統科学?”ではどう評価されているかは疑問で、疑似科学と見る向きもあるようなのですが...
もう一つは、それからしばらく後、もっと正統性が高い?もので、遺伝子、DNAに関するものです。DNAは、”二重らせん構造を有している”らしい、のだと!
何の本だか忘れましたが、二重らせんの一つは予め定められていて、もう一つは可変性を持っているという...これを人生の変えることの出来ない宿命、変えられる運命に対応させて説明しているところに言い知れぬ感激を覚えたのでした。人生とは、この奇しき二つの線が織りなす命のドラマなのか!、と。
しかし、私にはらせんといっても、一つは縦にピシッと直線的もので、もう一つはそれにあるところではくっついたり、別のところでは離れたりの複雑な曲線を描くもので、この可変性が人生に、あるドラマ性をもたらしているのではないか?、といったイメージを感じているのです。勿論、これは私の主観に過ぎません。
私がこのように感激を覚えたのも私の主観です。何故そう感じたのでしょうか?
科学に疎く、さして関心の無い私がそういう学説に接しても、多分、”ほお、さよか!”、と思う程度で、通り過ぎてしまうでしょう?
私が感激したのは、これらに触れる少し以前に、”人生の裏側”に踏み込れて、前記したようなことを直接経験で示されていたからに他なりません!
”こりゃ、驚いた!、あれは幻覚なんかじゃないらしい!、私だけの主観って訳でもないらしい!”
まるで、私自身がその科学理論を発見したか、と思うほどなのでした。
勿論、”それはそれ、これはこれ”...私の一主観がそれで客観的事実として証明された訳じゃありません。第一、そんなものにスリ変わってしまうというのは、茶番でしかないですよ!
しかし、少なくともこうした科学的アプローチというものが、あらゆる人たちの内に内包する、”普遍世界”への道(これも直接経験で示された)を切り開く糸口になるであろうことは確かなことではないでしょうか?
主観的な直接経験と客観的科学性の両方が相俟って、それは明らかにされることでしょう。
内なるものは外に表れる!...
こういう何かしらフラクタルな、何かしら二重構造のようなものって、普遍的にあるんじゃないでしょうか?...
小さい頃、人体とか虫とかの生物、雲だとか、科学と関わるものに興味を覚えましたが、その子供にも分かる簡単な説明に接している内はよかったのですが、大きくなって、より専門的な科学的説明を聞かされると、もう興ざめになってしまいました。
そういうものは、”おお、人体ってのはこんなになっていたのか!、色んな虫、生き物がいて面白いな!”、という単純な、見て感じる興味とは何の関係も無いと思われたのです。
しかし、そんな私も科学的な教説に触れて、電撃を受けたような感動を覚えたことが二度ほどあります。
一つは昭和60年頃、当時一部でもてはやされていた、ニューサイエンスの主要な学説、”ホロン”の理論で、それは例えば、一つの細胞たる端子は、その集合たる、からだ全体を映すという、フラクタルな関係性を説き明かしていました。
もっともこの理論は、”正統科学?”ではどう評価されているかは疑問で、疑似科学と見る向きもあるようなのですが...
もう一つは、それからしばらく後、もっと正統性が高い?もので、遺伝子、DNAに関するものです。DNAは、”二重らせん構造を有している”らしい、のだと!
何の本だか忘れましたが、二重らせんの一つは予め定められていて、もう一つは可変性を持っているという...これを人生の変えることの出来ない宿命、変えられる運命に対応させて説明しているところに言い知れぬ感激を覚えたのでした。人生とは、この奇しき二つの線が織りなす命のドラマなのか!、と。
しかし、私にはらせんといっても、一つは縦にピシッと直線的もので、もう一つはそれにあるところではくっついたり、別のところでは離れたりの複雑な曲線を描くもので、この可変性が人生に、あるドラマ性をもたらしているのではないか?、といったイメージを感じているのです。勿論、これは私の主観に過ぎません。
私がこのように感激を覚えたのも私の主観です。何故そう感じたのでしょうか?
科学に疎く、さして関心の無い私がそういう学説に接しても、多分、”ほお、さよか!”、と思う程度で、通り過ぎてしまうでしょう?
私が感激したのは、これらに触れる少し以前に、”人生の裏側”に踏み込れて、前記したようなことを直接経験で示されていたからに他なりません!
”こりゃ、驚いた!、あれは幻覚なんかじゃないらしい!、私だけの主観って訳でもないらしい!”
まるで、私自身がその科学理論を発見したか、と思うほどなのでした。
勿論、”それはそれ、これはこれ”...私の一主観がそれで客観的事実として証明された訳じゃありません。第一、そんなものにスリ変わってしまうというのは、茶番でしかないですよ!
しかし、少なくともこうした科学的アプローチというものが、あらゆる人たちの内に内包する、”普遍世界”への道(これも直接経験で示された)を切り開く糸口になるであろうことは確かなことではないでしょうか?
主観的な直接経験と客観的科学性の両方が相俟って、それは明らかにされることでしょう。
内なるものは外に表れる!...
こういう何かしらフラクタルな、何かしら二重構造のようなものって、普遍的にあるんじゃないでしょうか?...
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