宗教やスピ、などの世界には、"狂信者"と言われる人たちが居ますね。
"この神、教え以外に真理、救われは無い"と、それらを絶対視して頑なに信じている人たち...彼らは自らは絶対正しいと信じているらしいですが、それ以外の人から見たらオカシイでしょ? どうしてああいう偏った精神構造の人間が出て来てしまうのでしょうか?
私はどうもそれは、私が言う"現臨に捉えられる"ような事態、精神的覚醒などで受ける内奥の意識状態が、表層の思考マインドで歪んだ形で伝えられるものではないか、と思っています。
まず、"この神以外に神は存在しないi"、という信念はどこから来るのかと言えば、"現臨にあることがリアリティに与ること"、純粋意識がそこに顕わになり、そこで感じたものに動かしがたい実在、実存感がもたらされる、というところからだと思います。
だから、その神を絶対視してしまうのです。
しかし、その神は狂信者が信じているものとはまるっきり違います。第一、自分の信念などというものがそこでは一切通じないのです。
信じることが出来ない、そして疑うことも出来ない...思考マインドがハタラかないのだから...私がここで絶対的ということで言い表すことは、こうしたどうしようもない、お手上げの状態を指して言っているのです。
然りi、神的なものとの関わりは、絶対的な意味を持っているi しかし、それは狂信者が独善的に信じているようなことじゃないi 我々一人一人にとってということですi
絶対性とは又、あらゆる相対性を絶している、ということでもあります。相対を超えていることはあらゆる道に門が開かれていること...独善に走ってしまうことほどこの理に暗いものはありませんi
又、狂信者は、その信じている神の教えを絶対視、金科玉条にするあまり、自分の考えを差し挟んだり、解釈を加えたりすることが出来ません。思考停止に陥っている訳ですね。
これは、先の通り、実際に思考が停止してしまうところから来るのかもしれません。しかし、そこには思われた思考でない、愛、平安を伴った天来の叡知ともいうべきものが自然にもたらされるのです。
彼らが思考停止になる理由は他にもあります。それは自分の考えをその絶対的教えに交えてしまうことは"罪"だと思っているからでしょう。
"自分から出る思いは肉の思い、エゴの思いだから信じちゃいけない、だから神を信じなきゃならないi"、と信じている割には随分と押し付けがましく、厚かましい人も多いようなのですが、とにかく疑わずに信じる。疑わないということには先の理由があるのでしょう。
罪意識を抱えている人は神を信じたら、罪を許されると信じている訳です。しかし、自分自身は信じられない、ありのままの自分を受け入れることが出来ない、意識が自己の内面には向けられないようです。
神を信じることと、自分を信じることとは一つのことと思いますが...
もっとも、中々自分からは意識を向けられないものです。それも神的なもの、現臨にあってのものでしょう。
受け入れられたり、そのものとつながる、ということは、それ自体罪は許されている、否、元々そういうものは無い、ということが示されることではないでしょうか? これはそのまま救いにつながることではないかi 何という感謝、何という救いでしょうか?
この絶対的な恩寵の事態から自分を遠ざける思い、それを受け入れようとしない思い...それが罪意識、地獄の思いを作り出すのでしょう...逆説的ながら自分の思いを出すまいとして、思いに絡められ、罪から救われようとして、罪を作り出しているようです。
罪とは、そうした"積み"重ねられた思いから来るのでしょう。
とはいえ、その意識の有り様により、感じ方もその方向性もまるっきり異なったものになるが、人間誰しも深層で感じていることには同じものがある、ということではないでしょうか?
この意味でノンデュリアリティなどで言われているように、"人間は皆悟っている"のかもしれません。
ただ、"人の思いは何と光を屈折させてしまうのだろうか!"、ということでしょう。
人生は何に神を見、どんな思い、意識で神と関わろうとするかで違ったものになるのでしょう。
天国となるか地獄となるかは神次第...
否、人の思いこそがこの世の神なのかもしれません。
"この神、教え以外に真理、救われは無い"と、それらを絶対視して頑なに信じている人たち...彼らは自らは絶対正しいと信じているらしいですが、それ以外の人から見たらオカシイでしょ? どうしてああいう偏った精神構造の人間が出て来てしまうのでしょうか?
私はどうもそれは、私が言う"現臨に捉えられる"ような事態、精神的覚醒などで受ける内奥の意識状態が、表層の思考マインドで歪んだ形で伝えられるものではないか、と思っています。
まず、"この神以外に神は存在しないi"、という信念はどこから来るのかと言えば、"現臨にあることがリアリティに与ること"、純粋意識がそこに顕わになり、そこで感じたものに動かしがたい実在、実存感がもたらされる、というところからだと思います。
だから、その神を絶対視してしまうのです。
しかし、その神は狂信者が信じているものとはまるっきり違います。第一、自分の信念などというものがそこでは一切通じないのです。
信じることが出来ない、そして疑うことも出来ない...思考マインドがハタラかないのだから...私がここで絶対的ということで言い表すことは、こうしたどうしようもない、お手上げの状態を指して言っているのです。
然りi、神的なものとの関わりは、絶対的な意味を持っているi しかし、それは狂信者が独善的に信じているようなことじゃないi 我々一人一人にとってということですi
絶対性とは又、あらゆる相対性を絶している、ということでもあります。相対を超えていることはあらゆる道に門が開かれていること...独善に走ってしまうことほどこの理に暗いものはありませんi
又、狂信者は、その信じている神の教えを絶対視、金科玉条にするあまり、自分の考えを差し挟んだり、解釈を加えたりすることが出来ません。思考停止に陥っている訳ですね。
これは、先の通り、実際に思考が停止してしまうところから来るのかもしれません。しかし、そこには思われた思考でない、愛、平安を伴った天来の叡知ともいうべきものが自然にもたらされるのです。
彼らが思考停止になる理由は他にもあります。それは自分の考えをその絶対的教えに交えてしまうことは"罪"だと思っているからでしょう。
"自分から出る思いは肉の思い、エゴの思いだから信じちゃいけない、だから神を信じなきゃならないi"、と信じている割には随分と押し付けがましく、厚かましい人も多いようなのですが、とにかく疑わずに信じる。疑わないということには先の理由があるのでしょう。
罪意識を抱えている人は神を信じたら、罪を許されると信じている訳です。しかし、自分自身は信じられない、ありのままの自分を受け入れることが出来ない、意識が自己の内面には向けられないようです。
神を信じることと、自分を信じることとは一つのことと思いますが...
もっとも、中々自分からは意識を向けられないものです。それも神的なもの、現臨にあってのものでしょう。
受け入れられたり、そのものとつながる、ということは、それ自体罪は許されている、否、元々そういうものは無い、ということが示されることではないでしょうか? これはそのまま救いにつながることではないかi 何という感謝、何という救いでしょうか?
この絶対的な恩寵の事態から自分を遠ざける思い、それを受け入れようとしない思い...それが罪意識、地獄の思いを作り出すのでしょう...逆説的ながら自分の思いを出すまいとして、思いに絡められ、罪から救われようとして、罪を作り出しているようです。
罪とは、そうした"積み"重ねられた思いから来るのでしょう。
とはいえ、その意識の有り様により、感じ方もその方向性もまるっきり異なったものになるが、人間誰しも深層で感じていることには同じものがある、ということではないでしょうか?
この意味でノンデュリアリティなどで言われているように、"人間は皆悟っている"のかもしれません。
ただ、"人の思いは何と光を屈折させてしまうのだろうか!"、ということでしょう。
人生は何に神を見、どんな思い、意識で神と関わろうとするかで違ったものになるのでしょう。
天国となるか地獄となるかは神次第...
否、人の思いこそがこの世の神なのかもしれません。
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