普遍性へと開かれたものとして降ろされた、五井先生が提唱された「世界平和の祈り」もその祈り言に囚われたためか、一宗一派の祈りになってしまった感のあるのは実に残念なことです。
その点、出口王仁三郎師が「世界の宗教の統一とは、世界中を大本の教えにすることではない。名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが何でもよい。すべての宗教団体なり思想界が、宇宙根源の神の意志どおりになったら、それで世界の平和は実現するのだ」と述べていたことに私は普遍世界に開かれた精神を感じざるを得ません。
その宗派の信者たちが、その置かれた立場でその奉ずる神仏なりに、本当に意識を向け続けたらいいのです。それはやはり祈りを通して(勿論、形は慣れ親しんだものに則ったもので構わない)ということになるでしょう。
ところが、各宗派の人たちはそうして祈りをしているかというと、多分してないだろうと思いますよ。していても因習、形式に堕してしまっていることでしょう?
それよりも、教会や寺社の維持とか、諸々の行事などで忙しくて、なおざりになっているんじゃないですか?
とにかく宗教団体というのは、どこでも老朽化しているのが現状なのでしょう。
だから、意識的になって祈りをすることが必要なのです。意識的に祈るとは、観念ごとじゃなく、その宗教の原始に立ち返って、神的なものに帰一することに他なりません。
もっとも、それは、各自の思いを超えるばかりか、その宗派の枠も超えてしまうことにもつながるかもしれないのですが...それが普遍性に目覚めるということなんだ!
又、日本人は無宗教だ、なんて言われていますが、特定の宗派に属さないことが無宗教を意味するなど、とんでもない認識不足と言わねばならないでしょう。
これは、その実日本という国は、無教会、無宗派信者の天国ということの裏返しではありませんか?
無教会、無宗派とは、因習やセクト性から自由であるということ...自由であるとは精神的にいつも若いということです。
こういう人たちこそは、自由な精神で、祈りや瞑想を通し、神的なものにつながることが出来るでしょう。
日本人は生まれた時からこういう特権に恵まれていると言えるのです。
一度、宗派に属している人も属さない人も、皆にその内に眠っている火種に火が付くなら、それはもう大変な世界平和実現に向けての、大きな“うねり“をもたらすことになるであろうことは、私には手に取るように感じられることなのです。
私はこういうあまりに不相応な、大それたことを声高らかに叫ぶつもりなど毛頭ありません。
一自由人の、言い換えれば一無生産者の戯言と思って頂いて結構です。
ただ、これを読んで頂いた縁ある人たちに、私の思い、祈りが伝わらんことを願って記しただけなのです。
心ある方の意識にとどめられんことを!...
その点、出口王仁三郎師が「世界の宗教の統一とは、世界中を大本の教えにすることではない。名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが何でもよい。すべての宗教団体なり思想界が、宇宙根源の神の意志どおりになったら、それで世界の平和は実現するのだ」と述べていたことに私は普遍世界に開かれた精神を感じざるを得ません。
その宗派の信者たちが、その置かれた立場でその奉ずる神仏なりに、本当に意識を向け続けたらいいのです。それはやはり祈りを通して(勿論、形は慣れ親しんだものに則ったもので構わない)ということになるでしょう。
ところが、各宗派の人たちはそうして祈りをしているかというと、多分してないだろうと思いますよ。していても因習、形式に堕してしまっていることでしょう?
それよりも、教会や寺社の維持とか、諸々の行事などで忙しくて、なおざりになっているんじゃないですか?
とにかく宗教団体というのは、どこでも老朽化しているのが現状なのでしょう。
だから、意識的になって祈りをすることが必要なのです。意識的に祈るとは、観念ごとじゃなく、その宗教の原始に立ち返って、神的なものに帰一することに他なりません。
もっとも、それは、各自の思いを超えるばかりか、その宗派の枠も超えてしまうことにもつながるかもしれないのですが...それが普遍性に目覚めるということなんだ!
又、日本人は無宗教だ、なんて言われていますが、特定の宗派に属さないことが無宗教を意味するなど、とんでもない認識不足と言わねばならないでしょう。
これは、その実日本という国は、無教会、無宗派信者の天国ということの裏返しではありませんか?
無教会、無宗派とは、因習やセクト性から自由であるということ...自由であるとは精神的にいつも若いということです。
こういう人たちこそは、自由な精神で、祈りや瞑想を通し、神的なものにつながることが出来るでしょう。
日本人は生まれた時からこういう特権に恵まれていると言えるのです。
一度、宗派に属している人も属さない人も、皆にその内に眠っている火種に火が付くなら、それはもう大変な世界平和実現に向けての、大きな“うねり“をもたらすことになるであろうことは、私には手に取るように感じられることなのです。
私はこういうあまりに不相応な、大それたことを声高らかに叫ぶつもりなど毛頭ありません。
一自由人の、言い換えれば一無生産者の戯言と思って頂いて結構です。
ただ、これを読んで頂いた縁ある人たちに、私の思い、祈りが伝わらんことを願って記しただけなのです。
心ある方の意識にとどめられんことを!...
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