人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

唯一の主神

2023-11-18 09:26:36 | 
神と一口に言っても、観方、感じ方は様々であり、色々な神様が居るようですね?
いくら“神は一つ“と言おうが、それはそういう神観の一つと見なされてしまうのでしょう。
又、心霊(神霊?)学的に、宇宙の根本神というか、支配神という神がおり(これは勿論唯一神的な観方がなされている訳ですが)、その下に二が三に四に...という風に“分神“していって、所謂守護神、守護霊として、各個人につくように降りてくる、といった説明もあるのです。
宗教学的には先の一神論とか多神論、汎神論などがある訳です。
しかし、これらのことはすべて説明に過ぎないということを知らねばなりません。
そんな紙に書いてあるようなことで神のことが分かってたまるか、ってんです!
だから、我々のうちに神は生きていない、と言わねばならないのです。
“私の周りにも内にも神はアリアリと生きたもう!“、そういう意味での実存、実在神しか神はお在さないのです!
自己と直接つながっている神、それは先の守護の神霊のことでしょうか?...そうかもしれませんが...本当のところは分からない、知りません!、いや知る必要も無い!...頭で思い描いたような神など知ってどうなるというのか!
宇宙の根源神だろうと、何教の神だろうと同じことですよ!
自己実存と切り離された神は、すべて想像されたものに過ぎないのです。だから一人一人にとっての実在神こそが唯一神、唯一なる主神と言えるでしょう。
それは、そのもの無しには私自身も存在出来ないもの、私のすべての主なるものに他なりません。(神という言葉に囚われなくても、こういうものは誰しも感じられるでしょう?)
唯一神教というものには本来、こうしたものが内包されているように感じます。
しかし、そこに相対的な宗派的観念が持ち込まれることにより、その神は本来の生きたものでは無くなってしまうのです。
何故ならば、本当に神的なものを感じたならば、そこに普遍性というものが直観されるものだから!
神というものはどこまでも思いを超えている...故に普遍なるものに開かれているのです。
独善、狂信的精神に神は宿らない、それは神ならぬ思凝り神と知るべきなのです。
そこで、その実在、実存的なものに普遍的なものが結びつくことにより、あるいは普遍的な主神(先の宇宙の根源神的なもの)が直観される...かもしれない!
実存的、普遍的なものというのは、いずれも無限定なものであり、限定的な唯一という表現は、矛盾しているでしょうが、私はどうしても、個的にも普遍的にも、一なる主神というものを意識せずにおれないものを感じています。
これは、諸々の神に纏わる観念、異教の神(神と異なる神)から区別されるべく、神は生きている、実在しているとの思いから来るのでしょう。

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