"神について抽象的な教えを信じてたってしょうがない、直接経験によって知らなければダメですi"
というようなことを私が力説すると、宗教関係などで顔をひきつらせて、何かコワがってる表情を浮かべる人を何人も知っています。
中には「もっと常識的になさった方がいいです」などと言って話をそらす人も居るのです。
そりゃあ、私は常識的でない人間には違いないですよ。だけどねえ、神との関わりを説いている宗教的世界でのジョーシキっていうのはそういうものなんですか?
そして、"神的な光は私のすべて、隠されたものすべてを照らし、映し出すのですよi もう、どこにも逃げ隠れなど出来ないのですよi"、などと言おうものなら、恐怖は沸点に達して、そういう人は突然急用が生じて、あっという間に居なくなってしまうことでしょう(笑)
神様って、そんなに恐ろしいものなんでしょうか? そう、そういう事態というのは、人がそう感じているようにある意味で"裁き"に違いありません。
して、罪が暴かれ神の法によって罰が言い渡され、そのまま死んだら地獄行きが待っている...
それは然し、本当に神的なものを目の当たりにして感じたことでなく、すべて人伝に聞かされたことに過ぎないのです。
このように神を、地獄を恐れている人は、真の幸福を知ることは出来ないでしょう。
神と幸福とは切り離されないものだから...
ベルジャーエフは地獄について、それは人間の根源的自由意志に基づくもので、神的な生命を拒み、自我に閉じ籠ろうとする思念が作り出す世界である、と言っています。
彼のこの言葉には深く共感を覚えざるを得ません。「もし、永遠の地獄というものがあるのなら私は無神論者になる」
地獄は神でなく、自らが作り出している...それは生きていても、死んでいてもそうした意識状態が地獄的になっていると言えそうです。
滅びに向かうことは、神が定めたことでなく、自らが神から離れ、意識を閉ざすということなのです。
この事態からの救いは、思いを超えた次元からの光に預かるしかないでしょう。
そうです。神罰を、地獄を作り出し、そこに送り給うという神に向き合うということです。神に纏わる話には、何と転倒した思いに満ち溢れていることでしょう。
"神は罪を裁くもの"という観念は、我々の精神に根強く横たわっているようです。
もしかして、はるか昔我々はそのような厳格な法によって神に支配されていた時代があり、意識に深く根付いているのかも分かりません。
しかし、私はその同じ神が我々の内奥に息づいており、愛と平安をもたらすものだとは到底理解も出来ず、現実に受け入れることは不可能でしょう。
神観念には、こうした異なる側面が交錯していると感じざるを得ません。
そして、おそらく神の裁きということにも、思われたものでない、別の面が隠されていることが知られます。
自分の隠された暗い内面に光が差し込み、照らし出される...恩寵の光に預かる、幸福自体なるものと一如とされる...それは自分のすべてが知られることであり、ある面では裁きに映るでしょうが、このこと自体救いであることが知らされるでしょう。
救いとは、我々の精神をいつも苛み続ける罪意識、それを有ること無いこと挙げつらい、吹き込もうとする他の声、世の中の声からの救いでもあります。
私のすべてを照らすものと向き合えることにもまして救い、幸福というものが他にあるでしょうか?
もはや、恐ろしい神の手がかかるや、どこにも逃げ場が無いi、そっちに魂は赴かざるを得なくなるから...
そこで本当には何にまみえるのだろうか、恐ろしい審判か、無条件の愛か...こればかりは、各々直に向き合い、感じてもらうしかありません。
それは自分自身に向き合うということなのだから...
というようなことを私が力説すると、宗教関係などで顔をひきつらせて、何かコワがってる表情を浮かべる人を何人も知っています。
中には「もっと常識的になさった方がいいです」などと言って話をそらす人も居るのです。
そりゃあ、私は常識的でない人間には違いないですよ。だけどねえ、神との関わりを説いている宗教的世界でのジョーシキっていうのはそういうものなんですか?
そして、"神的な光は私のすべて、隠されたものすべてを照らし、映し出すのですよi もう、どこにも逃げ隠れなど出来ないのですよi"、などと言おうものなら、恐怖は沸点に達して、そういう人は突然急用が生じて、あっという間に居なくなってしまうことでしょう(笑)
神様って、そんなに恐ろしいものなんでしょうか? そう、そういう事態というのは、人がそう感じているようにある意味で"裁き"に違いありません。
して、罪が暴かれ神の法によって罰が言い渡され、そのまま死んだら地獄行きが待っている...
それは然し、本当に神的なものを目の当たりにして感じたことでなく、すべて人伝に聞かされたことに過ぎないのです。
このように神を、地獄を恐れている人は、真の幸福を知ることは出来ないでしょう。
神と幸福とは切り離されないものだから...
ベルジャーエフは地獄について、それは人間の根源的自由意志に基づくもので、神的な生命を拒み、自我に閉じ籠ろうとする思念が作り出す世界である、と言っています。
彼のこの言葉には深く共感を覚えざるを得ません。「もし、永遠の地獄というものがあるのなら私は無神論者になる」
地獄は神でなく、自らが作り出している...それは生きていても、死んでいてもそうした意識状態が地獄的になっていると言えそうです。
滅びに向かうことは、神が定めたことでなく、自らが神から離れ、意識を閉ざすということなのです。
この事態からの救いは、思いを超えた次元からの光に預かるしかないでしょう。
そうです。神罰を、地獄を作り出し、そこに送り給うという神に向き合うということです。神に纏わる話には、何と転倒した思いに満ち溢れていることでしょう。
"神は罪を裁くもの"という観念は、我々の精神に根強く横たわっているようです。
もしかして、はるか昔我々はそのような厳格な法によって神に支配されていた時代があり、意識に深く根付いているのかも分かりません。
しかし、私はその同じ神が我々の内奥に息づいており、愛と平安をもたらすものだとは到底理解も出来ず、現実に受け入れることは不可能でしょう。
神観念には、こうした異なる側面が交錯していると感じざるを得ません。
そして、おそらく神の裁きということにも、思われたものでない、別の面が隠されていることが知られます。
自分の隠された暗い内面に光が差し込み、照らし出される...恩寵の光に預かる、幸福自体なるものと一如とされる...それは自分のすべてが知られることであり、ある面では裁きに映るでしょうが、このこと自体救いであることが知らされるでしょう。
救いとは、我々の精神をいつも苛み続ける罪意識、それを有ること無いこと挙げつらい、吹き込もうとする他の声、世の中の声からの救いでもあります。
私のすべてを照らすものと向き合えることにもまして救い、幸福というものが他にあるでしょうか?
もはや、恐ろしい神の手がかかるや、どこにも逃げ場が無いi、そっちに魂は赴かざるを得なくなるから...
そこで本当には何にまみえるのだろうか、恐ろしい審判か、無条件の愛か...こればかりは、各々直に向き合い、感じてもらうしかありません。
それは自分自身に向き合うということなのだから...
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