人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

場としての現臨

2023-08-01 09:47:54 | 現臨、ハタラキ
精神的な道においては、修行などを通じて今の自分の状態、つまりは肉体レベル?の自分から、エーテル体、アストラル体...もしくは幽体、霊体...と段々微細な体的なものへと進化してゆく、という教えが根強く信じられているようです。
私などもそれを当たり前のように信じていた時期もあったのですが、勿論それは誰かが説いている、世間に知れ渡っている通説におもねっていたに過ぎず、実際は一度も自分の(肉体の中に)そうした微細体があるのを感じたことは無かったのです。(これは、あくまで私の場合のことなのであり、そういうものを実際に感じたことのある人の見解を否定するものではありません)
一つ言えることは、この教説からは、自分の肉体、その奥の自分の霊体...そして自分(が)その開発を目指して進化してゆかねばならない、と如何にも個我的な在り方に立脚している、させられている感じが拭えないということです。その多くが自力行と結びつくように...
然るに、私にはどうしてもかかる有り様では、個我を超える、つまりは自分の思いを超えるという消息が伝わってこないのです!
個我を超えることが進化なのかどうかは別として!...(”私が“進化するという思念が抜けないような進化など大したことはあるまい!)
クドいほど言っているように、個我の私からはその自分、その思いを超えることは出来ないのです。思いを超えたもの自体が臨まない限りは!
これを現臨と呼んでいる訳ですが、このものは、私の肉体の中にある、そういう隠れていたものが顕わになるという感じも確かにあるのですが、それは私の幽体、霊体であるとは言えません。何故ならば、それはまさに私の何かを超えているのだから!
より的確に言い表せば、それは私の中も周りも包んでいる、そういう場である!...現臨という場にあるということ...このこと自体が私という個我を超えていることを物語っているでしょう。
これは、おそらく西田哲学で説く”場所“という概念と通ずると思われますが、場所なんて言うと、どうしても何かで仕切られている特定の空間というものを連想してしまいます。
この見えない場なるものは、それ自体が臨んでいることにより、時間も空間もある種の限定がもたらされるようで、限定もされないとも言えるでしょう。いつ、どこにそれが臨むか分からないものだから!
とにかく、このものが”ここに”あれば、この私はただその場にあればいいのです!
私は私であって、私は超えられてあるのです。“私が進化しよう“なんて思うこともなく...このものにあって、それがどこに行くのか、どこに導かれるかは分かりません!
ただ、このものにあればいい!
前記した個的な進化の道では、そういう個的な段階を経て、コーザル体だかどっかでそれを超えた段階に移行するとか説いているのですが...
個的な修行を志したことも無く、そういう気根も無い私にはサッパリ分からないことです!...
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