悟りや覚醒に与るには、思考マインドや肉体感覚を無くさなければならないのです!...なんてことはない!
私は、それらから離れるとか後退させるというようなことはともかく、そんなこと言ったことは一度もありません。
ホントに無くしたら、ふにゃふにゃになって人間として生きていくことなど出来なくなりますよ!
何度か言っているように、悟りとかのことだけでなく、問題となることは、考えている自分、肉体としての自分、それ”のみ”、それ”だけ”がすべて”のように、そういう制限された思いに囚われている、ということに尽きるのです。
そこから自我意識というものが生まれてくるのです。だからそれを捨てたらいい...ってそうじゃない!...そう思っているのは間違いなくエゴマインドですよ!...そうして出来もしないことを考えているのです。
この自我は、本当に自分がここに現存していることがどういうことかが分からないのです!...考えるのだけど分からない、考えているから分からない?...
だけど、そういう実存感覚というもの自体、この自我意識なしには目覚めることは無いのではありませんか?
”私はここに在る”という感覚の、そもそも普通我々に始めに芽生える端緒は、”他の何ものでもない自己、一個なる自己、つまり個我意識と肉体感覚にあるのではないでしょうか?
ところが、あくまでそれらは、より包括的自己の見える形として表れている、部分的な存在なのであって、その私自身の現存を目の当たりにすることは出来ないのです。
それは、見えない、分からない!...ここがその限界を超え、突破に与るか、それに囚われてしまうかの分岐点なのです。
本当に自我意識の無い人間は、この地点に立つことは出来ないでしょう。
いや、普通に考えたら分かるでしょう。何故、人は誰でも物心が芽生えると、自我意識が発達するということが!
”自分がここに居るということはどういうことなのか?”、ということに否応なしに意識が向かわせられるのです。
又肉体があれば食欲も性欲も生まれます。それらが満たされたら幸福に感じるかもしれません。いいやそうじゃないでしょ?、そういう感じがするだけで満たされたらそれは無くなるでしょ?
そうして得たら、消えてしまい、得られなければ、失えば不幸になることばかり追いかけている...常住の幸福というものは、肉体的快楽には求められない...しかしこのことも肉体感覚あって分かるものでしょう?
限界というものが本当に分かることによって、初めてそれを超えたものがあるということに気付くことが出来るのです。
限界というものが意識されることが、超えたものに与ることなのです。
だから、自我意識、肉体はけっして否定さるべきものじゃないのです。
天与のものに、何一つそんなものなどあろう訳無いではありませんか?
少なくとも、自我意識無しには人間は誰も悟ることなど出来ないでしょう!?...
私は、それらから離れるとか後退させるというようなことはともかく、そんなこと言ったことは一度もありません。
ホントに無くしたら、ふにゃふにゃになって人間として生きていくことなど出来なくなりますよ!
何度か言っているように、悟りとかのことだけでなく、問題となることは、考えている自分、肉体としての自分、それ”のみ”、それ”だけ”がすべて”のように、そういう制限された思いに囚われている、ということに尽きるのです。
そこから自我意識というものが生まれてくるのです。だからそれを捨てたらいい...ってそうじゃない!...そう思っているのは間違いなくエゴマインドですよ!...そうして出来もしないことを考えているのです。
この自我は、本当に自分がここに現存していることがどういうことかが分からないのです!...考えるのだけど分からない、考えているから分からない?...
だけど、そういう実存感覚というもの自体、この自我意識なしには目覚めることは無いのではありませんか?
”私はここに在る”という感覚の、そもそも普通我々に始めに芽生える端緒は、”他の何ものでもない自己、一個なる自己、つまり個我意識と肉体感覚にあるのではないでしょうか?
ところが、あくまでそれらは、より包括的自己の見える形として表れている、部分的な存在なのであって、その私自身の現存を目の当たりにすることは出来ないのです。
それは、見えない、分からない!...ここがその限界を超え、突破に与るか、それに囚われてしまうかの分岐点なのです。
本当に自我意識の無い人間は、この地点に立つことは出来ないでしょう。
いや、普通に考えたら分かるでしょう。何故、人は誰でも物心が芽生えると、自我意識が発達するということが!
”自分がここに居るということはどういうことなのか?”、ということに否応なしに意識が向かわせられるのです。
又肉体があれば食欲も性欲も生まれます。それらが満たされたら幸福に感じるかもしれません。いいやそうじゃないでしょ?、そういう感じがするだけで満たされたらそれは無くなるでしょ?
そうして得たら、消えてしまい、得られなければ、失えば不幸になることばかり追いかけている...常住の幸福というものは、肉体的快楽には求められない...しかしこのことも肉体感覚あって分かるものでしょう?
限界というものが本当に分かることによって、初めてそれを超えたものがあるということに気付くことが出来るのです。
限界というものが意識されることが、超えたものに与ることなのです。
だから、自我意識、肉体はけっして否定さるべきものじゃないのです。
天与のものに、何一つそんなものなどあろう訳無いではありませんか?
少なくとも、自我意識無しには人間は誰も悟ることなど出来ないでしょう!?...
言えることは思考マインドだけが、私を個と認識するし、何かを望んでしまう。すると望むこと自体が思考でありトータルなものではない訳です。
体験そのものでしかない存在を言葉(思考)で切り捨てたら当然エンストを起こしますね。それは思考が実在すると思ってしまうからかも知れません。思考に偏ることの誤りを理解していなくては、思考で望むすべてのことがエンストの危険を孕んでいますね。
これは、人間は思考マインドだけで生きていない、ということを表しているのでしょう。
思考のみでない、トータルな私が何を望んでいるかということが重要なことでしょう。
思考だけに偏っていたら、エンストを起こすのは目に見えています。
私が人間賛歌を唄うのは、そのシステムのような、おそらく万人共有の指向性に価値を感じるからです。
悟りに入って座することには大した意味を感じません。思考をどこまでも解き明かすことには一生を投じてもいいような価値を思うのです。
大聖人がどう云ったところで、文献が山とあったところで、肉体を持つ人間の個人という意識は動かしがたいのですから、仮に悟りを開いて人間を越えた聖人が現れたとしても、個人の意識の救いにはならない訳ですね。意識が単に思い込みだとしても、同じことでしょう。
私の提唱する五次元は、その意識そのものが自ら気付きによって悟りに近い、ほぼ同じの認識を持ちうるという事実を伝えているだけなのです。
宗教やスピリチュアルでは、”それはダメ、間違いだ!”と決めつける向きも多いようですが、それもトラワレの表れだと思います。
貴ブログ記事の全てを読ませてもらったことはないのですが、なんとなく論調が現臨に重きを感じておりました。
現臨と人間存在が平等に扱われて嬉しいです。
ここを進んでいくと、思考が現臨の中に溶け込んでいく風景が現れてくると私は思っています。
人間賛歌を唄いたい心境です(笑)