私が精神的な道、霊性の道について書いていることは、ほとんどが一つの概念では語り得ない、他のあらゆるものと分けることの出来ない、統合性をもったものを言い表しているのです。けだし、自己の内奥が開かれるということはそういうことなのです。
例えば、”意識的になる”、ということは”神的な現臨にある意識状態”にある、と言ってもよく、少なくとも私は、必ずと言っていいほどそういう状態になってしまうのです。
これは又、極めて実存的なことを言っているのです。
そして、とどのつまりは、”神的なものと私は分けることが出来ない”、のだと!...
これらは、すべて内的なことを表しているに他なりません。
”え?、それは外的なことと分けられているではないか?”、という理屈も聞こえてくるかもしれません。それに対し、”ええ、それはまったく違うことで、分ける必要があります”、と私はハッキリ答えますよ!
私は精神的な、霊性の道について語っているのです。それが深められるならば、こんなことは説明するまでもなく、自明なことではないか?
ここで外的なこととはどういうことか?...それは、例の反面教師がいつも書いているようなことです。
”多くの人が覚醒したら、宇宙の意志からすると、イレギュラーなことになる”とか...いつものことで不適切なので削除します、とだけ言ってたらいいのに、後日改めて書きます、なんて何の根拠も中身も無い、ただ誰かの説を鵜呑みにしただけか、そうでなくとも頭の空想ごとに過ぎない、それを知ったからといって、何のタシにもならないことなど、書くだけ、いや考えるだけ無駄なことではないか!...
要するに、考える自分が主導となって、能動的に自分とは直接関係の無い、宇宙意志だののことを思い描こうとすること...頭脳知であれこれ空想したり、他人の言葉に依存したりして、自分自身から離れて、思いがその外に向けられるようなことなのです。(この御仁は、思考マインドの世界とそれを超えた世界の区別がつかないのでしょう)
一方、このように、霊性が深まるとは、自分自身が内的に深まることと言ってもいいのです。
しかし、それは、自己内世界に閉じこもることを意味するのでは全くありません。
そうした実存に目覚めた人間も、通常思われている、人間社会や自然環境など”自分の外の世界”で生きるのに変わりは無いのです。
ただ、その外側の世界と自己の内的な世界は切り離されたようには感じてこない...自分のまわりの世界は神的な現臨と共にあるように感じられるのです。
これを”世界は神の内にある”、感じと言ってもいいでしょう。
そうは言っても、考える私からは中々思いを超えられないのも事実ですね。
最初から超えられている人など居ないというのも当たり前のことです。
だからだから...これを分かつ道は、自分の思いに囚われ続けるか、それを超えたものの臨みを待ち望むか、祈りをもって心が開かれるか、ということだけなんだ!
私は何度も書いているように、このことは五井先生との出会いから始まったことなのです。
(これをヤツが読んだらどう思うだろうか?...ま、私には関係無いこと、どうでもええが!...)
例えば、”意識的になる”、ということは”神的な現臨にある意識状態”にある、と言ってもよく、少なくとも私は、必ずと言っていいほどそういう状態になってしまうのです。
これは又、極めて実存的なことを言っているのです。
そして、とどのつまりは、”神的なものと私は分けることが出来ない”、のだと!...
これらは、すべて内的なことを表しているに他なりません。
”え?、それは外的なことと分けられているではないか?”、という理屈も聞こえてくるかもしれません。それに対し、”ええ、それはまったく違うことで、分ける必要があります”、と私はハッキリ答えますよ!
私は精神的な、霊性の道について語っているのです。それが深められるならば、こんなことは説明するまでもなく、自明なことではないか?
ここで外的なこととはどういうことか?...それは、例の反面教師がいつも書いているようなことです。
”多くの人が覚醒したら、宇宙の意志からすると、イレギュラーなことになる”とか...いつものことで不適切なので削除します、とだけ言ってたらいいのに、後日改めて書きます、なんて何の根拠も中身も無い、ただ誰かの説を鵜呑みにしただけか、そうでなくとも頭の空想ごとに過ぎない、それを知ったからといって、何のタシにもならないことなど、書くだけ、いや考えるだけ無駄なことではないか!...
要するに、考える自分が主導となって、能動的に自分とは直接関係の無い、宇宙意志だののことを思い描こうとすること...頭脳知であれこれ空想したり、他人の言葉に依存したりして、自分自身から離れて、思いがその外に向けられるようなことなのです。(この御仁は、思考マインドの世界とそれを超えた世界の区別がつかないのでしょう)
一方、このように、霊性が深まるとは、自分自身が内的に深まることと言ってもいいのです。
しかし、それは、自己内世界に閉じこもることを意味するのでは全くありません。
そうした実存に目覚めた人間も、通常思われている、人間社会や自然環境など”自分の外の世界”で生きるのに変わりは無いのです。
ただ、その外側の世界と自己の内的な世界は切り離されたようには感じてこない...自分のまわりの世界は神的な現臨と共にあるように感じられるのです。
これを”世界は神の内にある”、感じと言ってもいいでしょう。
そうは言っても、考える私からは中々思いを超えられないのも事実ですね。
最初から超えられている人など居ないというのも当たり前のことです。
だからだから...これを分かつ道は、自分の思いに囚われ続けるか、それを超えたものの臨みを待ち望むか、祈りをもって心が開かれるか、ということだけなんだ!
私は何度も書いているように、このことは五井先生との出会いから始まったことなのです。
(これをヤツが読んだらどう思うだろうか?...ま、私には関係無いこと、どうでもええが!...)
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