人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

随所が主となる

2016-11-17 10:42:38 | 求道、探究
「随所に主となれば、立つところ皆真なり」

この臨済禅師の言葉は、企業の訓示などでもしばしば取り上げられていて有名ですが、目の前の事物を自分と分けて対象化することなく、そのものになり切るなど、主体的に処していく、という意味だそうですね。
しか―し…ひねくれ者の私はそんな通り一遍のことを書く気などありません。
使徒パウロは、かく言う「万物は主によって存在し、私たちも主によって存在している」(コリント書)
この主とはもちろんキリスト・イエスを指している訳ですが、私はよくぞ聖書の訳者は、この”Lord”に主という訳語を与えてくれたものだ、とつくづく感嘆させられます。
主とは…抽象概念でない、あなた自身の主とは?…あなたの生きる主体とは?
私はここに、本当の自分が何だかわからなくて、アチコチ探究してたり、置かれた事物を目の前に懸命に「そのものになるんだ、無念無想だーッ…」と自分からなり切ることに余念のない有り様(自力の探究)でも無く、上から(エライ人など)言われるままにただ教えを信じ込み、自分以外の超越した存在とされるものにひたすら縋っていくという有り様(他力信仰)でも無い、第三?(これは巷でほとんど認知されてないのです!)の主なる道を提げたい気持ちに駆られてくるのです。
私はいくらこの問題だらけの有機体を客観的に見つめようとしても、自分自身の主体を見つけることが出来ませんでした。
唯一の救い主(とされる)イエスはじめ、何らかの信仰対象は、既に特定の宗教信仰というものが破綻してしまったので、到底受け入れることなど出来ません。
だが…こうした手探りの探究、信仰の真似事を通していつの間にか芽生えてきたのです。”ジンジン”とあるものが…
ある書物に読み入っていて、内側からあるいは上から身が震えるような共感を呼ぶ時、祈りや瞑想が深ーくなって、自分と周りとの境目がボヤけてきて、しばし至福にあった時…いつもこのものに包まれていたのです。
主体…確かに他の何物にも置き換えられないこの人生の真っ中心のもの…それはこのチッポケな自分には、帰せられないものです。と同時にそれはどこまでも私そのものでもあります! それは上よりの力であり、内側から抗し難く突き上げてきて、全身全霊に及ぶものです。
小池先生は晩年「私の祈りは”主様!”の一言で足りてしまう…」とよく言われていましたが、全くそれは我が主に違いありません!
誤魔化してはいけません! それ自体、主体となるにはおぼつかず、問題だらけの思われたままの自己、自我にとって真我、神我的なものこそ主であるのです。
”我が一切である”…私自身と一枚のものです。
私はこの語るに微妙にして自明なる契機によって、このままの自分が悟ったり、神そのものになってしまうような誘惑、眩惑からも、自分の外に超越者を信じ仰ぎ続ける依存的信仰からも自由でいられたのです。
主体性を欠いた人生ほど不毛な、不幸な事は無いです…本当に身が頷いている訳でも無いのに、大衆、世間に迎合したり、ちっとも気が進まないのに、ナア、ナアから歩まされてしまった生き方…有るとも無いとも分からないようなものへの妄想信仰…これらはますます”心ここに非ず”という事態に堕ってしまうことになるでしょう…
主と共にある時、精神を集中せずとも、自ずと心はここに帰ってきます。我らの主は現実に臨むものだから…
そしてあなた自身ばかりか、あなたの観る世界,歴史にも光が当てられて来ます。
随所に主となれるのは、そうあらしめる主あってのものなのです。
随所に…というか随所主となるのです。











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