私は、所謂自力修行の道とは縁が無かったと何度も言ってきました。
ということは、修行して自己を完成させようという方には意識が向けられなかったということです。そういう気根が無かったということでもあるのですが...
自己完成という道は、多く究極の悟りを得ることと結び付けられるようです。
究極の悟りに至ると、自分が無くなってしまうとも言われていて、矛盾したところに行き着いてしまうようなのですが、修行の道をとことん究めるというパッションは共通しているように思われます。
自分の思いを無くさなければならない...
七つあるとかいうチャクラを開かなければならない...
あるいは、霊体といったものは、最初から与えられていないので、修行して形成しなければならない(グルジェフの説)...
要するに、自分を無くそうが、別の自分になろうが、自分をどうとかしよう、ということなのでしょう?
これらに携わるってーのは、私にゃもう、超人的努力にしか思われません。
フツー並みの努力すら為し得ないというのに...そんな自分のことなんかどうしようもないでっしゃろ!
そういうこともあってか意識が向けられない、そっちに動いていかないのです。
もう、唯々神的なものの方に動いてしまう...
中には、”神につながるにはまず自己を完成しなければならない”、と言う人も居るでしょう。そうかもしれません。そうでないかも...保障など無いでしょう。途中でおかしくなるかもしれませんし...
もっとも、神に意識が向いても、それでつながるとも言えないようですが...自ずと向いてしまうということは、何かのつながりがあるのかも...しれない!
自己完成しようが、しまいが...自己完成?...どっちでもいい!
自分のことじゃない!...他者のことです!って...他者?、誰だ、そりゃ?...それもどっちでもいい!
自分のことじゃなければ、他者のためってことにはなりません。
自も他も無い!...といって、どっちも無い、どっちのためでもない、ということじゃありません!
切り離すことは出来ないのです。そう、どんなにダメだろうと、私もそこにちゃんとある!
”神的なものにある”、とはそういうことなのです。
私個人をどうこうしなくても、何かが動いている、進んでいる、創造されている!...何かの完成のためだろうか?...それとも?
私は何もしてないし、出来もしないのに、そうしたことに関わっている感じがしてしまうのは何故なのでしょう。
それでいいのか?...多分いいんでしょう。自ずと意識が向いてしまうのだから...
ということは、修行して自己を完成させようという方には意識が向けられなかったということです。そういう気根が無かったということでもあるのですが...
自己完成という道は、多く究極の悟りを得ることと結び付けられるようです。
究極の悟りに至ると、自分が無くなってしまうとも言われていて、矛盾したところに行き着いてしまうようなのですが、修行の道をとことん究めるというパッションは共通しているように思われます。
自分の思いを無くさなければならない...
七つあるとかいうチャクラを開かなければならない...
あるいは、霊体といったものは、最初から与えられていないので、修行して形成しなければならない(グルジェフの説)...
要するに、自分を無くそうが、別の自分になろうが、自分をどうとかしよう、ということなのでしょう?
これらに携わるってーのは、私にゃもう、超人的努力にしか思われません。
フツー並みの努力すら為し得ないというのに...そんな自分のことなんかどうしようもないでっしゃろ!
そういうこともあってか意識が向けられない、そっちに動いていかないのです。
もう、唯々神的なものの方に動いてしまう...
中には、”神につながるにはまず自己を完成しなければならない”、と言う人も居るでしょう。そうかもしれません。そうでないかも...保障など無いでしょう。途中でおかしくなるかもしれませんし...
もっとも、神に意識が向いても、それでつながるとも言えないようですが...自ずと向いてしまうということは、何かのつながりがあるのかも...しれない!
自己完成しようが、しまいが...自己完成?...どっちでもいい!
自分のことじゃない!...他者のことです!って...他者?、誰だ、そりゃ?...それもどっちでもいい!
自分のことじゃなければ、他者のためってことにはなりません。
自も他も無い!...といって、どっちも無い、どっちのためでもない、ということじゃありません!
切り離すことは出来ないのです。そう、どんなにダメだろうと、私もそこにちゃんとある!
”神的なものにある”、とはそういうことなのです。
私個人をどうこうしなくても、何かが動いている、進んでいる、創造されている!...何かの完成のためだろうか?...それとも?
私は何もしてないし、出来もしないのに、そうしたことに関わっている感じがしてしまうのは何故なのでしょう。
それでいいのか?...多分いいんでしょう。自ずと意識が向いてしまうのだから...
修行して自己完成するということに否定的に書かれていることに共感しました。
すでに完結しているのに、何を努力するの?ですよね。
己を無にするというのは、その努力を無にしなさいということですから、なんだか木こりが自分の乗った木の枝を根元から切っているような感じですね。
私が共感するのは、何も分からなくとも懸命に生きているということですよね。生きながら、私達はその完結している見事な機能や感性に気付いて行くということなのでしょう。
私が提唱している五次元と言うのは、まさにこのことなんですね。世界を認識する力のことです。
三次元の空間を時間軸で思い描く力(四次元)に加えて、スケール軸で思い描く(五次元)の性能・能力も持ち合わせているよ。と言う話なんですね。
それに気付くと、今在る横に拡がる世界観が縦にも無限に広がる世界を認識できるようになって、心にxy座標のようなひろがりを体験できる訳です。
特殊な修行が近道になることもありませんし、自己を無くさなければ得られないものでもありません。
私には到底出来ることではありませんが、スマホの機能を使い尽くすみたいなことで、自己を生き尽くすみたいなことです。
何もできないのに、実在に関係していると感じること、それこそがここで現臨と呼ばれている体感ではないかと推測いたします。
ただ、太陽の恩恵のように、それを超えたものとも大きく関わっており、自己は自己だけで成り立っている訳ではないということですね。
それを言い表す表現も人それぞれにあることでしょう。
いわゆる完結のとらえ方ですよね。
否定的に見れば、完成と言う目的意識が、実在からそれてしまうことがあるということですね。
太陽の恩恵、あるいは空の恩恵の中に自己があるのですから、その恩恵を意識しようとする修行はある意味大切ですよね。
修行の方向が、恩恵に向かっているのか
自我の完成に向かっているのかによって、肯定的にも否定的にもなる。
ですから自分自身に即して書かないものは信用できないと感じるものですから、ついこちらの記事に魅かれるのです。
意識の在り方、方向性ですべて決まると思います。
ある同じ修行方法に則っていて、人によって導かれ方、結果が異なるのは、縁というものもあるでしょうが、こういう理由からだと思います。
だから”この方法で必ず○○するというのはウソでしょう。それがそういうものに私が関心がない理由でもあります。
「この方法で必ず○○するというのはウソでしょう。」
まさにそうですね。ところが面白いことに、これが自分自身に対してももあてはまるのです。
私はそれに随分だまされました。
こういうことです。ある方法で現臨に出逢えたのですが、次々と同じ方法でやっていると、現臨どころか、元の木阿弥になってしまうのです。
自分の中であっても、この方法で必ず○○するは大嘘なのですね。
その本質は、ものまねなんですが、最大のものまねは自分自身を真似ることで、それがマンネリの温床になりますね。芸術家は特にそのことを肝に銘じていなければと思っているのです。
「この方法で必ず○○するというのはウソでしょう。」
まさにそうですね。ところが面白いことに、これが自分自身に対してももあてはまるのです。
私はそれに随分だまされました。
こういうことです。ある方法で現臨に出逢えたのですが、次々と同じ方法でやっていると、現臨どころか、元の木阿弥になってしまうのです。
自分の中であっても、この方法で必ず○○するは大嘘なのですね。
その本質は、ものまねなんですが、最大のものまねは自分自身を真似ることで、それがマンネリの温床になりますね。芸術家は特にそのことを肝に銘じていなければと思っているのです。
方法に頼ろうとして、元の木阿弥になるのは、思念にとらわれるからだと思います。
誰かの言葉ですが
チョー気持ちイイ!
ありがとうございました。