私は、ここでよく、”任せる、全託“、ということを言っています。
こういう表現は、例えば人生において、ある岐路に立たされて、どちらに行こうか、決めあぐんでいる時、“天にお任せしよう!”、などと使ったりしますが、ほとんどそういうニュアンスで言うことはありません。
勿論、そういう状況というのはある訳で、天にお任せしたつもりになることもあり、結果上手く行くこともあり、スコタンを食うこともある...それが人生というものですね。
天の、神の意志は那辺にあるのか分からないのです。
だけど、人生には思いを超えたものが介在することもある!...その実体は何か分からないが、このことははっきり分かります。
そう、ここで言っている、“任せること”というのは、ほとんどの場合、現臨との関連で言っているのです!
つまり、どこにあるのか分からない神の意志にゆだねるということじゃないのです!
というより、言葉ではそう言うけど、現実に任せる、ゆだねる、なんてこと出来るでしょうか? 任せたつもりになるだけじゃないでしょうか? それは、自分の思いでそう決心するというようなことでしょう。
意識が現臨に捉えられるということは、そうしようにも思考が後退(無くなる訳ではない)してしまうということなのです。
だから...任せるしかない、ゆだねるしかない!、のです!
これは、そうさせるものがあって、始めてそうなることなのです。
これを難しいとか、何とか言うこと自体オカシイことでしょ!、いくら修行したって無理ですよ!、無為に行われることというのは!
で、そうなることは、良いことなのか、スコタンなことなのか?、って!
人生には、良いこともスコタンもあるだろう...だけど、この不如意な事態っていうのは...良いに決まっているだろーっ!
”天に任ようか、しかし私の思いではこうしたい...“、な~んて思いを超えて、既に幸福に与っているのですよ!...だから任せるしかないのです!
とはいうものの、ゆくゆくはそれが天の、神の意志だとして、私をどこに導くのかは分からないのです。
まだ、そういうことを“考えられる“からそう思うのでしょうが、ゆくゆくは全託しかないということになる...かもしれない?...
こういう表現は、例えば人生において、ある岐路に立たされて、どちらに行こうか、決めあぐんでいる時、“天にお任せしよう!”、などと使ったりしますが、ほとんどそういうニュアンスで言うことはありません。
勿論、そういう状況というのはある訳で、天にお任せしたつもりになることもあり、結果上手く行くこともあり、スコタンを食うこともある...それが人生というものですね。
天の、神の意志は那辺にあるのか分からないのです。
だけど、人生には思いを超えたものが介在することもある!...その実体は何か分からないが、このことははっきり分かります。
そう、ここで言っている、“任せること”というのは、ほとんどの場合、現臨との関連で言っているのです!
つまり、どこにあるのか分からない神の意志にゆだねるということじゃないのです!
というより、言葉ではそう言うけど、現実に任せる、ゆだねる、なんてこと出来るでしょうか? 任せたつもりになるだけじゃないでしょうか? それは、自分の思いでそう決心するというようなことでしょう。
意識が現臨に捉えられるということは、そうしようにも思考が後退(無くなる訳ではない)してしまうということなのです。
だから...任せるしかない、ゆだねるしかない!、のです!
これは、そうさせるものがあって、始めてそうなることなのです。
これを難しいとか、何とか言うこと自体オカシイことでしょ!、いくら修行したって無理ですよ!、無為に行われることというのは!
で、そうなることは、良いことなのか、スコタンなことなのか?、って!
人生には、良いこともスコタンもあるだろう...だけど、この不如意な事態っていうのは...良いに決まっているだろーっ!
”天に任ようか、しかし私の思いではこうしたい...“、な~んて思いを超えて、既に幸福に与っているのですよ!...だから任せるしかないのです!
とはいうものの、ゆくゆくはそれが天の、神の意志だとして、私をどこに導くのかは分からないのです。
まだ、そういうことを“考えられる“からそう思うのでしょうが、ゆくゆくは全託しかないということになる...かもしれない?...
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