人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

業生の自分が悟るのではない!

2022-06-04 10:17:20 | 求道、探究
宗教でもスピでも、精神的な道を歩んでいる人というのは、とにかく今の自分の有り様から変わりたがるものです。
私も御多聞にもれないクチだったのですが、変わろうとして変わったタメシなど一度としてありませんでした。
しかしながら、“もう、いい!、ヤメた、ヤメた!”、とサジを投げたら、ぱーっと何かが開かれた感じになったりとかありまして...皆さんも経験があるのではないですか?
何でそうなるのか?...もう、分かり切ったことです!、それは意識してかしないでか、思われた自分を手放すことをしている、させられていることだからです。
これは、正しい自分、進んだ自分、悟った自分になりたがろうとする人間には絶対に分からないことなのです。この道理の分からない長年の奮闘努力、いやご苦労さんなことです!
何になろう、たって、ありのままの自分にしかなれっこないのに...
デキナイ自分、ダメな自分、悪い自分...多くは自分でそう思っているだけなのですが...認めたくない!、見たくない!...だから、”変わらなくっちゃあ!“...だからいつまで経っても変わらない!
このことをもっと深く言えば、ありのままの自分を認める(認めるも何もそうなっているのです!)ということは、現臨に与ることにつながってくるのです。
何かになろうとする思いから離れ、それを超えたものにゆだねることが出来るのです。ゆだねられるものがあるのです!
これは、自分からは中々そうなりません。このものが臨むことと、ありのままの自分を受け入れることは一つのことと言えるでしょう。
自分の思い、力に頼ろうとする人間は、いつまで経っても現臨の光を受けることが出来ないのです。それがありのままの自分を映し出すに他なりません。
業生の人間は、どこまでも業生の人間...ありのままの自分を受け入れられないことが最大の業ではないだろうか!
“業生の自分が悟るのではない!”...自分の思い、力をどんなに改良したり、強化したり、それを積み重ねようとしても、けっして真我の目覚めには至らないでしょう。
本当の自分?...ありのままの自分を置いて、一体どこにそれがあるのだろうか?
それから離れて、一体何になるというのだろうか?
ありのままの自分に現臨が臨むのです。
現臨と真我というものは切り離されないものなのでしょう。
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