人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨ー神の臨在

2022-08-27 09:47:35 | 現臨、ハタラキ
改めて書きますが、現臨と私が呼んでいるものは、何ら特殊なことを言っているのではなく、あらゆる宗教、スピなどに関わるはずのもの、と私は思っているのです。
そんなややこしいこと言わなくても、普通にそれを“神“と呼んでもいいでしょう。
しかし、“神を信じる“と普通に言われているように、あまりにも観念的な有り様となっている帰来があります。神はほとんど信じる対象として捉えられているのです。
それでは、いつまでも神の内実に触れることは無いでしょう。神は抽象的に思い描かれているだけなのだから...
神について考え続けている...この思考マインドを超えない限り、神と関わることは無いのです!
さりとて、その限界にある、思考している私からは超えることは出来ません。
ここに、その超越者自らが我々の内に臨んで来るものを現臨と呼んでいるに他ならないのです。この意味で、それは“神の臨在“と言ってもいいでしょう。
又、対象として神を信じるという場合、信じる私とその対象である神は、二元的に分かれたままになっているので、やはり触れる、関わることはありませんが、臨在ということは、そのこと自体が現存を実感していることであり、それを認識している私と切り離されていないということを言い表しているのです。
その私とは、もはや思考している私ではありません!...といってそれだけで思考が無くなるという訳でなく、その限界を超えたものに意識がつながり、そこにより根底的なものが置かれるようになるということです。
つまりは、思考している私には分からなかった、自己実存がそこに開かれるということです。
といってそれは勿論、実存とは何ぞや?、という抽象的思弁を巡らすことではなく、本当の自分を真当たりにするという実感から導き出されるのです。
...と、いうように書いて来て、思いを超えた世界のことは言うまでもなく、到底言葉に言い表せるものではありません。又、どうか私の言葉に囚われないで欲しいです!
私の言葉を無闇に信じないで下さい!
信じられない、ついて来れないのなら、無理に信じたり、従っても無駄ですよ!
ご存じの通り、宗教、スピ界隈には“信仰の強要“が沢山行われています。
当人が本当に得心している訳でもないのに、神の如き教師がそう言っているから、信じ、従わなければならない、なんて流儀が罷り通っている訳です。(ことにそれが、非二元の道を謳っているとあっては、ナンセンスの極みと言う他ありません!)
私はここには、個々の実存的意義が蔑ろにされていることと、もっとも肝心なことが抜け落ちている、と感じてならなかったのです。
それは、そのように信じさせるもの、信じざるを得ないことに現実に意識が向かわされる、そのように導く、見えないあるもののことです。
いつまでも観念の流儀に従わされていては、神の内実は開かれないではないか?!
それは、御自らが臨むことで開かれる...そしてそれは自分自身が開かれることと一つのことではないか?
私がややこしいことを言い始めた背景には、このようなことが横たわっていたのです!...
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