人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛に拠る支配

2023-11-21 09:17:53 | 
神的なものに意識を向けると、何か自分自身に中心のようなものが生まれて、自ずからそれに意識が集まってくるようになります。
又、そういう中心があるから、意識が向けられるとも言えるのです。
何にしても、あれこれバラバラに思いが馳せ巡り、あるいは何かに囚われたりして、困難を極める精神統一みたいなことに自然となってしまうのです。
これは、自分の中に真の統率者、真宰が現れたようなものでしょう。
それからというもの、精神的な道で超能力的なこととか、考えても分からないような異次元のことなど、どうでもいいことに囚われることも、ある教えや教師にことさら権威を与えてしまう、妄信的な思いからも解放されるようになりました。
何が第一義のものなのか、中心となるものが示されるのですからね。
則ちそれは、多くの人はそう考えるであろう、常に正しい、真理と共にあるものなんだ!...ってことでも無いんですが!...
何が正しくて、何が真理かってことは、この思われた自分が判断することでしょうし、それが他の人に通ずるかどうかも分からないものでしょう?
又、そういうものを他人に及ぼそうとしたり、時に押しつけたりして反感を買ったり争いの元になったりするものです。
だから正義、真理と云えども、私にはここでいう中心となるものとはならないと感じざるを得ません。
ではこれは...愛、平安と共にあるものなのです。
私の真宰は愛を持って私を支配、統治したもうのであります。支配というには当たらないですが...
それは権力、力というものに拠るのではないのです。
そういうものには、自分は屈服、隷従されるということがある...しかし、そこに私は何ら私の主体性が失われることなく、無条件に、私の根底から統べられてしまうのです。
理屈抜きに、惹かれるままにそうなるということなのです。
ここからこの現実世界に思いを向ければ...
何が、最も大切なものとして何を欠いているか、何が失われているか、全く自明なことではないか?!
正義を振りかざす統治者、権力者はゴマンと居る...彼らは次から次へと争いを生み出し、世を益々混乱に陥れるばかりではないか!
愛は?...いや、我々はそういうことを易々とは語れないのです。
愛という言葉は、歌の世界には溢れているが!
愛は、愛するという感情があり、それに基づいて誰かを愛する、愛されるという行動に結びつけられています。
いや、愛というものは...そのもののことで、何かに置き換えることが出来ないのです。
だから愛としか言いようがありません。
それが感じられないということは、我々は、神的なものと共にない、ということに尽きるのです!
我々に中心となるものは無い、統べられていない!
だからだから、神と言わず、自分を超えた大いなるものでも、名前は何でもいい...思いを、意識を向けることをいつも言い続けているのです。
それは、自分以外の何ものかに支配されてしまうことではありません。
自分も、周りもより生きるようになることに他ならないのです。
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この普遍世界に向けて!

2023-11-19 09:28:44 | 宗教
普遍性へと開かれたものとして降ろされた、五井先生が提唱された「世界平和の祈り」もその祈り言に囚われたためか、一宗一派の祈りになってしまった感のあるのは実に残念なことです。
その点、出口王仁三郎師が「世界の宗教の統一とは、世界中を大本の教えにすることではない。名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが何でもよい。すべての宗教団体なり思想界が、宇宙根源の神の意志どおりになったら、それで世界の平和は実現するのだ」と述べていたことに私は普遍世界に開かれた精神を感じざるを得ません。
その宗派の信者たちが、その置かれた立場でその奉ずる神仏なりに、本当に意識を向け続けたらいいのです。それはやはり祈りを通して(勿論、形は慣れ親しんだものに則ったもので構わない)ということになるでしょう。
ところが、各宗派の人たちはそうして祈りをしているかというと、多分してないだろうと思いますよ。していても因習、形式に堕してしまっていることでしょう?
それよりも、教会や寺社の維持とか、諸々の行事などで忙しくて、なおざりになっているんじゃないですか?
とにかく宗教団体というのは、どこでも老朽化しているのが現状なのでしょう。
だから、意識的になって祈りをすることが必要なのです。意識的に祈るとは、観念ごとじゃなく、その宗教の原始に立ち返って、神的なものに帰一することに他なりません。
もっとも、それは、各自の思いを超えるばかりか、その宗派の枠も超えてしまうことにもつながるかもしれないのですが...それが普遍性に目覚めるということなんだ!
又、日本人は無宗教だ、なんて言われていますが、特定の宗派に属さないことが無宗教を意味するなど、とんでもない認識不足と言わねばならないでしょう。
これは、その実日本という国は、無教会、無宗派信者の天国ということの裏返しではありませんか?
無教会、無宗派とは、因習やセクト性から自由であるということ...自由であるとは精神的にいつも若いということです。
こういう人たちこそは、自由な精神で、祈りや瞑想を通し、神的なものにつながることが出来るでしょう。
日本人は生まれた時からこういう特権に恵まれていると言えるのです。
一度、宗派に属している人も属さない人も、皆にその内に眠っている火種に火が付くなら、それはもう大変な世界平和実現に向けての、大きな“うねり“をもたらすことになるであろうことは、私には手に取るように感じられることなのです。

私はこういうあまりに不相応な、大それたことを声高らかに叫ぶつもりなど毛頭ありません。
一自由人の、言い換えれば一無生産者の戯言と思って頂いて結構です。
ただ、これを読んで頂いた縁ある人たちに、私の思い、祈りが伝わらんことを願って記しただけなのです。
心ある方の意識にとどめられんことを!...
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唯一の主神

2023-11-18 09:26:36 | 
神と一口に言っても、観方、感じ方は様々であり、色々な神様が居るようですね?
いくら“神は一つ“と言おうが、それはそういう神観の一つと見なされてしまうのでしょう。
又、心霊(神霊?)学的に、宇宙の根本神というか、支配神という神がおり(これは勿論唯一神的な観方がなされている訳ですが)、その下に二が三に四に...という風に“分神“していって、所謂守護神、守護霊として、各個人につくように降りてくる、といった説明もあるのです。
宗教学的には先の一神論とか多神論、汎神論などがある訳です。
しかし、これらのことはすべて説明に過ぎないということを知らねばなりません。
そんな紙に書いてあるようなことで神のことが分かってたまるか、ってんです!
だから、我々のうちに神は生きていない、と言わねばならないのです。
“私の周りにも内にも神はアリアリと生きたもう!“、そういう意味での実存、実在神しか神はお在さないのです!
自己と直接つながっている神、それは先の守護の神霊のことでしょうか?...そうかもしれませんが...本当のところは分からない、知りません!、いや知る必要も無い!...頭で思い描いたような神など知ってどうなるというのか!
宇宙の根源神だろうと、何教の神だろうと同じことですよ!
自己実存と切り離された神は、すべて想像されたものに過ぎないのです。だから一人一人にとっての実在神こそが唯一神、唯一なる主神と言えるでしょう。
それは、そのもの無しには私自身も存在出来ないもの、私のすべての主なるものに他なりません。(神という言葉に囚われなくても、こういうものは誰しも感じられるでしょう?)
唯一神教というものには本来、こうしたものが内包されているように感じます。
しかし、そこに相対的な宗派的観念が持ち込まれることにより、その神は本来の生きたものでは無くなってしまうのです。
何故ならば、本当に神的なものを感じたならば、そこに普遍性というものが直観されるものだから!
神というものはどこまでも思いを超えている...故に普遍なるものに開かれているのです。
独善、狂信的精神に神は宿らない、それは神ならぬ思凝り神と知るべきなのです。
そこで、その実在、実存的なものに普遍的なものが結びつくことにより、あるいは普遍的な主神(先の宇宙の根源神的なもの)が直観される...かもしれない!
実存的、普遍的なものというのは、いずれも無限定なものであり、限定的な唯一という表現は、矛盾しているでしょうが、私はどうしても、個的にも普遍的にも、一なる主神というものを意識せずにおれないものを感じています。
これは、諸々の神に纏わる観念、異教の神(神と異なる神)から区別されるべく、神は生きている、実在しているとの思いから来るのでしょう。

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それでも朝は来る!

2023-11-17 03:55:31 | 詩的文章
朝の目覚め...
外はまだ暗い
冷たい雨が降っている
それでも朝は来る!
自ずから目が覚める
目覚めさせるものなしに目覚めることは無い!
今日の日が開かれることは無い!
何という感謝だろう!
かむながらたまちはへませ
みこころのままに
南無、アーメン...

どんなに迷っていようと
つらい思いをしていようと
無駄なことをしていようと
そんなこんなにずっと明け暮れていようと...
それでも朝は来る!
明けることになっている
開けることになっている
明けたら分かる
開けたら分かる

自分も人生も思われたものじゃない!
何を思っていようと
すべては寝る前のこと...
目覚めたらすべてが新しい!
キンキン...耳鳴り
ジンジン...バイブレーション
生命の鼓動...
今日の日が始まる

それでも朝は来る!

コメント (2)
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イエスと聖母マリア

2023-11-16 09:43:19 | キリスト教関連
キリスト.イエスは神の愛を強調して教えを説いたことは、クリスチャンでなくとも知っていることでしょう。
端的にイエスは愛なのであると!
しかし、私は疑問に感じてしまうことがあるのです。クリスチャンでないからでしょうか?
それは、女性ならともかく男性信者たちは、イエスにその愛の表れにすう~っと感情移入出来るか、ということなのです。
もっともイエスは人間を超えた神の子、従って男女の別も超えた存在であり、又聖霊と一つなのだから問題無いのでしょうか?
そうですね!…私の場合、聖霊感というか、その現臨感によって愛というものを実感するのであり、人間(でもある!)実際に会ったことも無い、イエスを思い浮かべることはほとんど無いし、あの御方の愛に抱かれるという感を持つことも無いのです。
イエスって、伝えられる人物像では、無精ヒゲを生やしていて、結構ワイルドな感じらしいじゃないですか?...何かなあ!...こんなこと言ってバチが当たるでしょうか?
こんな訳で、もし人間的な姿を思い浮かべることにより、愛を感じるとしたら、それは異性的なものを借りるというのが、自然なのではないでしょうか?
だから私は、カソリック教会に伝えられる聖母マリア崇拝というものは、こんなところから生まれて来たように思えてならないのです。
これは、神学的にイエスの、マリアの人格と神格?の関係がどうのこうのという理屈の問題じゃないのです。イエスの神人性をマリアに感じとってもいいではないのか?
カソリックの人たちは、あまり意識せずにそうしているのではないか?
そこへ行くと、日本神道はもっといいかげんな感じで、例えば男性神、素戔嗚尊を祭る神社には、その妻神、稲田姫と一対にして、祭られているケースが実に多いのです。
神の世界では夫婦はより一体になるのか、又これには出口王仁三郎師のその男女一体神観の影響もあってか、私には特に素戔嗚尊を思念して愛を感じる時には、その女性性に感じていることはごく自然なことなのです。
“キリスト教は、そんな偶像的な礼拝などしない“、な~んて、これ又そんな理屈の問題じゃないですよ!、神の愛を感じるかどうかと言うことは!
一方、イエスの救世主としての側面は男性性として感じられるのは言うまでもないでしょう。
肉体は男で、ミタマは女なのか?(大本では変性女子という)
イエスの裏側から現れるマリア(それは、一部で囁かれている、イエスの妻だったとされる、マグダラのマリアかもしれない?)...
やはり、私はイエスにも素戔嗚尊(ちなみに王仁師は、“イエスは素戔嗚尊の分かれである“、と説いています)にも、神人一体のみならず、男女一体のその神人性を感じてなりません!
これは聖霊、現臨によってそうならざるを得ないのです!...
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