人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本性と超越

2024-05-21 09:49:26 | スピリチュアル
私はここ最近、常々本当の自分というものは、その語感が示しているように、自分の本来性から来るものであろう、と言っています。
これは、ラマナ.マハルシがいつも説いていたことであり、それは例えば、何の努力も無しに自然にそのように導かれてしまうようなことから、そう感じていることなのです。
しかし、一方でベルジャーエフはこんな言葉を残しているのです。「超越的人間は人間の不変の本性ではない。...それは創造活動であり、自由である。霊も自由も共に本性ではない」(真理とは何か)
超越的人間というのは、ベルジャーエフによれば、自然的人間の背後にあって、その表層には影響されることなく、その創造、自由、霊性の道を開示するという、何というか、その...そう、思いを超えた神的なものと一つの人間、本当の人間?ということになるでしょうか?
彼に限らず、キリスト者は専ら、そういう超越性を強調しています。そして自然的人間、”生まれつき”の人間は、超越者によって克服されなければならない、生まれた人間は、もう一度生まれ変わらなければならない(これが霊的回心)とされているのです。
これが、インド的東洋とキリスト教的西洋の違いと言ったらそれまでなのでしょうか?
こういうことは、誰が何を言ったか、ということでなくて、実存的問題は、自分自身がどう感じているかということが重要であるのは言うまでもありません。
それに従えば、私は先のベルジャーエフの超越者について説明していた時、それはこの思われた人間ではなく、それを超えているのは当然だとして、それは人間の本来性から来るものなのだ、という言葉がどうしても出かかってしまう、そう駆り立てるものを感じてならないのです。
ベルジャーエフは、超越的人間は我々の内奥に息づいている、と言っているのです。内なるもの。これが、その本性的なものを言い表しているものでなくて何であろうか?
この本性的人間は、思い、為す人間、生まれつきの人間には、”本来”与り知れないものでしょう。
つまりは、ラマナとベルジャーエフの一見、相反するような見解の相違は、この本性、本来性というものの言い回しの違いがあるだけということなのでしょう。
超越者というか超越的ハタラキによらなければ、内なる自己の開示は無いでしょう。
しかし、そもそも内なるものがあるからそういうハタラキがあるのではないか?
天的なものと地的なものが惹きつけ合う、落雷の原理のように、超越的なものと内在的なものとは不可分な関係にあると言ってもいいでしょう。
いや、もう少なくとも私には、理屈で無しに、”超えているからここに在る”ものなんだ!
私は生まれつきの本性からは、不自由をかこつ人間なのであるが、もっと先の本性では自由な人間なのです。
生まれ落ちてからのこの思われた私には、私の本当の本来性を求めることは出来ないでしょう。
それは潜れているが、超えたものにあって顕わになるもの...




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神と自己の対向

2024-05-19 09:24:25 | 求道、探究
霊性の道においては、”一つになること”が重要視されています。
神、真我、真理...と一つになる。
ということは、そういうものを自分と分離しているように、対象的に認識したままではいつまでも一つにはなれないということです。(このことが取りも直さず、思いを超えるということを意味しているのです)
その中で神というものは、普通に礼拝対象として捉えられていますが、霊性の道ではそういう在り方は、否定されるか乗り越えられているのです。
又、普通に考えて、感じてみて真我、本当の自分というものを対象化するというのはおかしい。そうでなくとも、それになるというのは?...誰が誰になるというのか?
おかしいから神を求めるのです。神そのものを求める...もはや礼拝対象ではなくなります。
しかし、どうしても自己と、その現前にある超越者として向き合うということはあるのです。
これは先のように、自己と対象とが二つのままになっているということではありません。
二元的でありながら、向き合うという、一如の関係というものがそこに成立しているのです。
ユダヤ系の哲学者、マルティン.ブーバーが説えた、”我と汝”の関係というのもこのことを言い表しているに違いありません。
私はこれを対象認識(ブーバーに従えば”我とそれ”の関係)でなく、対向認識とでも呼んでみたいです。車の対向のようにすれ違うものでなく、二つのものが一つに惹きつけ合うような関係...最愛のものと向かい合うことというのはこういうことではありませんか?
何故そういうことになるのか?...ここに、二つのものが元々一つのものであったことが想起されて来ます。
即ち、我々が神を求めるということは、内的必然性、本性からなされるということなのでしょう。
神と一つになることは、真我に目覚めることと一つなのです。
然るに、人間は本当の自分のすがた、在り方を失ってしまった...だから、神的なものが我々の現前に臨みたもうのです。
小池辰雄先生がいつも言っていました。”いつまでも神を信じ、仰いでたってしょうがない!、信じ、交わらねば!”...
ああ...もう神が私か、私が神か?...惹きつけてやまないものを日増しに感じずにおれません!...



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目の前に現前すること

2024-05-18 09:29:44 | 覚醒
ユーチューブで、玉城康四郎先生の悟りというか、覚醒体験のことが取り上げられていたのですが、かなり曲解しているところがありました。
それによると、先生の目の前に突然ダンマが現れ、それが段々近づき、皮膚に浸透して来て、やがて中に入って一つになったのだと言います。
いや、先生によると、ダンマが顕わになるというのは、中から(これは、肉体からということでなくて、実存的な内奥といったものでしょう?)なのではなかったか?
第一、先生はダンマというものを、そのように対象的に見たり、思い描けるような実体としては一言も言っていなかったはずなのです。
この術者は、自身のその何か光の玉のようなものがそのように、自分の中に入って一つになったという悟り体験?を先生の体験と結びつけて、そのようなものが悟り体験の原型である、と述べているのでした。
この人は、実際に玉城先生と会ったことがあるそうなのですが、そのことは、直接先生から聞いた訳でも、著書を読んで確かめたことも無いと言うのだから、随分いいかげんなものだし、先生のダンマの顕現による”目覚めの原態”とは大部かけ離れていると言う他ありません。
私の場合はと言うと、突然目の前に霊的存在が現れ、段々近づいて来て、一つになった...だから、そういう描写も出来ないことも無いですが、それじゃまるでそういう心霊現象が伴うものみたいに誤解されてしまいますよ。
神的、霊なるものの現臨、現前とは、本質的にそういう対象的にある実体を見ているようなことではなく、主体、客体も超えて一つになっている、そうした表層に隠れていた意識が顕わになるようなことです。
そして神的超越者と実存的内奥が一つになる...
言い換えると、これが重要なことで、表層の思考が超えられ、後退させられることに他ならないのです。それは端的に対象的な認識が超えられることで示されると言えるでしょう。
考えている自分は、先のように霊的存在が現れ...などと描写することも可能ですが、それを目の当たり(これが、”現前”というもので言い表せるものでしょう?)にしている渦中においては、まずどうしたってそういう霊的”実体”を在るかのように言い表すことは不可能なのです。
私は悟ったことなど無いので、これが悟りの原型とか、大それたことなどとても言えないですし、感じ方、表現は色々あってもいいとは思うのですが...少なくとも、そこに何か現象的に見えるとか、聞こえるとか、自分の力で何かを為し得るとか、要するに思い、為す自分が超えられていない心的状態をそれに当てはめることは出来ません。
取り分け、単純に心霊現象的なことは、ヘンな現象が続出するなどするから、超えないとダメだろうと思うのです。
それにしても動画配信というものは、いいかげんなものが多いです。
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神無くして何も分からない

2024-05-16 08:48:43 | 
神が何かは分からない...

万物の創造者?
そのものを創造したものは何だろう?
人間もそのように造られた?
そのことを覚えている、知っている人...居る?
造られたものが、何故かくも勝手なことが出来るのか?
同じように造られたものを勝手に破壊出来るのか?

神が何かは分からない...

だから色々、違う神が”造られ”、信じられている
神についての諸説が”造られ”、説えられている
神自身は何と言っただろうか?
”そう言った”、と信じられている言葉はもう、いい!

神が何かは分からないけど、私は生きなければならないらしい?
何ものにも、”そうしろ!”と言われなくても...
どんなに苦しくても...
どうしても、こうしても、生きなければならない気がしてきて...
どこから来て、どこへ向かうのかは分からないけれど...
本からそうなっているような...本へ帰るような...
本って何だ?
中心に向かっているような...
中心って何だ?
一つになろうとしているような...
一つって何だ?...
何でこんなに分からないことだらけなのに、どうにか生きていられるのだろう?
てんでばらばらな、核爆弾まで背負った、他の造られたものを破壊せずにおれない、創造者のことなど何も分からない人間が...どうにか生きていられるのだろう?

神無くして何も分からない...





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愛は分けられないもの

2024-05-14 09:47:42 | 
幸福というものは、何かを得ることや、なることに置き換えられると、そうでないものに変質したりすると前回書きました。
しかし、ここんところ幸福について書いてきたことは、すべて”愛”というものに置き換えることが出来る、と私は思えるのです。
勿論、感じ方に違いはあると思いますが、愛を感じることは幸福であるし、逆も又そうなのではないでしょうか?
それは、共に形が無いものなので、どのようにも結び付くものではあれ...(しかし、愛は何かを得ることでは、もっとそれ自体得ることは出来ないものではあります。より即物的でないものと言えるでしょう)
そして、それ故形あるものに結び付くと、容易に変質してしまうということも重ねられます。
最愛の人であったはずが、”愛着”することによって煩悩、苦悩の種に変じてしまうように...
これは、もう幸福について言ったことと同じなんだ!
我々は、愛そのものがどういうものか、分からなくなってしまったのです!
失ったものはあまりにも大きい!...こう書いているだけで、ハートの辺りから言い知れぬ鼓動、律動のようなものが高鳴るのを感じるではありませんか?!
失った(ように思っていた)ものがよみがえったなら、どんなに、計り知れずに大きいことであるだろう!
だから、愛そのものを感じ、つながるには最愛のものを手放さなければならないのです!...って私はそんな自分が出来ないことを言おうなんて思っちゃいません。私はそんなこと一度も試みたことありません!
こういうことはね、”こうしなきゃ”、とか”こうあらねば”なんて思いからでなくて、自分の偽らざる感性に尋ねたらいいんですよ。出来るか?、そのように、あなたの心は動いてくれるのか?
私には最愛のものは常に最愛のものです。今のところ...それはお分かりのように、形ある、思い描けるものに違いありません。
だけど、そのものは形無きものと共にある...どっかでそれに溶け行ってしまったように感じているのです。
これは、その形はもう”ここにない”、だからこそそのように感じられる、ということは言えるでしょう。ここにあったら感じられるかどうかは分かりません。何分、形ある愛とは縁が無い者なので分かりません。
もし形あるものを通して、愛としか言いようのないものを感じたのなら、ずっと自分のハートに留めておくことが出来る...形あるものを通して形無き愛を感じることは可能なはずです。
形は変わるもの、変質してしまうもの...そうなったらそれを受け入れるしかありません。
執着すると、それで変質してしまいます。だけど形無きものに化されたものは、ずっとここに息づいているのです。それは、それを感じているあなた自身と切り離されてはいないのです。
で、何が最愛のものかって?...そりゃあ、異性だったり、ペットだったり色々でしょうよ!
それじゃ、最愛のものじゃないじゃん!...ごもっとも!...分からないです!、ただ好きで、愛しててしょうがないのです。分けることなんか出来っこないですよ!
分けられないから愛なんだ!
そういうものは、色々あるのでない、たった一つのものはあります!
それは..神!、本当の自分!
二つやん!...いや分けられない!...


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