人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幸福そのものを感じてみる

2024-05-13 09:35:14 | 求道、探究
人気ユーチューバーのひろゆきさんが、何かを得ることで、何かになることで得られるような幸福は持続しないが、ごく日常のありふれたことを通して得られる幸福こそが持続的なものなんだ、と持続的な幸福とはどういうものか、ということについて分かりやすく述べられておりました。
一攫千金的な歓喜の爆発のようなものでなく、じわじわ~っと来る幸福感!...そう、これなんです!
しかし私はもっとこのことを深掘りしてみたいのです。
幸福はそのように日常のありふれた生活、出来事の中にあります。
でもそれは、例えば子供の学校への送り迎えとか、傍らで寝ているネコのゴロゴロを聞いているとか、日常の一コマに置き換えられるものですよね。
しかし、自分が幸福に感じられない時、そういうことを通して幸福を感じられるでしょうか?(は?...何かすごーく当たり前過ぎてオカシナこと言っている気もしますが...)
要するに、幸福そのものを感じられないだろうか、ということ...多くの人は、それを通して得られるものに置き換えてしまっているのです。
その典型的なものは、獲得することで得られる幸福で、それは失うものでもあるので、不幸の種となり得るものという訳です。
だから、幸福になることは至って簡単なことですよ!、幸福そのものを感じたらいいんですから!(オカシイ?)
いや、幸福になるとかどうとかって問題じゃないでしょ?...今の今、幸福じゃない?
それでは、これをひっくり返して感じてみて下さい。
あなたがこれがあることで、こうなることで幸福になると”思っている”もので、今本当に幸福に感じられますか?
あなたが思っている、信じているもののことじゃない!...具体的に、現実にそう感じられるかどうかということです。どうかあなた自身の感性を誤魔化さないで下さい!
あなたが幸福だと思っているものは、あなたの信条のようなもの、あなたが得だ、ためになると思っているもの、あなたの快楽を満たすものなのではありませんか?
幸福そのものでない、信条、信念、実益、快楽など別のものに置き換えられているのではありませんか?
”幸福は別のものに置き換えられる...つまりは、幸福は幸福でないものに容易く変質してしまう...
これが我々の多くが幸福そのものを感じられなくなってしまった、という証左なのか?!
失ったものはあまりにも大きいではないか!、同輩のものたちよ!”
しかしそれは、けっして失うものでもなく、ラマナ.マハルシも言うように、我々に本性から与えられているものなのです。だから持続的なのが当たり前なのです。
私はここで何回ともなく、こうして書いているだけで幸福だ、と言ってきました。何でかって言うと、持続的だからです。
何回も同じこと書いてて飽きないかって?...そんなバカなことは無い!、飽きたら幸福でなくなるではないか?!
これが、前回書いた、”泉からコンコンと水が湧き出ている”ような感じのことなのです。あれは、とても新鮮な、鮮明な気付きだったということです。
失った(ように思われた)ものは、あまりにも大きい!
しかし、それがよみがえったなら...その数倍も、とてつもなく大きいものになるでしょう!...

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持続的な幸福と意識の流れ

2024-05-12 09:45:22 | 意識、照明
昨夜は、思いがけずに“持続的な幸福“が顕わになるということに与ったのでした。
一寸、楽屋話みたいで分かりにくいかもしれませんが、発端は、いつもコメントを下さる「のしてんてん」さんのブログで、至福感が消えてしまう、持続的な幸福というものはあるのか、という話で共感するものがあり、私は“人間存在は、表層の思いと内奥的な意識の間を生きているもので、そこに意識を向けることにヒントがあるのではないか?“、というコメントをしたのでした。
ところが、それから私のブログのコメント欄を交えて、何度かやり取りを重ねているうちに、次第にその私が提起した問題から逸れて、何だか抽象的な言葉のキャッチボールをやっているような様相を呈して来たので、“幸福が逃げてゆく...”というような感じたままの詩文を書いたりして、見解の相異もあるようで仕方ないな、と感じていたのでした。
ところがNさんも、実は先の共感点を持ち続けておられ、いつの間にかそこから逸れてしまったことに気付かれ、再び互いの接点を持ち合えたこと、そのことを確認することが出来た、というところからそういうことに与ったという次第なのです。
私は否応なしに、表層の思いと内奥的な意識の間に立たされたという感じになりました。
すると忽然と泉から水がコンコンと流れ出て来るようにも、持続的な幸福の意識の流れのようなものを感知したのでした。
これは、米国の哲学者ウィリアム.ジェイムスが説いていた、“意識の流れ“ということと関わるものと言えるでしょう。
それは、一時の有頂天のような歓喜の爆発のようなものでなく、それは確かに例えば泉からの水の表れが、その地下では絶えない水流を感じさせるような、持続的なものだったのです。
私は正にこうしたことに触れようとしていたのです。そして、ここから意識が逸れると、その幸福感から遠のいてしまうということも!
先の発端となった私のコメントは、覚醒体験のようなものに伴う、至福感というものとの関連で述べたものだったのですが、ここではそれと切り離しても理解出来るでしょうが、ちなみにそういうものは先の爆発的なものなので、消えてしまうように感じるものだ、ということを言い添えておきましょう。
そして留意して欲しいことは、ここでは、“如何にして幸福を持続させることが出来るか“、という話をしている訳ではないということです。
それに従うなら、そうやって持続させようという思いに囚われるから、その幸福の意識の流れが途絶えてしまうのだ、ということも又言い添えておきます。
事実は、表層の私がそのことを忘れていようと、消えたように感じていようと内奥の意識下では絶えずそうした意識の流れが続いているということであり、大事なことは、そのことに気付いているかどうかということでしょう。
それを捉えようとするのではなく、気付き、感じていたらいいのです。
又、Nさんは、幸福を感じているのは、表層の私か内奥の意識的な実在(?)か、ということを問題にされていたようなのですが、勿論意識下の、その別なる私のようなもののことは分からないのです。
それが顕わになることにより、表層のみに囚われている私では知覚出来ない、その思いを超えたものの消息を感じることが出来るということです。
これから得ようとするのでなく、すでに流れているものがあるから意識が向かうのです。
そして、そこには幸福が持続されているのです。
(以上のような貴重な経験に与る機会も、のしてんてんさんとのやり取り無しには出来得ませんでした。この場を借りて感謝申し上げます)
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人間の幸福と原態

2024-05-11 09:57:16 | スピリチュアル
いつも言うように、人は誰しも幸福を求めて生きているのでしょう?
しかし、人生は中々そのように送ることが出来ないのも現実です。
昨日など仕事場で、パチンコ依存症の人と話をしていたのですが、“パチンコしていて幸せなのか?“、と聞いたら、まったくそんなことは無い、苦しいのだと言う。
“じゃ、やめたらいいでしょう“、と言ったら、やめられないから苦しいのだ、と言います。
私は“自分が心から幸せになれるものがあれば、そこに向き直ることが出来る、と言ったのですが、それが何か分からないのだ、とのことです。
このように、何が幸福か分からないという人は多いようです。
抽象的な幸福論はともかく、現実に幸福に感じているかどうか?...私はこのことがすべての人間存在、人間社会の有り様の根本にあるものと言っても過言でないと思います。
一人一人がそれを感じることが出来るなら、戦争も凶悪犯罪も抑えられ、地上天国が実現するのではないでしょうか?
このことが、争い、犯罪、その要因ともなる病的な心的状態などの根本的な抑止になり得るものだと思います。
それらのことは、世の中では悪いものと認知されていて、法、倫理がそれを抑制しています。
しかし、それではどうしてそれが悪いことなのかは、根本的には認知される、いや感じることがありません。
善悪の観念によるものを外側から規制する法、倫理でなく、直接的に内側に感知されるものを通してでなければ、根本的な抑制とはならないものでしょう。
“我々はその根本的なものを失ってしまったのか?、我々は本来から幸福に生きることが出来るのではなかったのか?
本来的幸福...ああ、人間が失ったものは、かくもとても大きいのか!...このものさえ、甦ったならば!...“
本来的ということは、元々我々に備わっているということであり、向き直ることが、取り戻すことが出来るということです。
パチンコ、酒、タバコ、セックスなど、依存症につながるものは、言うまでもなく、幸福でなく快楽のことですが、多くの人はこの快楽追求と同じように、本来的な幸福を失うことにより、幸福追求に駆られてしまうようです。
つまり今の幸福の欠乏感から、自分の外から幸福となるものを得ようとするのですが、そのように獲得するものは、その性質上失うものであり、こうした流転を繰り返すことになってしまうのです。
本来的幸福とは、それを得ることにより、自分が何かに到達することにより与るものではありません。それ以外の何かには置き換えることが出来ないのです。
例えば、朝起きたら幸福になっていた...良い夢を見たからなのかもしれないが、その記憶もなく自ずからそうなっていた、幸福自体が自分の中から突き上げて来るような感じ...(私だけか?)
いや、寝ていても、起きていても、歩いていてもそうなる...何かを得なくても、やらなくても...
これは、人間の根本的な在り方がそういうものだということなのでしょう。
ここに、一人間の個体だけで成り立っていない、思われた人間を超えたものと切り離されない人間の原態というものが見えて来るのではないでしょうか?




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ハチと言葉

2024-05-09 08:36:45 | 詩的文章
ハチが受粉にやって来た...
何かが宿る
芽が出る
草が生えて、花が咲く...
そのまんまを受け入れるしかない
まかせるしかない...
ハチはどこへ行った?
どこかへ消えて行った...
ほっておけ!
ハチにまかせるしかない...
ハチを追いかけてはならない!
(刺されますぞ!)

言葉が何かを運んで来た...
形あるものが形なきものを運んで来た...
幸福な何か...
幸福な何かが受胎したようだ
どんどん膨らんで、深くなってゆくよう...
幸福な何かが化体してゆく...
形あるものと形なきものが一つに...
言葉はどこへ行った?
どこかへ消えて行った...
言葉はまだ何かを運んでいるのだろうか?
それとも...もう抜け殻?
言葉を追いかけてはならない!
形だけのものに捉えられる!
その毒針には御用心!
形なき幸福が逃げてゆく...


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モンスターも人の子

2024-05-07 09:38:40 | 雑記
“あっ!“...
モンスターがダウン!...リングに這いつくばってしまったではないか!...一瞬何が起きたか分からない!
バランスを崩した時に上手く当てられたとか、プッシュ気味とかでなく、パンチをクリーンヒットされた、ハッキリ分かるダウンです。
その後、井上がウィービング、ダッキング、クリンチなどあらゆるディフェンス技術を駆使して、何とかしのぎましたが、それが出来ないボクサーなら間違いなく、挑戦者ルイス.ネリの畳みかけるような集中打を浴びて、その第1Rで終わってしまったでしょう。
ネリが最初からブンブン来るのは、予想通りだったですが、一発のパンチは無い。その大振りの隙をついて、カウンターを決めてあっけなく勝利か、と思ったら先に食ってしまうとは!
おそらく、井上は第1Rから決めてやろうと、打ち気に早ったところを突かれたのでしょう?
いやあ、“空振り“で有名な解説者内藤大助さんが言っていた、“万が一ネリが勝つのなら第1R、一発が当たり...“、ということに、あわやなりそうだったではありませんか!
いやはや、改めてボクシングは何が起こるか分からないですね。
思えば、その二日前に行われたバンタム級戦で、挑戦者西田が不利な予想を覆して、その予想外れの接近戦を挑んで、ダウンを奪って判定勝ちしてから、“これは何かあるかな“とは感じてはいましたが...
第2R以降は、“打たせないで打つ“、予想通りの展開になったのはさすが井上でした。第5Rの痛烈なダウンでほぼ決まってしまいました。
しかし、普通ならそれだけで、“強いな!“と思うものなのですが、私にはやっぱりあの井上初のダウンシーンというものがインパクトが残ってしまったのでした。
モンスターも人の子だった!
不用意にパンチを貰うこともあれば、ダウンもする。
当たり前の話です。私は井上にその人間以上の像を描き、期待し過ぎてしまったのでしょう。
いつかは負ける時もある。...
よく考えたら、ネリなんてボクサーがまだ無名のかけ出しだった頃から井上は、その無類のモンスターぶりを発揮していたのですよ!
ネリが曰くつきでチャンピオンになった時も勿論、その相手山中さんはとっくに引退しているのです。
あのその存在を世界に知らしめた、ナルバエス戦から延10年…これがもう驚くべきことなんです。アリもタイソンもパッキャオもその間は負けているのです。
これに匹敵するボクサーは、フロイド.メイウェザーか現役のテレンス・クロフォードしか思いつきません。
しかししかし、人の子である井上も今後は、年齢から来る動体視力の低下(今回はそれも要因だったのではないか?)、超級するであろうことによる、パンチ力、その耐久力の低下を見据えて行かなくてはならなくなるでしょう。
それでも私は尚、井上には不敗神話を続けて行って欲しいのです!
それが我々日本人の夢なのです。そして私はその同じ時代を生きているのです。
いつの頃か、私は井上が勝つたびにここで記事を書くということが恒例になってしまいました(私はね、当たり前の話、異次元の存在じゃないのですから!)。
不敗神話が崩れた時...それは、この場も閉じてしまう時なのかもしれない?
コメント (8)
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