スプリンターズステークスを勝ったスリープレスナイトと昨年のJRA賞年度代表馬のアドマイヤムーンは近親関係にあります。これを詳しく紹介しておきましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/9d/98cfdd4e0c335c0a89e0b1f9166ee006.jpg)
2頭の最も近い共通の母系祖先は1981年アイルランド産のKatiesという馬。ファミリーナンバーは7-f。アメリカで繁殖入りし,後に日本人が購入。産駒は輸入され,日本で走るようになりました。とくに1991年産まれのヒシアマゾンは阪神3歳牝馬ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ)とエリザベス女王杯で大レース2勝。有馬記念やジャパンカップでも2着するなどし,2,3,4歳時にそれぞれ最優秀牝馬に選出されるなど活躍。ほかの輸入産駒からも重賞の勝ち馬が出るなどしたため,牝系としても注目されました。
1987年産まれの初年度産駒がケイティーズファースト。アメリカで3頭の産駒を産んだ後に輸入。この馬がアドマイヤムーンの日本での母系祖先にあたり,アドマイヤムーンの祖母になります。
そして1989年産まれの3頭目の産駒がホワットケイティーディド。こちらはスリープレスナイトの日本での母系祖先で,スリープレスナイトの母です。
アドマイヤムーンとスリープレスナイトの日本での母系祖先は異なるということになりますが,Katiesから始まる一族という意味では,ヒシアマゾンも含め,3頭の大レース勝ち馬が日本で出ている,きわめて優秀な牝系であるといえるでしょう。
競輪は明日から千葉記念です。この開催も2日目に一発勝負のワールドグランプリがあります。
この善悪の性質から,おおよそ次のようなことを導くことができます。
ある人間がいて,この人間がAという外部の物体corpusと関係することによって,喜びlaetitiaを感じるとします。この限りでこの人間はAを善bonumと認識するでしょう。いい換えれば,この人間にとってAは善です。また,この同じ人間が,外部の物体Bと関係することによっても喜びを感じるとしてみます。するとやはり同様にこの人間はBも善と認識します。つまりBもまたこの人間にとって善であるでしょう。しかしこれらのことは,排尿という運動motusが第一義的にはすべての人間にとって善であるということと同様に,やはり第一義的な意味しかもっていないと僕には思えます。
なぜなら,この人間はAと関係してもBと関係しても喜びを感じるわけですが,どちらの場合にも同じだけの喜びを感じるというものではありません。そこで,この人間は,Aと関係する場合よりはBと関係する場合の方が,より多くの喜びを感じるとしてみます。するとこの人間にとって,確かにAもBも善ですが,AよりもBの方がより善であるということになります。なお,感情の比較はこのような量的な観点からのみ可能であるということは,スピノザの哲学の感情論のひとつの大きな特徴であると僕は考えています。いい換えれば,喜びの対象がAであるかBであるかによって比較されるのではありません。
そこで,もしもAがこの人間とBとが関係することを阻害するような外部の物体であるならば,たとえこの人間がAと関係することによって喜びを感じるとしても,それはより大きな喜びを阻害するようなものですから,むしろ悪malumであるということになるでしょう。いい換えれば,小さな善と大きな善がある場合には,小さな善はむしろ悪なのです。これが善悪の相対性の最も基本的な考え方であるということになると思います。
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2頭の最も近い共通の母系祖先は1981年アイルランド産のKatiesという馬。ファミリーナンバーは7-f。アメリカで繁殖入りし,後に日本人が購入。産駒は輸入され,日本で走るようになりました。とくに1991年産まれのヒシアマゾンは阪神3歳牝馬ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ)とエリザベス女王杯で大レース2勝。有馬記念やジャパンカップでも2着するなどし,2,3,4歳時にそれぞれ最優秀牝馬に選出されるなど活躍。ほかの輸入産駒からも重賞の勝ち馬が出るなどしたため,牝系としても注目されました。
1987年産まれの初年度産駒がケイティーズファースト。アメリカで3頭の産駒を産んだ後に輸入。この馬がアドマイヤムーンの日本での母系祖先にあたり,アドマイヤムーンの祖母になります。
そして1989年産まれの3頭目の産駒がホワットケイティーディド。こちらはスリープレスナイトの日本での母系祖先で,スリープレスナイトの母です。
アドマイヤムーンとスリープレスナイトの日本での母系祖先は異なるということになりますが,Katiesから始まる一族という意味では,ヒシアマゾンも含め,3頭の大レース勝ち馬が日本で出ている,きわめて優秀な牝系であるといえるでしょう。
競輪は明日から千葉記念です。この開催も2日目に一発勝負のワールドグランプリがあります。
この善悪の性質から,おおよそ次のようなことを導くことができます。
ある人間がいて,この人間がAという外部の物体corpusと関係することによって,喜びlaetitiaを感じるとします。この限りでこの人間はAを善bonumと認識するでしょう。いい換えれば,この人間にとってAは善です。また,この同じ人間が,外部の物体Bと関係することによっても喜びを感じるとしてみます。するとやはり同様にこの人間はBも善と認識します。つまりBもまたこの人間にとって善であるでしょう。しかしこれらのことは,排尿という運動motusが第一義的にはすべての人間にとって善であるということと同様に,やはり第一義的な意味しかもっていないと僕には思えます。
なぜなら,この人間はAと関係してもBと関係しても喜びを感じるわけですが,どちらの場合にも同じだけの喜びを感じるというものではありません。そこで,この人間は,Aと関係する場合よりはBと関係する場合の方が,より多くの喜びを感じるとしてみます。するとこの人間にとって,確かにAもBも善ですが,AよりもBの方がより善であるということになります。なお,感情の比較はこのような量的な観点からのみ可能であるということは,スピノザの哲学の感情論のひとつの大きな特徴であると僕は考えています。いい換えれば,喜びの対象がAであるかBであるかによって比較されるのではありません。
そこで,もしもAがこの人間とBとが関係することを阻害するような外部の物体であるならば,たとえこの人間がAと関係することによって喜びを感じるとしても,それはより大きな喜びを阻害するようなものですから,むしろ悪malumであるということになるでしょう。いい換えれば,小さな善と大きな善がある場合には,小さな善はむしろ悪なのです。これが善悪の相対性の最も基本的な考え方であるということになると思います。