南関東2歳重賞の第二弾の平和賞は,昨日の船橋競馬場で争われました。
エロージュが枠入りを極度に嫌がり,何とか入ったところでゲートが開きましたが,マルハチゲティのフライングがあり発走のやり直しとなるアクシデント。各馬を落ち着かせ,10分以上遅れての再発走となりましたがテイケイドラゴンが落馬してしまいました。
イケノナインが逃げ,チョットゴメンナ,サプライズゲストと北海道勢が前を占めました。前半の800メートルは50秒3。途中からラップが落ち,ミドルペースの競馬に。
4コーナー手前で前の2頭が少し後ろを離す構え。必死に喰らいついたサプライズゲストは後退し,中団にいたシュバレスクが外から追い上げ3頭の接戦に。真中のチョットゴメンナがゴール前で逃げたイケノナインを捕えて優勝。クビ差の2着にイケノナインが粘って北海道勢のワンツー。ハナ差の3着がシュバレスク。
優勝したチョットゴメンナは前走,旭川の北海道重賞でかなり強い相手に逃げ切って勝っていました。今日は2番手からのレースになりましたが,これを克服できたのは収穫といえるでしょう。これで6戦3勝。
北海道の宮崎光行騎手が騎乗予定でしたが,急病のため川崎の今野忠成騎手に乗り換わりました。代打の役目を果した今野騎手は3月の京浜盃以来の南関東重賞制覇で平和賞初制覇。管理するのは北海道の名調教師のひとり,堂山芳則調教師で,こちらも平和賞は初制覇です。
道営馬は南関東に転入するケースも多く,1,2着馬とも,今後の動向に注目です。
スピノザが示す価値観において,完全性と善悪の最大の相違というのは,完全性というのが形相的にも考えられ得るある絶対的なものであるのに対して,善悪というのはむしろ認識論的にしか考えられない相対的なものであるという点にあるのではないかと僕は考えています。このゆえに,同じような事柄に依拠しながらも,人間の身体がなす排尿という運動は,それが力であるということについては一般的にいうことが可能だけれども,それが善であるということについては,第一義的にはそういうことができるとしても,一般的にはそうであるということはできないという相違も生じてくるのではないかと思っています。
そこで,この善悪の性質のひとつでもある,相対性ということを少し考えておきたいと思います。これは善の場合で考えても悪の場合で考えても同じことになりますので,ここでは善の方を考察の対象にしてみましょう。
もしもあるものがある人間の実在性の維持に有益であるなら,第四部定義一により,このものはこの人間にとっての善であるということになります。そこで今,AとBのふたつがあって,AもBもある人間の実在性を促進すると仮定します。するとこの人間にとって,AもBも善であるということになるでしょう。しかし,実際にはこれは,排尿という運動が人間にとっては第一義的には善であるというのと同じような意味で,第一義的な意味でしかないと思うのです。なぜなら,AもBもある人間の実在性を促進するという点では同じですが,このことのうちには,AもBも同じようにこの人間の実在性すなわち完全性を促進するということは含まれていないからです。むしろ普通に考えるなら,AとBはそれぞれがそれぞれの仕方で,この人間の実在性を促進するのではないでしょうか。
エロージュが枠入りを極度に嫌がり,何とか入ったところでゲートが開きましたが,マルハチゲティのフライングがあり発走のやり直しとなるアクシデント。各馬を落ち着かせ,10分以上遅れての再発走となりましたがテイケイドラゴンが落馬してしまいました。
イケノナインが逃げ,チョットゴメンナ,サプライズゲストと北海道勢が前を占めました。前半の800メートルは50秒3。途中からラップが落ち,ミドルペースの競馬に。
4コーナー手前で前の2頭が少し後ろを離す構え。必死に喰らいついたサプライズゲストは後退し,中団にいたシュバレスクが外から追い上げ3頭の接戦に。真中のチョットゴメンナがゴール前で逃げたイケノナインを捕えて優勝。クビ差の2着にイケノナインが粘って北海道勢のワンツー。ハナ差の3着がシュバレスク。
優勝したチョットゴメンナは前走,旭川の北海道重賞でかなり強い相手に逃げ切って勝っていました。今日は2番手からのレースになりましたが,これを克服できたのは収穫といえるでしょう。これで6戦3勝。
北海道の宮崎光行騎手が騎乗予定でしたが,急病のため川崎の今野忠成騎手に乗り換わりました。代打の役目を果した今野騎手は3月の京浜盃以来の南関東重賞制覇で平和賞初制覇。管理するのは北海道の名調教師のひとり,堂山芳則調教師で,こちらも平和賞は初制覇です。
道営馬は南関東に転入するケースも多く,1,2着馬とも,今後の動向に注目です。
スピノザが示す価値観において,完全性と善悪の最大の相違というのは,完全性というのが形相的にも考えられ得るある絶対的なものであるのに対して,善悪というのはむしろ認識論的にしか考えられない相対的なものであるという点にあるのではないかと僕は考えています。このゆえに,同じような事柄に依拠しながらも,人間の身体がなす排尿という運動は,それが力であるということについては一般的にいうことが可能だけれども,それが善であるということについては,第一義的にはそういうことができるとしても,一般的にはそうであるということはできないという相違も生じてくるのではないかと思っています。
そこで,この善悪の性質のひとつでもある,相対性ということを少し考えておきたいと思います。これは善の場合で考えても悪の場合で考えても同じことになりますので,ここでは善の方を考察の対象にしてみましょう。
もしもあるものがある人間の実在性の維持に有益であるなら,第四部定義一により,このものはこの人間にとっての善であるということになります。そこで今,AとBのふたつがあって,AもBもある人間の実在性を促進すると仮定します。するとこの人間にとって,AもBも善であるということになるでしょう。しかし,実際にはこれは,排尿という運動が人間にとっては第一義的には善であるというのと同じような意味で,第一義的な意味でしかないと思うのです。なぜなら,AもBもある人間の実在性を促進するという点では同じですが,このことのうちには,AもBも同じようにこの人間の実在性すなわち完全性を促進するということは含まれていないからです。むしろ普通に考えるなら,AとBはそれぞれがそれぞれの仕方で,この人間の実在性を促進するのではないでしょうか。