スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡&母の健診の結果

2013-03-01 18:52:03 | 歌・小説
 僕が,熊本時代に会ったことがある宣教師の母親と,留学先であるロンドンへと向う船の中で漱石が再会したという事実を知ったのは,『漱石の道程』に書かれていたからではありません。この本でも触れられてはいますが,漱石は船中から鏡子夫人に宛てて何通かの書簡を送っていて,そのうちの1通,1900年10月8日付の書簡に漱石がそのことをしたためていたので,先んじて僕の知るところとなりました。船は横浜を9月8日に出発していますから,乗船してちょうど1ヶ月後の書簡ということになります。
                         
 漱石は手紙を書くことが好きだったようで,数多くの書簡を家族や友人たちに送っています。それらのうちのいくつかは残っていて,それらは全集に収録されているそうです。ただ,僕は全集は所有していないので,それを知っているというわけではありません。『漱石の道程』によればその中には奥太一郎宛のものは入っているそうです。しかし僕が持っている三好行雄編の『漱石書簡集』は,残っている書簡の一部だけが収録されているもので,そこには奥宛のものは残念ながら含まれていません。
                         
 高木文雄によりますと,漱石の奥宛の書簡には,必ずといっていいほど遠山によろしくという文章が挿入されているそうです。これは遠山参良という人で,1899年8月に,第五高等学校に英語教師として赴任してきたとのこと。漱石は翌年の9月に乗船したのですから,短い期間ではありましたが,同僚であったということになります。翌年の7月に教授になっていて,これは旅立つ漱石の穴埋めであっただろうというのが高木の見解。そしてこの遠山もクリスチャンだったそうです。
 高木は遠山と漱石はそんなに親しかったとは思えないといっています。遠山宛の書簡は全集には入っていないとのことで,出さなかったのかもしれませんし,紛失してしまったのかもしれません。ただ,奥ほどの仲ではなかったにせよ,遠山が漱石にとって話ができる同僚であり,友人であったのは間違いないというのが高木の推測。奥宛の書簡の中身から類推しても,少なくとも嫌悪感を抱くような相手でなかったことは,間違いないでしょう。

 月が変わって10月に入り,3日の水曜日は,妹のみなと赤十字病院の歯科でした。この日はクリーニングを実施しただけで終ったようです。そしてこの日,外壁の修理の契約をした業者が訪問してきまして,家の前に停車させていた自動車を預けました。外壁を修理するためには足場を組む必要があります。その足場を組むために,自動車が邪魔だったからです。実際に工事が始まった,といってもそれは要するに足場を組み始めたという意味ですが,これは翌日の4日から。修理が終わり,足場を解体するまで,自動車はずっと預けていました。ご承知のように脳内出血を発症して以降は自動車は運転せず,この自動車を運転するのはもっぱらアパートの叔父でしたが,この間は叔父もこの自動車を使用することはできなかったということになります。
 その4日に,母の健康診断の結果が送付されてきました。異常が発見されたのは一点で,これは尿に潜血があったもの。ただし何らかの治療が必要というわけではなく,経過観察というのが診断の結果でした。
 実はこの件で僕が最も気になっていたのは,前回の健康診断のときに発見された,肺の影のことでした。それについては何も触れられてはいませんでしたので,問題がなかったものと思っていたのですが,母に聞いてみましたら,今回の健康診断では肺のX線撮影自体を行わなかったとのことでした。それでは異常が発見されるわけもありません。同じ病院で健康診断をやっているのですから,前回の結果というのは分かっていると思われるのですが,なぜそのような処置となったのかは不明です。母自身はそれで何か苦しんでいるというわけではありませんし,むしろ以前よりも健康状態はよくなっているように僕には思えますが,心配がまったくないというわけではありません。
 この後,10月7日の土曜日に母と妹で美容院へ。そして11日の木曜日は,母の磯子中央病院の脳外科の診察でした。木曜ですから妹を作業所まで送り届ける必要があり,僕はそのための準備をしていました。ところがこの日は妹が普段に比べるとかなり早く起きてきました。母が作業所へ連れていってから病院に行っても十分に間に合いましたので,そのようにしてもらいました。
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