2日目と3日目にS級の単発レースがひとつずつ組まれたいわき平記念の決勝。並びは佐藤-紺野の北日本,山崎-成田の福島,芦沢-宗景の茨城栃木,西日本ひとりとなった金子に成清-望月の南関東がマーク。
佐藤がSを取って前受け。3番手に金子,6番手に芦沢,8番手に山崎の周回に。残り2周のホーム手前から山崎が上昇していくと,芦沢が続き,バックでは山崎が佐藤を抑えて前に。芦沢がさらに動いて山崎を叩くと,引いた金子が芦沢を抑えて打鐘。一旦は緩めたものの,徐々にペースを上げていき,金子の抑え先行に。佐藤は車体故障を起こしたかのように後退,紺野が成田の後ろにスイッチして一列棒状のままバックを通過。ホーム手前で芦沢が動き,山崎もようやく発進。大外を追い込んだ山崎が直線だけで前を捕えて優勝。先に動いた芦沢が4分の1車輪差の2着。この両者の中を割った成田の追撃を凌ぎ,逃げた金子が1車輪差で3着。
優勝した福島の山崎芳仁選手は暮れの伊東温泉記念に続いて記念競輪12勝目。今年の初出走だった名古屋のFⅠも優勝しているのでこれで3開催連続優勝。いわき平記念は2007年,2013年と制していて,連覇となる3勝目。当地では2010年のオールスターも優勝しています。近況から調子を上げていることは分かっていたので,最有力ではないかと考えていました。展開的には向いたとはいえず,むしろピンチを感じさせましたが,直線の伸びは強烈なもの。来月の全日本選抜でも優勝候補になりそうです。
ひとつだけ注意しておいてほしいのは,原因と結果に関して,名目的に理解する場合と実在的に理解する場合とでは,異なった側面があるということです。
弱い意味がそれ自体で公理として成立するというとき,実在性は何ら問われていません。結果が原因によって生じる原因とは別のものであるということのうちには,原因と結果が実在するということが前提されているとはいえないからです。同じことは,強い意味の中の弱い意味の場合にも該当します。原因は結果を生じさせる結果とは別のものであるということ自体のうちに,確かに原因なるものと結果なるものが実在するということは,含まれているとはいえないからです。したがってこれらふたつの内容がそれ自体で公理的性格を有すると結論するときには,原因と結果を実在的に把握しているというわけではなく,単に名目的に把握しているだけであるといえます。もちろん,だからこのことは原因と結果が実在するという場合には成立しない事柄であるというわけではありません。名目性というのは,単に実在性を問うてはいないというだけで,ある事柄が名目的に成立するという場合には,もしもそれが実在するならば,実在的にも成立しなければならないからです。
もしもこのように,原因なり結果なりを単に名目的な意味だけで把握したならば,確かに原因は結果を限定し,結果は原因によって限定されるということを帰結させることが可能になります。いい換えれば三種類の必然のうち,第二のパターンにも,ある種の限定的要素が含まれると考えることが可能です。
しかし,もしもそれらを実在的な意味において理解するという場合には,このことが該当しなくなると僕は考えるのです。もちろん名目的に把握されて真である事柄は,それが実在する場合にも真でなければなりません。したがって実在するどんな結果も,原因がなければ発生するということはあり得ません。ですがだからそれが原因による結果の限定であると理解することは,むしろ誤りであると考えるのです。そして僕がそのように考える根拠は,スピノザの哲学における,自己原因と原因のある特殊な関係にあります。
佐藤がSを取って前受け。3番手に金子,6番手に芦沢,8番手に山崎の周回に。残り2周のホーム手前から山崎が上昇していくと,芦沢が続き,バックでは山崎が佐藤を抑えて前に。芦沢がさらに動いて山崎を叩くと,引いた金子が芦沢を抑えて打鐘。一旦は緩めたものの,徐々にペースを上げていき,金子の抑え先行に。佐藤は車体故障を起こしたかのように後退,紺野が成田の後ろにスイッチして一列棒状のままバックを通過。ホーム手前で芦沢が動き,山崎もようやく発進。大外を追い込んだ山崎が直線だけで前を捕えて優勝。先に動いた芦沢が4分の1車輪差の2着。この両者の中を割った成田の追撃を凌ぎ,逃げた金子が1車輪差で3着。
優勝した福島の山崎芳仁選手は暮れの伊東温泉記念に続いて記念競輪12勝目。今年の初出走だった名古屋のFⅠも優勝しているのでこれで3開催連続優勝。いわき平記念は2007年,2013年と制していて,連覇となる3勝目。当地では2010年のオールスターも優勝しています。近況から調子を上げていることは分かっていたので,最有力ではないかと考えていました。展開的には向いたとはいえず,むしろピンチを感じさせましたが,直線の伸びは強烈なもの。来月の全日本選抜でも優勝候補になりそうです。
ひとつだけ注意しておいてほしいのは,原因と結果に関して,名目的に理解する場合と実在的に理解する場合とでは,異なった側面があるということです。
弱い意味がそれ自体で公理として成立するというとき,実在性は何ら問われていません。結果が原因によって生じる原因とは別のものであるということのうちには,原因と結果が実在するということが前提されているとはいえないからです。同じことは,強い意味の中の弱い意味の場合にも該当します。原因は結果を生じさせる結果とは別のものであるということ自体のうちに,確かに原因なるものと結果なるものが実在するということは,含まれているとはいえないからです。したがってこれらふたつの内容がそれ自体で公理的性格を有すると結論するときには,原因と結果を実在的に把握しているというわけではなく,単に名目的に把握しているだけであるといえます。もちろん,だからこのことは原因と結果が実在するという場合には成立しない事柄であるというわけではありません。名目性というのは,単に実在性を問うてはいないというだけで,ある事柄が名目的に成立するという場合には,もしもそれが実在するならば,実在的にも成立しなければならないからです。
もしもこのように,原因なり結果なりを単に名目的な意味だけで把握したならば,確かに原因は結果を限定し,結果は原因によって限定されるということを帰結させることが可能になります。いい換えれば三種類の必然のうち,第二のパターンにも,ある種の限定的要素が含まれると考えることが可能です。
しかし,もしもそれらを実在的な意味において理解するという場合には,このことが該当しなくなると僕は考えるのです。もちろん名目的に把握されて真である事柄は,それが実在する場合にも真でなければなりません。したがって実在するどんな結果も,原因がなければ発生するということはあり得ません。ですがだからそれが原因による結果の限定であると理解することは,むしろ誤りであると考えるのです。そして僕がそのように考える根拠は,スピノザの哲学における,自己原因と原因のある特殊な関係にあります。