箱根で指された第63期王将戦七番勝負第三局。
渡辺明王将の先手で羽生善治三冠の急戦矢倉。指し手の成り行きから,先手玉だけが矢倉に入城することになり,後手の作戦はあまりうまくいかなかったのではないかと思っていました。
これは今日の午前中で,△5九角を受けるために桂馬が跳ねたところ。後手は△8五歩▲同歩に△8六歩と垂らしました。対して▲7九王と引くのは,せっかく入った玉が出ていくのでつまらない感じがします。この手が仕方ないとすれば,僕が思っていたよりもずっと後手はうまくやっていたということなのでしょう。後手も一旦は△3一玉と寄り,▲4五銀に△8五桂と跳ねていきました。先手は▲2四歩△同歩と突き捨ててから▲8三歩△同飛▲8四歩の連打。そこで考えづらいのですが△3九角と打ちました。
結果的にいうとここで角を打ったのは抜群のタイミングであったようです。先手は▲2四飛でどちらかといえば攻め合う展開に進めましたが,△8七歩成▲同金△8六歩▲8八金としてから△8四飛。
8八に歩が打てないので後手は受けに窮しました。仕方がないので攻め合いに出ることとなりましたが,第3図自体,相手玉に迫っているのは後手の方ですから,先手の攻めは間に合わず,後手の勝ちとなっています。何か一直線で急に終ってしまったような印象で,どこかで先手に大きな誤算があったものと推測されます。
羽生三冠の勝利で1勝2敗。第四局は来月18日と19日です。
『エチカ』における必然ということの意味が解明されました。それではこのことを考慮に置いた上で,まず当座の問題となっている,自己原因が実在するのか否かを検討することにします。
しかしこの問いに解答することは簡単です。まず第一部定理七により,実体の本性にはその存在が属しています。いい換えれば第一部定義一により,実体は自己原因です。第一部定理七というのは,その直前の第一部定理五や第一部定理六との関係からして実在的な意味を有するものとは判断できません。スピノザはこの定理の訴訟過程で第一部定理六系を援用し,第一部定理六系は第一部定理六の帰結事項で,第一部定理六は第一部定理五をその証明に用いているからです。したがってこれだけでは自己原因が実在するということは明らかにはなっていません。ただ,もしも実体が実在するということが証明できれば,自己原因であるものも実在するということにはなります。
そして実体は実在します。それを明らかにしているのが第一部定理一一です。ここでは神すなわち絶対に無限である実体が実在することが示されています。よってまず,自己原因が実在するということが確かめられました。前回の考察でも示したように,実はこの定理の証明には,現状の考察との関連ではやや不備があるのですが,今回はその点は後回しにします。
強い意味の真理としての成立条件は,単に自己原因が存在すればよいというものではありませんでした。ですから現時点では,この真理性が解明されたというところまでは進んでいません。こちらの方を先に検討しておきます。
成立条件からして問われなければならないのは,神が各々の因果関係の必然性を,一般化するに足りるような存在であるのかどうかです。いい換えれば個々の原因と結果のうちにある必然性のうちに,ある共通する要素を提供し得るような存在であるのかどうかです。でもこの答えもまた簡単でしょう。すでに考察してきたことからして,神はそういう存在にほかならないからです。神が自己原因であるということと,万物の原因であるということが同一の意味であるということから,このことは明白だといえます。
渡辺明王将の先手で羽生善治三冠の急戦矢倉。指し手の成り行きから,先手玉だけが矢倉に入城することになり,後手の作戦はあまりうまくいかなかったのではないかと思っていました。
これは今日の午前中で,△5九角を受けるために桂馬が跳ねたところ。後手は△8五歩▲同歩に△8六歩と垂らしました。対して▲7九王と引くのは,せっかく入った玉が出ていくのでつまらない感じがします。この手が仕方ないとすれば,僕が思っていたよりもずっと後手はうまくやっていたということなのでしょう。後手も一旦は△3一玉と寄り,▲4五銀に△8五桂と跳ねていきました。先手は▲2四歩△同歩と突き捨ててから▲8三歩△同飛▲8四歩の連打。そこで考えづらいのですが△3九角と打ちました。
結果的にいうとここで角を打ったのは抜群のタイミングであったようです。先手は▲2四飛でどちらかといえば攻め合う展開に進めましたが,△8七歩成▲同金△8六歩▲8八金としてから△8四飛。
8八に歩が打てないので後手は受けに窮しました。仕方がないので攻め合いに出ることとなりましたが,第3図自体,相手玉に迫っているのは後手の方ですから,先手の攻めは間に合わず,後手の勝ちとなっています。何か一直線で急に終ってしまったような印象で,どこかで先手に大きな誤算があったものと推測されます。
羽生三冠の勝利で1勝2敗。第四局は来月18日と19日です。
『エチカ』における必然ということの意味が解明されました。それではこのことを考慮に置いた上で,まず当座の問題となっている,自己原因が実在するのか否かを検討することにします。
しかしこの問いに解答することは簡単です。まず第一部定理七により,実体の本性にはその存在が属しています。いい換えれば第一部定義一により,実体は自己原因です。第一部定理七というのは,その直前の第一部定理五や第一部定理六との関係からして実在的な意味を有するものとは判断できません。スピノザはこの定理の訴訟過程で第一部定理六系を援用し,第一部定理六系は第一部定理六の帰結事項で,第一部定理六は第一部定理五をその証明に用いているからです。したがってこれだけでは自己原因が実在するということは明らかにはなっていません。ただ,もしも実体が実在するということが証明できれば,自己原因であるものも実在するということにはなります。
そして実体は実在します。それを明らかにしているのが第一部定理一一です。ここでは神すなわち絶対に無限である実体が実在することが示されています。よってまず,自己原因が実在するということが確かめられました。前回の考察でも示したように,実はこの定理の証明には,現状の考察との関連ではやや不備があるのですが,今回はその点は後回しにします。
強い意味の真理としての成立条件は,単に自己原因が存在すればよいというものではありませんでした。ですから現時点では,この真理性が解明されたというところまでは進んでいません。こちらの方を先に検討しておきます。
成立条件からして問われなければならないのは,神が各々の因果関係の必然性を,一般化するに足りるような存在であるのかどうかです。いい換えれば個々の原因と結果のうちにある必然性のうちに,ある共通する要素を提供し得るような存在であるのかどうかです。でもこの答えもまた簡単でしょう。すでに考察してきたことからして,神はそういう存在にほかならないからです。神が自己原因であるということと,万物の原因であるということが同一の意味であるということから,このことは明白だといえます。