決勝進出がすべて東日本勢となった大宮記念の決勝。並びは新田-菅田の北日本,神山-浦川の栃木茨城,平原-藤田の埼玉,松谷-福田の神奈川で石井は単騎。
菅田がスタートを取って新田の前受け。3番手に神山,5番手に石井,6番手に平原,8番手に松谷という周回に。残り2周のホームから松谷が上昇してバックの入口では新田の前に。このラインに続いていた平原がバックでさらに前に出て打鐘。藤田の後ろが石井で,それを追った神山が外を上がって平原を斬ってホーム。ここから新田が発進し,新田の先行に。しかし平原も即座に巻き返していき,両者のもがき合いがバックまで続きました。藤田は一旦は平原から離れた感じでしたが,バックで追い上げると3コーナーから自力発進。これに続こうとした石井をどかして神山が追って直線の争いに。神山が藤田を交わして優勝。4分の1車輪差で藤田が2着。新田マークから直線で外目に持ち出した菅田が半車身差の3着。
優勝した栃木の神山拓弥選手は2011年10月の千葉記念以来の記念競輪2勝目。同じ関東で地元勢との協力も考えられたところですが,別ラインで自力勝負を選択。力量が上位の両者の先行争いになったのは意外だったのですが,それをよく見て上手に立ち回りました。直線手前で石井を弾くことができたのが最大の勝因でしょう。まだ26歳という年齢からしてももっと活躍することが可能な選手ではないかと見立てていますので,その期待に応えてほしいところです。
最終段階の疑問は,第三段階の弱点と同じ性質を含んでいるといえます。
この疑問は,各々の因果的必然性を知性に一般化させる存在としてのPに関して,それが必然的ではないということを示すことには成功していませんし,またPの存在が偶然に由来するということの証明に成功しているというわけでもありません。したがって最終的にはやはりこれまでの疑問が抱えていたのと違わない弱点を含んでいるといわなければなりません。
しかし一方では,この疑問のうちには,この意味におけるPの存在は,ただそれが存在するということだけが明らかであれば強い意味の成立,それが公理として成立するのかどうかはともかく,公理として言明されている内容の真理性も保持されるというわけではなく,Pの存在自体が,必然的でなければならないということを示しています。すなわち強い意味が真理として成立するための必要条件を示唆しているという点において,やはりある積極的な意味を含んでいるということになります。
最終段階といっていますが,厳密に考えるならば,これは最終ではありません。というのはこの仮定におけるPに関して,その存在が必然的であるということを仮定すれば,それで強い意味は十全に真理であるといえるかといえば,絶対にそうだとはいえないからです。なぜなら,Pの必然性が何かほかのもの,たとえばSに由来するとするならば,そのSに関してもやはりPと同様にその存在の必然性が問われなければならないからです。同様にSの必然性が前提されても,そのSの必然性がほかのものに由来するとするならば,といった具合に,実はこの疑問は同じタイプの疑問を,レベルをひとつずつ上昇させていくことにより,無限に,あるいは少なくとも無際限に継続していくことが可能だからです。
しかし僕がこれで最終段階としたことに,理由がないわけではありません。ひとつはここでの疑問は方法論的懐疑という目的から発していますから,このような無限連鎖はまったく意味がないということです。もっともこれは,理由としてはいささか消極的すぎるかもしれません。
菅田がスタートを取って新田の前受け。3番手に神山,5番手に石井,6番手に平原,8番手に松谷という周回に。残り2周のホームから松谷が上昇してバックの入口では新田の前に。このラインに続いていた平原がバックでさらに前に出て打鐘。藤田の後ろが石井で,それを追った神山が外を上がって平原を斬ってホーム。ここから新田が発進し,新田の先行に。しかし平原も即座に巻き返していき,両者のもがき合いがバックまで続きました。藤田は一旦は平原から離れた感じでしたが,バックで追い上げると3コーナーから自力発進。これに続こうとした石井をどかして神山が追って直線の争いに。神山が藤田を交わして優勝。4分の1車輪差で藤田が2着。新田マークから直線で外目に持ち出した菅田が半車身差の3着。
優勝した栃木の神山拓弥選手は2011年10月の千葉記念以来の記念競輪2勝目。同じ関東で地元勢との協力も考えられたところですが,別ラインで自力勝負を選択。力量が上位の両者の先行争いになったのは意外だったのですが,それをよく見て上手に立ち回りました。直線手前で石井を弾くことができたのが最大の勝因でしょう。まだ26歳という年齢からしてももっと活躍することが可能な選手ではないかと見立てていますので,その期待に応えてほしいところです。
最終段階の疑問は,第三段階の弱点と同じ性質を含んでいるといえます。
この疑問は,各々の因果的必然性を知性に一般化させる存在としてのPに関して,それが必然的ではないということを示すことには成功していませんし,またPの存在が偶然に由来するということの証明に成功しているというわけでもありません。したがって最終的にはやはりこれまでの疑問が抱えていたのと違わない弱点を含んでいるといわなければなりません。
しかし一方では,この疑問のうちには,この意味におけるPの存在は,ただそれが存在するということだけが明らかであれば強い意味の成立,それが公理として成立するのかどうかはともかく,公理として言明されている内容の真理性も保持されるというわけではなく,Pの存在自体が,必然的でなければならないということを示しています。すなわち強い意味が真理として成立するための必要条件を示唆しているという点において,やはりある積極的な意味を含んでいるということになります。
最終段階といっていますが,厳密に考えるならば,これは最終ではありません。というのはこの仮定におけるPに関して,その存在が必然的であるということを仮定すれば,それで強い意味は十全に真理であるといえるかといえば,絶対にそうだとはいえないからです。なぜなら,Pの必然性が何かほかのもの,たとえばSに由来するとするならば,そのSに関してもやはりPと同様にその存在の必然性が問われなければならないからです。同様にSの必然性が前提されても,そのSの必然性がほかのものに由来するとするならば,といった具合に,実はこの疑問は同じタイプの疑問を,レベルをひとつずつ上昇させていくことにより,無限に,あるいは少なくとも無際限に継続していくことが可能だからです。
しかし僕がこれで最終段階としたことに,理由がないわけではありません。ひとつはここでの疑問は方法論的懐疑という目的から発していますから,このような無限連鎖はまったく意味がないということです。もっともこれは,理由としてはいささか消極的すぎるかもしれません。