Kを同居させることに対する奥さんの拒絶の理由のひとつに,娘が美貌であるということが間違いなくありました。これはまだKを同居させる以前のことですが,お嬢さんの結婚に関して奥さんと先生の間で話が出たとき,奥さんはお嬢さんの容姿に重きを置いていて,結婚などは決めようと思えばいつでも決められるという主旨のことを言っています。ここからみても,奥さんが愛娘が美人であると思っていたことは間違いないでしょう。
一方,この直前に先生は奥さんとお嬢さんの3人で日本橋に買い物に行っているのですが,それを大学の友人に目撃されています。これは土曜日の出来事で,月曜になって先生はその友人に,いつ妻を娶ったのかとからかわれています。そしてそのとき,その友人は,先生の細君は非常に美人だといって褒めたそうですから,客観的にみても,お嬢さんは美人であったのでしょう。
愛娘が美人であったということが,拒絶の理由になったのは,お嬢さんの美貌をもってすれば,きっとKはお嬢さんに好意を抱くであろうと奥さんが考えていたからです。Kがなぜお嬢さんに好意を抱くに至ったか,はっきりとした理由は分かりませんが,結果だけでいえば奥さんの予感は正しかったのです。
しかし,ここにはある疑問が発生してきます。お嬢さんが美貌であるからKがお嬢さんに好意を抱くであろうと予期するのであれば,同じことが先生にも妥当するからです。でも先生と同居することに,奥さんはほとんど躊躇していませんでした。とすれば,奥さんの中では,先生がお嬢さんを愛するようになっても構わないけれども,Kが愛するのは困るという考えがあったことになります。そして確かに奥さんは,Kの同居を拒絶する理由のひとつとして,それが先生のためにならないということを挙げていたのです。それは要するに,お嬢さんのことを,Kと争わなければならなくなるという意味であったように受け取れるのです。
このような前提の上で,先生とKと奥さんとお嬢さんの同居生活を読み込んでいくと,また別の視点が発生してきます。
強い意味に対して異議を申し立てるという立場からして,実際に因果関係が現実的に存在するということの証明をここでは省略しています。ですからこれは本来であればあまり好ましくないことではあるのですが,第三段階は,実在するとみなし得る具体的な実例を用いる方がよっぽど容易に理解できますから,あえてそうした説明をすることにします。
水が熱を与えられることによって沸騰して気化したとします。立場上,このことの真理性は問いませんが,この言明のうちに,ある因果関係が含まれているということに異論は出ないでしょう。熱が原因で,気化が結果です。
僕が外出から帰宅し,部屋の照明のスイッチをオンにしたので,その照明が点灯したとします。このことも真理性は問いませんが,同様に因果関係を含む言明であるということだけは間違いありません。僕がスイッチをオンにするその行動が原因で,照明の点灯が結果です。
強い意味では,これらの両者が共に必然的であるとされます。これについてもここではその真理性を問うことなしに,必然的であるということを認めることにします。
ここで問題となるのが,熱によって水が気化する必然性と,スイッチをオンにすることによって照明が点灯する必然性が,なぜ同じ意味において必然的であるといい得るのかということです。確かにそれは同じ必然的ということばで表現されていますが,ことばは記号にすぎません。単にそれらが同じ記号によって表現されるという理由だけで同様のものとして一般化するなら,これは悪しき一般化です。水が気化する必然性と,照明が点灯する必然性は,それを正しく説明するなら,つまり知性がそれを十全に認識する場合には,おおよそ異なった内容を有する筈です。つまり実際に必然性が正しく一般化されるためには,その内容のうちに何らかの同一性が存在するのでなければなりません。そしてこのことは,自然のうちに実在するとされる,すべての具体的な因果関係の正しい説明のうちで妥当します。つまりそれらすべての必然性のうちに,何らかの同一性がなければならないのです。
第一部公理三はこのことを少しも保証しているようにみえません。それなのに本当に強い意味は公理として,あるいはそもそも真理として,成立するといえるのでしょうか。
一方,この直前に先生は奥さんとお嬢さんの3人で日本橋に買い物に行っているのですが,それを大学の友人に目撃されています。これは土曜日の出来事で,月曜になって先生はその友人に,いつ妻を娶ったのかとからかわれています。そしてそのとき,その友人は,先生の細君は非常に美人だといって褒めたそうですから,客観的にみても,お嬢さんは美人であったのでしょう。
愛娘が美人であったということが,拒絶の理由になったのは,お嬢さんの美貌をもってすれば,きっとKはお嬢さんに好意を抱くであろうと奥さんが考えていたからです。Kがなぜお嬢さんに好意を抱くに至ったか,はっきりとした理由は分かりませんが,結果だけでいえば奥さんの予感は正しかったのです。
しかし,ここにはある疑問が発生してきます。お嬢さんが美貌であるからKがお嬢さんに好意を抱くであろうと予期するのであれば,同じことが先生にも妥当するからです。でも先生と同居することに,奥さんはほとんど躊躇していませんでした。とすれば,奥さんの中では,先生がお嬢さんを愛するようになっても構わないけれども,Kが愛するのは困るという考えがあったことになります。そして確かに奥さんは,Kの同居を拒絶する理由のひとつとして,それが先生のためにならないということを挙げていたのです。それは要するに,お嬢さんのことを,Kと争わなければならなくなるという意味であったように受け取れるのです。
このような前提の上で,先生とKと奥さんとお嬢さんの同居生活を読み込んでいくと,また別の視点が発生してきます。
強い意味に対して異議を申し立てるという立場からして,実際に因果関係が現実的に存在するということの証明をここでは省略しています。ですからこれは本来であればあまり好ましくないことではあるのですが,第三段階は,実在するとみなし得る具体的な実例を用いる方がよっぽど容易に理解できますから,あえてそうした説明をすることにします。
水が熱を与えられることによって沸騰して気化したとします。立場上,このことの真理性は問いませんが,この言明のうちに,ある因果関係が含まれているということに異論は出ないでしょう。熱が原因で,気化が結果です。
僕が外出から帰宅し,部屋の照明のスイッチをオンにしたので,その照明が点灯したとします。このことも真理性は問いませんが,同様に因果関係を含む言明であるということだけは間違いありません。僕がスイッチをオンにするその行動が原因で,照明の点灯が結果です。
強い意味では,これらの両者が共に必然的であるとされます。これについてもここではその真理性を問うことなしに,必然的であるということを認めることにします。
ここで問題となるのが,熱によって水が気化する必然性と,スイッチをオンにすることによって照明が点灯する必然性が,なぜ同じ意味において必然的であるといい得るのかということです。確かにそれは同じ必然的ということばで表現されていますが,ことばは記号にすぎません。単にそれらが同じ記号によって表現されるという理由だけで同様のものとして一般化するなら,これは悪しき一般化です。水が気化する必然性と,照明が点灯する必然性は,それを正しく説明するなら,つまり知性がそれを十全に認識する場合には,おおよそ異なった内容を有する筈です。つまり実際に必然性が正しく一般化されるためには,その内容のうちに何らかの同一性が存在するのでなければなりません。そしてこのことは,自然のうちに実在するとされる,すべての具体的な因果関係の正しい説明のうちで妥当します。つまりそれらすべての必然性のうちに,何らかの同一性がなければならないのです。
第一部公理三はこのことを少しも保証しているようにみえません。それなのに本当に強い意味は公理として,あるいはそもそも真理として,成立するといえるのでしょうか。