2014年の最初の記念競輪となった立川記念の決勝。並びは池田-平原-神山-佐久間の関東,山賀-中村の千葉,深谷に成田で渡部は単騎。
成田と山賀が飛び出しましたが内有利で誘導の後ろは成田が確保して深谷の前受け。3番手に山賀,5番手に池田となり,最後尾の渡部はこのラインを追走するレースになりました。
池田は残り2周のホームから上がっていき,出口では深谷の前に。バックに入ると内の深谷と外の池田の間を山賀が上がっていき,先頭に立って打鐘。ここから池田が発進すると外から深谷も踏み込んで先行争いに。制したのは深谷で,池田はバックで後退し,平原が3番手。そのまま平原は発進。成田のブロックをかいくぐると直線の入口では深谷の前に。あとは詰め寄られることもなく優勝。マークの神山が2車身差の2着で佐久間も1車身差で3着に続き,関東ラインで上位独占。
優勝した埼玉の平原康多選手は昨年11月の大垣記念以来となる記念競輪11勝目。立川記念は初優勝。このレースは展開が有利になりそうな平原と,パワーは最上位の深谷の争いが最大の焦点。池田は叩かれてしまったのですが,うまくスイッチできました。そこで休む選択もあったと思うのですが,そうはせずにすぐに発進したことが,結果的にラインでの上位独占の要因となったといえるでしょう。このように躊躇なく踏めるというのはその選手が好調である証と僕は考えますので,次走以降もかなりの活躍が見込めるのではないかと思います。
最初に踏まえておかなければならないのは,第一部公理三のうちには,ふたつの意味が含まれているという点です。前回の考察において,僕はそれらを便宜的に強い意味と弱い意味ということばで分類しました。続編ですので,ここでも同じいい方を用いることにします。
強い意味とは公理Axiomaの前半部分でいわれていることで,原因causaが与えられたなら,そこから必然的にnecessarioある結果effectusが発生するということです。弱い意味とは公理の後半部分でいわれていることで,結果が発生するためには原因が存在することが不可欠であるということです。
これらをそれぞれ強い意味,そして弱い意味と表現することには,明確な理由があります。この公理の前半部分は後半部分を説明することが可能であるけれども,後半部分によって前半部分が説明されるということはあり得ないということがそれです。別のいい方をするなら,強い意味が成立することを知性intellectusが十全に把握したとするなら,弱い意味の方も成立しなければならないということをその知性は自動的に把握します。しかし弱い意味の方が十全に成立するということをある知性が認識しても,直ちに強い意味が真理veritasであるという認識cognitioに至ることはないのです。
これは公理の文言から明白です。前半部分でいわれていること,すなわち原因が与えられることによって必然的に結果が生じるということが正しいのであれば,これは結果が生じるのにはその原因が存在しているというのと同じことです。いい換えるならばその原因が存在しないような結果というものは存在し得ないことになります。よって,結果の存在には原因の存在が不可欠であるという弱い意味も同時に成立します。
一方,結果が存在するために原因が不可欠であるからといって,原因が与えられたから必然的にその結果が生じたということにはなりません。原因が存在しなければ何らの結果も生じ得ないということのうちには,ただ原因が本性naturaの上で結果に「先立つ」存在existentiaでなければならないことは含まれていますが,それら両者の間に何らかの必然的な関係がなければならないということが含まれているとはまったくみなし得ないからです。
成田と山賀が飛び出しましたが内有利で誘導の後ろは成田が確保して深谷の前受け。3番手に山賀,5番手に池田となり,最後尾の渡部はこのラインを追走するレースになりました。
池田は残り2周のホームから上がっていき,出口では深谷の前に。バックに入ると内の深谷と外の池田の間を山賀が上がっていき,先頭に立って打鐘。ここから池田が発進すると外から深谷も踏み込んで先行争いに。制したのは深谷で,池田はバックで後退し,平原が3番手。そのまま平原は発進。成田のブロックをかいくぐると直線の入口では深谷の前に。あとは詰め寄られることもなく優勝。マークの神山が2車身差の2着で佐久間も1車身差で3着に続き,関東ラインで上位独占。
優勝した埼玉の平原康多選手は昨年11月の大垣記念以来となる記念競輪11勝目。立川記念は初優勝。このレースは展開が有利になりそうな平原と,パワーは最上位の深谷の争いが最大の焦点。池田は叩かれてしまったのですが,うまくスイッチできました。そこで休む選択もあったと思うのですが,そうはせずにすぐに発進したことが,結果的にラインでの上位独占の要因となったといえるでしょう。このように躊躇なく踏めるというのはその選手が好調である証と僕は考えますので,次走以降もかなりの活躍が見込めるのではないかと思います。
最初に踏まえておかなければならないのは,第一部公理三のうちには,ふたつの意味が含まれているという点です。前回の考察において,僕はそれらを便宜的に強い意味と弱い意味ということばで分類しました。続編ですので,ここでも同じいい方を用いることにします。
強い意味とは公理Axiomaの前半部分でいわれていることで,原因causaが与えられたなら,そこから必然的にnecessarioある結果effectusが発生するということです。弱い意味とは公理の後半部分でいわれていることで,結果が発生するためには原因が存在することが不可欠であるということです。
これらをそれぞれ強い意味,そして弱い意味と表現することには,明確な理由があります。この公理の前半部分は後半部分を説明することが可能であるけれども,後半部分によって前半部分が説明されるということはあり得ないということがそれです。別のいい方をするなら,強い意味が成立することを知性intellectusが十全に把握したとするなら,弱い意味の方も成立しなければならないということをその知性は自動的に把握します。しかし弱い意味の方が十全に成立するということをある知性が認識しても,直ちに強い意味が真理veritasであるという認識cognitioに至ることはないのです。
これは公理の文言から明白です。前半部分でいわれていること,すなわち原因が与えられることによって必然的に結果が生じるということが正しいのであれば,これは結果が生じるのにはその原因が存在しているというのと同じことです。いい換えるならばその原因が存在しないような結果というものは存在し得ないことになります。よって,結果の存在には原因の存在が不可欠であるという弱い意味も同時に成立します。
一方,結果が存在するために原因が不可欠であるからといって,原因が与えられたから必然的にその結果が生じたということにはなりません。原因が存在しなければ何らの結果も生じ得ないということのうちには,ただ原因が本性naturaの上で結果に「先立つ」存在existentiaでなければならないことは含まれていますが,それら両者の間に何らかの必然的な関係がなければならないということが含まれているとはまったくみなし得ないからです。