2014年の最初の大レース。第63回川崎記念。
トウショウフリークの逃げは予想通り。あまり抑えが利くタイプではないようなので,大逃げも想定の範囲内でしょう。離れた2番手がホッコータルマエ。内にムスカテールで外にこれも必死に抑えられていたような印象のフリートストリート。そしてランフォルセが続きました。超ハイペースといえますが,これは1頭が飛ばしたため。
向正面からホッコータルマエが徐々に差を詰め始め,直線の入口ではトウショウフリークの外に雁行。さすがにトウショウフリークは一杯で,ホッコータルマエが抜け出ましたが,外に切り替えたムスカテールが追い上げ,叩き合いに。底力で凌いだホッコータルマエが優勝。ムスカテールが半馬身差まで迫って2着。逃げたトウショウフリークが5馬身差で3着。
優勝したホッコータルマエは暮れの東京大賞典に続いて大レース5勝目。ここはライバルといえるような馬が不在でしたから,普通に回ってくれば勝つであろうと思っていました。自分で勝ちにいった分,苦しくなった面はあったかと思いますが,マークした相手を凌いでの勝利は,着差以上の力差があることの証明であると思います。ただ,このクラス相手のダート戦が初めてであったムスカテールの今後も楽しみでしょう。父はキングカメハメハ。
騎乗した幸英明騎手,管理している西浦勝一調教師は東京大賞典に続く大レース制覇で川崎記念初勝利。
三種類の必然のうち,第一のタイプおよび第二のタイプと第三のタイプとの間の絶対的な相違の根拠は,ひとつ前の考察の中で論じた事柄を思い返すと,さらに補強されることになります。
第一部定理二六は,ある因果関係に関しての言及です。ですからそこで用いられている必然的ということばは,第二のタイプに分類されます。いうまでもなくこのとき,原因は神で,結果が物です。
このとき,神の決定というのは,神の意志を意味するわけではありません。もしもそれが神の意志ということなら,神はその意志によって物を存在するようにしたりしなかったりするようにしますし,作用するようにしたり作用しなかったりするということになります。そうであるなら確かに神は物を限定し,物は神によって限定されるということになります。しかし実際に神の決定が意味しているのはこのような神の意志ではなく,神の本性の法則,いい換えれば必然性なのです。
したがって第一部定理二六が物について意味しているところは,物は神の本性の必然性に則したありとあらゆることをなし,同じ必然性に反したすべてのことをなさないということです。このあたりの詳しい分析は,当時の考察を参照してください。
ただ,これだけではまだ物は限定されているといえなくもない面が残ることを僕も認めます。物は神の本性の必然性のうちでしか何事もなし得ないというのは,確かに物に関するある限定であると解釈する余地があるからです。しかし重要なのは,その神の本性の必然性とは,神が存在する必然性のことなのだということです。第一部定理二五備考で自己原因と原因が同一の意味であるといわれているのは,この事態のことを指示しているのです。
そうであるならば,もしも物がその必然性に反する何事かをなすとしたら,それがその物の限定あるいは否定を意味することになります。自己原因のうちに限定的要素が含まれる筈がないのですから,それに反するなら,それは肯定ではなく,否定であるとみなされなければならないからです。よってこの点からも,第二のタイプは結果についても限定を含んでいないと解されなければなりません。
トウショウフリークの逃げは予想通り。あまり抑えが利くタイプではないようなので,大逃げも想定の範囲内でしょう。離れた2番手がホッコータルマエ。内にムスカテールで外にこれも必死に抑えられていたような印象のフリートストリート。そしてランフォルセが続きました。超ハイペースといえますが,これは1頭が飛ばしたため。
向正面からホッコータルマエが徐々に差を詰め始め,直線の入口ではトウショウフリークの外に雁行。さすがにトウショウフリークは一杯で,ホッコータルマエが抜け出ましたが,外に切り替えたムスカテールが追い上げ,叩き合いに。底力で凌いだホッコータルマエが優勝。ムスカテールが半馬身差まで迫って2着。逃げたトウショウフリークが5馬身差で3着。
優勝したホッコータルマエは暮れの東京大賞典に続いて大レース5勝目。ここはライバルといえるような馬が不在でしたから,普通に回ってくれば勝つであろうと思っていました。自分で勝ちにいった分,苦しくなった面はあったかと思いますが,マークした相手を凌いでの勝利は,着差以上の力差があることの証明であると思います。ただ,このクラス相手のダート戦が初めてであったムスカテールの今後も楽しみでしょう。父はキングカメハメハ。
騎乗した幸英明騎手,管理している西浦勝一調教師は東京大賞典に続く大レース制覇で川崎記念初勝利。
三種類の必然のうち,第一のタイプおよび第二のタイプと第三のタイプとの間の絶対的な相違の根拠は,ひとつ前の考察の中で論じた事柄を思い返すと,さらに補強されることになります。
第一部定理二六は,ある因果関係に関しての言及です。ですからそこで用いられている必然的ということばは,第二のタイプに分類されます。いうまでもなくこのとき,原因は神で,結果が物です。
このとき,神の決定というのは,神の意志を意味するわけではありません。もしもそれが神の意志ということなら,神はその意志によって物を存在するようにしたりしなかったりするようにしますし,作用するようにしたり作用しなかったりするということになります。そうであるなら確かに神は物を限定し,物は神によって限定されるということになります。しかし実際に神の決定が意味しているのはこのような神の意志ではなく,神の本性の法則,いい換えれば必然性なのです。
したがって第一部定理二六が物について意味しているところは,物は神の本性の必然性に則したありとあらゆることをなし,同じ必然性に反したすべてのことをなさないということです。このあたりの詳しい分析は,当時の考察を参照してください。
ただ,これだけではまだ物は限定されているといえなくもない面が残ることを僕も認めます。物は神の本性の必然性のうちでしか何事もなし得ないというのは,確かに物に関するある限定であると解釈する余地があるからです。しかし重要なのは,その神の本性の必然性とは,神が存在する必然性のことなのだということです。第一部定理二五備考で自己原因と原因が同一の意味であるといわれているのは,この事態のことを指示しているのです。
そうであるならば,もしも物がその必然性に反する何事かをなすとしたら,それがその物の限定あるいは否定を意味することになります。自己原因のうちに限定的要素が含まれる筈がないのですから,それに反するなら,それは肯定ではなく,否定であるとみなされなければならないからです。よってこの点からも,第二のタイプは結果についても限定を含んでいないと解されなければなりません。