神的自由が人間に属することはない。一方で人間が哲学する自由は守られなければならない。スピノザはこれらふたつのことを同時に主張しました。スピノザがそう主張することが可能であったのは,哲学する自由というときの自由libertasは,神的自由とは異なる自由であると規定していたからだとしか考えられません。そこで今度は,人間についていわれる自由,すなわち神的自由とは異なる自由を人間的自由と名付け,人間的自由というのがいかなる概念notioであるかを探求していきます。
僕が解するところでは,人間的自由とは,第一義的にいうならば,人間の本性natura humanaが十全な原因causa adaequataとなってある結果effectusが生じる場合に,その結果に対して人間は自由であるという意味です。他面からいえば,人間の自由とは,人間の能動actioであるということになります。

人間的自由の第一義的意味が,人間の能動と関連させられることは,第一部定義七からして,ごく自然であるように僕には思えます。というのは,自己の本性によって存在existentiaに決定されるというのは,自己の存在の原因が自己の本性に属するという意味です。また,自己自身によって行動に決定されるというのは,その行動の原因が自己自身の本性に属するという意味です。これらはいずれも自己自身といわれているものの能動です。人間はこうした意味において自由な存在ではあり得ませんが,だから人間には能動が生じないということではありません。受動passioも生じるけれども,能動も生じるのです。ですから人間が能動的である場合に,その人間が自由であるといわれるのは,人間的自由というものを規定する場合には,当然のことであるといえるでしょう。
一方,第一部定義七は,能動と自由とを関連付けると同時に,それ自身の本性と自由とを関連付けているともいえます。すると,たとえば第四部定理四により,現実的に存在する人間は受動から免れ得ないので,このこと自体が人間の現実的本性actualis essentiaに属するというように考えられます。そして僕が解釈するところでは,このような人間の現実的本性と関連付けられるような人間的自由というものも,スピノザは認めています。
人間的自由と名付けられる自由には,能動的自由と受動的自由があるというのがスピノザの哲学における考え方であるというのが,僕の結論です。
2005年の3月から4月にかけて,僕の家は2階建ての1階部分をバリアフリー化するリフォームを施工しました。この工事の期間は自宅で普段の生活を送ることは困難でした。このために生活の拠点をアパートに移しています。また,2010年7月に治療ができなくなった父が退院したときは,祖母の居住空間であった1階のリビングに父の医療用ベッドを設置しました。このためにショートステイに行っていない期間も,祖母は家で暮らすことができなくなりました。偶さかでしたがロサンゼルスの伯母が来日している期間でしたから,祖母は伯母とアパートを生活の拠点としたわけです。
リフォームの時点では叔父はまだアパートに移住してはいませんでした。だから僕たちがそこを居住空間とすることが可能だったのです。一方,父の人生の末期の頃には,すでに叔父がアパートに住んでいました。叔父が住むようになってからは,ほぼ独占的に叔父がアパートを使用していたのであって,伯母が来日したときに宿泊することはあっても,僕と母,そして妹が生活のために必要としている場所ではありませんでした。例外をいえば,父が死んだ後で母が入院し,再び伯母の来日があった時期は,伯母がアパートで夕食の支度をし,妹はそれを食べに行っていたということがあっただけです。ですからアパートを引き払うこと自体は何か重大な支障を及ぼすわけではありません。手続きは母がしなければならないでしょうが,それも面倒というほどのことでもないでしょう。ですから9月になれば,アパートの賃貸契約は破棄されるものと思われます。
ただ,母と叔父の間で解決するべきことなので何か意見したりすることはありませんが,僕はひとつだけ,どうするのだろうかと思っていることがあります。
アパートには仏壇があります。これは叔父が五島に持っていくと思うのです。僕が気になっているのはお寺との関係をどうするのだろうかということです。法事のときには叔父がこちらに来れば済むでしょう。ただ,毎年お盆の時期には住職来訪があります。まさか五島まで行ってくれるわけはないでしょうから,それにはどう対処するのでしょうか。
僕が解するところでは,人間的自由とは,第一義的にいうならば,人間の本性natura humanaが十全な原因causa adaequataとなってある結果effectusが生じる場合に,その結果に対して人間は自由であるという意味です。他面からいえば,人間の自由とは,人間の能動actioであるということになります。

人間的自由の第一義的意味が,人間の能動と関連させられることは,第一部定義七からして,ごく自然であるように僕には思えます。というのは,自己の本性によって存在existentiaに決定されるというのは,自己の存在の原因が自己の本性に属するという意味です。また,自己自身によって行動に決定されるというのは,その行動の原因が自己自身の本性に属するという意味です。これらはいずれも自己自身といわれているものの能動です。人間はこうした意味において自由な存在ではあり得ませんが,だから人間には能動が生じないということではありません。受動passioも生じるけれども,能動も生じるのです。ですから人間が能動的である場合に,その人間が自由であるといわれるのは,人間的自由というものを規定する場合には,当然のことであるといえるでしょう。
一方,第一部定義七は,能動と自由とを関連付けると同時に,それ自身の本性と自由とを関連付けているともいえます。すると,たとえば第四部定理四により,現実的に存在する人間は受動から免れ得ないので,このこと自体が人間の現実的本性actualis essentiaに属するというように考えられます。そして僕が解釈するところでは,このような人間の現実的本性と関連付けられるような人間的自由というものも,スピノザは認めています。
人間的自由と名付けられる自由には,能動的自由と受動的自由があるというのがスピノザの哲学における考え方であるというのが,僕の結論です。
2005年の3月から4月にかけて,僕の家は2階建ての1階部分をバリアフリー化するリフォームを施工しました。この工事の期間は自宅で普段の生活を送ることは困難でした。このために生活の拠点をアパートに移しています。また,2010年7月に治療ができなくなった父が退院したときは,祖母の居住空間であった1階のリビングに父の医療用ベッドを設置しました。このためにショートステイに行っていない期間も,祖母は家で暮らすことができなくなりました。偶さかでしたがロサンゼルスの伯母が来日している期間でしたから,祖母は伯母とアパートを生活の拠点としたわけです。
リフォームの時点では叔父はまだアパートに移住してはいませんでした。だから僕たちがそこを居住空間とすることが可能だったのです。一方,父の人生の末期の頃には,すでに叔父がアパートに住んでいました。叔父が住むようになってからは,ほぼ独占的に叔父がアパートを使用していたのであって,伯母が来日したときに宿泊することはあっても,僕と母,そして妹が生活のために必要としている場所ではありませんでした。例外をいえば,父が死んだ後で母が入院し,再び伯母の来日があった時期は,伯母がアパートで夕食の支度をし,妹はそれを食べに行っていたということがあっただけです。ですからアパートを引き払うこと自体は何か重大な支障を及ぼすわけではありません。手続きは母がしなければならないでしょうが,それも面倒というほどのことでもないでしょう。ですから9月になれば,アパートの賃貸契約は破棄されるものと思われます。
ただ,母と叔父の間で解決するべきことなので何か意見したりすることはありませんが,僕はひとつだけ,どうするのだろうかと思っていることがあります。
アパートには仏壇があります。これは叔父が五島に持っていくと思うのです。僕が気になっているのはお寺との関係をどうするのだろうかということです。法事のときには叔父がこちらに来れば済むでしょう。ただ,毎年お盆の時期には住職来訪があります。まさか五島まで行ってくれるわけはないでしょうから,それにはどう対処するのでしょうか。