出雲文化伝承館で指された昨日の第43期女流名人戦五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手で角道オープン三間飛車。上田初美女流三段はすぐに角交換して角を打つ乱戦に。もっともこれは先手が早めに☗4八王と上がったために生じた手順で,先手が誘ったといえるでしょう。前例は3局で後手の2勝1千日手であったそうですから,先手に研究があったものと推測されます。実際に早い段階で前例から離れました。しかし誤算が発生しました。

第1図がその局面。ここで☗3八銀と上がる予定であったようです。これに対して☖4五馬とでも引けば☗1八香☖同馬と進み,銀が上がれている分だけ後手の得。ですが☖1六馬と引く手があり,☗1八香☖3八馬☗同金☖1八香成と二枚換えに進める手順があるとのこと。先手はそこで☗7五歩から攻めていくことになるのですが☖6二銀と受ける手が生じるようです。そうされると先手も☗7四歩と取り込むほかありません。

第2図で☖7二歩と打つことができるのが第1図以下の手順で☖1六馬と一歩を入手していた効果。それでも難しそうなので,そう進める順もあったかと思いますが,先手は第1図で☗同香と取って☖同馬☗7四飛☖2九馬と進めました。この変化は駒得の分だけ後手も満足だったのではないでしょうか。
誤算があったとはいえその手順で先手が著しく不利になったというわけではありません。ただその後の手順で先手が最善を逃したために,後手の勝ちに終っています。
上田三段が連勝。第三局は29日です。
『破門の哲学』は,ユダヤ人共同体から破門されたということがスピノザの人生において最大の出来事であったという観点の下に,その破門という経験からスピノザの哲学を読解しようとする試みであるといえます。これはまさに,フロイデンタールJacob Freudenthalがスピノザが独身であったということから第三部諸感情の定義六を解しているのと同じように,スピノザの人生を前提としてその哲学を解そうとする姿勢であるといえます。つまり僕の手法とは真逆です。
フロイデンタールが「シナゴーグ離脱の弁明書」をスピノザが書いた動機を解する際にも,同じような手法を採用しているとは必ずしもいえません。しかし清水がそうしていることは間違いありません。そしてその動機に関する結論もまた,僕の見解とは真逆になっているのです。そうしてみると,スピノザはシナゴーグからの破門を避けたいがために弁明書を書いたとする清水の見解と,そうではなくて破門されることを前提に,なぜ破門されることを選択するのかということを弁明したのだという僕の見解の相違が,そもそも人生から哲学を読み解くのか,哲学から人生の選択を読み解くのかという手法の相違に帰することができる可能性があるのです。そしてもしもそうであるのならば,スピノザが独身であったこととスピノザの哲学を関連させて考察する場合にも,同じようなことが発生する可能性があるといわなければなりません。
前もっていっておきますが,僕はスピノザが独身であったこと,いい換えれば結婚をしないという選択をしたことと,スピノザの哲学との間には,あまり関連性はないという見解を抱いています。これは僕の手法の下の見解ですから,要するにスピノザの哲学からは,独身でなければならないということが帰結するわけではないという意味です。ですがフロイデンタールは逆に,スピノザは結婚をせず,子どももいなかったから第三部諸感情の定義六のように愛amorを定義したのだとみなしているわけで,その間には一定の関係があるとしなければなりません。この相違が手法の相違に帰せられるかもしれないので,僕は事前に僕の手法を説明し,その点の注意を与えておきたかったのです。
里見香奈女流名人の先手で角道オープン三間飛車。上田初美女流三段はすぐに角交換して角を打つ乱戦に。もっともこれは先手が早めに☗4八王と上がったために生じた手順で,先手が誘ったといえるでしょう。前例は3局で後手の2勝1千日手であったそうですから,先手に研究があったものと推測されます。実際に早い段階で前例から離れました。しかし誤算が発生しました。

第1図がその局面。ここで☗3八銀と上がる予定であったようです。これに対して☖4五馬とでも引けば☗1八香☖同馬と進み,銀が上がれている分だけ後手の得。ですが☖1六馬と引く手があり,☗1八香☖3八馬☗同金☖1八香成と二枚換えに進める手順があるとのこと。先手はそこで☗7五歩から攻めていくことになるのですが☖6二銀と受ける手が生じるようです。そうされると先手も☗7四歩と取り込むほかありません。

第2図で☖7二歩と打つことができるのが第1図以下の手順で☖1六馬と一歩を入手していた効果。それでも難しそうなので,そう進める順もあったかと思いますが,先手は第1図で☗同香と取って☖同馬☗7四飛☖2九馬と進めました。この変化は駒得の分だけ後手も満足だったのではないでしょうか。
誤算があったとはいえその手順で先手が著しく不利になったというわけではありません。ただその後の手順で先手が最善を逃したために,後手の勝ちに終っています。
上田三段が連勝。第三局は29日です。
『破門の哲学』は,ユダヤ人共同体から破門されたということがスピノザの人生において最大の出来事であったという観点の下に,その破門という経験からスピノザの哲学を読解しようとする試みであるといえます。これはまさに,フロイデンタールJacob Freudenthalがスピノザが独身であったということから第三部諸感情の定義六を解しているのと同じように,スピノザの人生を前提としてその哲学を解そうとする姿勢であるといえます。つまり僕の手法とは真逆です。
フロイデンタールが「シナゴーグ離脱の弁明書」をスピノザが書いた動機を解する際にも,同じような手法を採用しているとは必ずしもいえません。しかし清水がそうしていることは間違いありません。そしてその動機に関する結論もまた,僕の見解とは真逆になっているのです。そうしてみると,スピノザはシナゴーグからの破門を避けたいがために弁明書を書いたとする清水の見解と,そうではなくて破門されることを前提に,なぜ破門されることを選択するのかということを弁明したのだという僕の見解の相違が,そもそも人生から哲学を読み解くのか,哲学から人生の選択を読み解くのかという手法の相違に帰することができる可能性があるのです。そしてもしもそうであるのならば,スピノザが独身であったこととスピノザの哲学を関連させて考察する場合にも,同じようなことが発生する可能性があるといわなければなりません。
前もっていっておきますが,僕はスピノザが独身であったこと,いい換えれば結婚をしないという選択をしたことと,スピノザの哲学との間には,あまり関連性はないという見解を抱いています。これは僕の手法の下の見解ですから,要するにスピノザの哲学からは,独身でなければならないということが帰結するわけではないという意味です。ですがフロイデンタールは逆に,スピノザは結婚をせず,子どももいなかったから第三部諸感情の定義六のように愛amorを定義したのだとみなしているわけで,その間には一定の関係があるとしなければなりません。この相違が手法の相違に帰せられるかもしれないので,僕は事前に僕の手法を説明し,その点の注意を与えておきたかったのです。