1667年1月7日付の書簡三十四をフッデJohann Huddeに送った後,スピノザとフッデとの間で何通かの書簡のやり取りがありました。2月10日付でフッデが送ったのですが,そこに書かれている質問の意味がスピノザには理解できなかったようです。おそらくスピノザが質問の主旨を確認する手紙を送り,フッデは3月30日付でそれに対する返信を送りました。4月10日付でスピノザがその質問に答えたのが書簡三十五です。

この書簡の主題はひとつだけです。自己の力potentiaによって存在するものは「唯一」であるか否かということです。フッデの質問の主旨がそういうことだとスピノザにも理解できたので,スピノザはそれを肯定する解答,すなわち自己の力によって存在するものは「唯一」であることを肯定し,かつそれを論証しています。
スピノザは論証のために6つの前提を示しています。
一 自己の力によって存在するものは永遠aeterunusでなければならない。
二 自己の力によって存在するものが部分から合成されることはない。これが成立するのは,部分から合成された全体の認識には,部分の認識が「先立つ」からだとスピノザはいっています。
三 自己の力によって存在するものは無限infinitumである。
四 自己の力によって存在するものは不可分的である。
五 条件一ないしは条件三を満たすものは最高に完全summe perfectumである。
六 条件五を満たすものが存在しないのなら何も存在し得ない。
自己の力によって存在するものは第一部定義一により自己原因causa suiです。そして第一部定理七により実体substantiaは自己原因です。そして第一部定理一四により神Deusのほかには実体は存在しません。つまりフッデの質問は,スピノザからすると,神は「唯一」であるか否かという質問と同じです。最後の条件六は第一部定理一一第三の証明と同じです。つまりスピノザはここで,名目的にではなく実在的な意味でフッデの質問に答えたことになります。
哲学的見解だけに絞って,スピノザが結婚を否定していなかったということを示すためには,第四部付録第二〇項を参照するのがよいでしょう。
「結婚に関して言えば,もし性交への欲望が外的美からのみでなく,子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,その上もし両者ー男と女ーの愛が外的美のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら,それは理性と一致することが確実である」。
条件付きではありますが,スピノザが結婚をそれ自体で否定していないことはここから明白であるといえます。ましてここでは結婚が理性ratioと一致することが可能であるといわれているわけではなく,理性と一致するのが確実だといわれているわけですから,スピノザが示しているふたつの条件が満たされるなら,結婚することはむしろ奨励されているとさえ解することができると思います。ついでにいいますと,賢明に教育しようとする愛amorから生ずるとしたら,ではなく,賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,といわれ,精神の自由に基づくなら,ではなく,精神の自由にも基づくなら,といわれているので,単に結婚が肯定されているというだけでなく,性交も肯定されていると解することもできるかと思います。
したがって,スピノザが独身を貫き通したことが,スピノザの哲学的見解による帰結であったとは僕には考えらえません。なぜスピノザが結婚するという選択をしなかったかは分かりません。ここで示されている条件を満たす相手と出会えなかったからかもしれませんし,経済的条件が結婚を許さなかったからなのかもしれません。あるいはもっと別の理由があったからかもしれません。ただ,少なくともスピノザの哲学的見解に結婚を全面的に否定する要素は含まれていないということ,そしてスピノザは独身者を優遇し既婚者を排斥するような態度を行動の上でもとらなかったということのふたつは確実であると僕は解します。つまりスピノザが独身であったということとスピノザの哲学的見解との間には,明確な因果関係は存在しないと判断するということです。
この項については別の観点から考察したいことが含まれます。

この書簡の主題はひとつだけです。自己の力potentiaによって存在するものは「唯一」であるか否かということです。フッデの質問の主旨がそういうことだとスピノザにも理解できたので,スピノザはそれを肯定する解答,すなわち自己の力によって存在するものは「唯一」であることを肯定し,かつそれを論証しています。
スピノザは論証のために6つの前提を示しています。
一 自己の力によって存在するものは永遠aeterunusでなければならない。
二 自己の力によって存在するものが部分から合成されることはない。これが成立するのは,部分から合成された全体の認識には,部分の認識が「先立つ」からだとスピノザはいっています。
三 自己の力によって存在するものは無限infinitumである。
四 自己の力によって存在するものは不可分的である。
五 条件一ないしは条件三を満たすものは最高に完全summe perfectumである。
六 条件五を満たすものが存在しないのなら何も存在し得ない。
自己の力によって存在するものは第一部定義一により自己原因causa suiです。そして第一部定理七により実体substantiaは自己原因です。そして第一部定理一四により神Deusのほかには実体は存在しません。つまりフッデの質問は,スピノザからすると,神は「唯一」であるか否かという質問と同じです。最後の条件六は第一部定理一一第三の証明と同じです。つまりスピノザはここで,名目的にではなく実在的な意味でフッデの質問に答えたことになります。
哲学的見解だけに絞って,スピノザが結婚を否定していなかったということを示すためには,第四部付録第二〇項を参照するのがよいでしょう。
「結婚に関して言えば,もし性交への欲望が外的美からのみでなく,子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,その上もし両者ー男と女ーの愛が外的美のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら,それは理性と一致することが確実である」。
条件付きではありますが,スピノザが結婚をそれ自体で否定していないことはここから明白であるといえます。ましてここでは結婚が理性ratioと一致することが可能であるといわれているわけではなく,理性と一致するのが確実だといわれているわけですから,スピノザが示しているふたつの条件が満たされるなら,結婚することはむしろ奨励されているとさえ解することができると思います。ついでにいいますと,賢明に教育しようとする愛amorから生ずるとしたら,ではなく,賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,といわれ,精神の自由に基づくなら,ではなく,精神の自由にも基づくなら,といわれているので,単に結婚が肯定されているというだけでなく,性交も肯定されていると解することもできるかと思います。
したがって,スピノザが独身を貫き通したことが,スピノザの哲学的見解による帰結であったとは僕には考えらえません。なぜスピノザが結婚するという選択をしなかったかは分かりません。ここで示されている条件を満たす相手と出会えなかったからかもしれませんし,経済的条件が結婚を許さなかったからなのかもしれません。あるいはもっと別の理由があったからかもしれません。ただ,少なくともスピノザの哲学的見解に結婚を全面的に否定する要素は含まれていないということ,そしてスピノザは独身者を優遇し既婚者を排斥するような態度を行動の上でもとらなかったということのふたつは確実であると僕は解します。つまりスピノザが独身であったということとスピノザの哲学的見解との間には,明確な因果関係は存在しないと判断するということです。
この項については別の観点から考察したいことが含まれます。