海と宝石②でこの曲の一番は終り。二番は次のように始まります。
冷たそうな女が 身について
傷つけることだけ 得意です
海と宝石①で示した冒頭の二行を,僕は当初はおおよそ不自然に解釈していましたが,実際には女の独白と解するべきでした。同様にこの二行も女の独白でしょう。ただし一番が単なるお願いであるのに対して,ここは自己評価のようになっているという違いがあります。
最初の一行から理解できるのは,少なくとも他人はこの女のことを冷たい女とみなしているというように,女自身が把握しているということです。ただ,たぶん女自身は,自分が冷たい女であるというようには認識していません。冷たい女が身についた,と歌わずに,冷たそうな女が身についた,と歌っているのは,そういう理由からであると僕は解釈します。
次の一行は,他人を傷つけることが得意になったということで,以前とは自分が変化したということを女が認識していることを示します。ただ,僕の考えでいえば,この女は他人のことを傷つけることを意図して傷つけているのではありません。そんなつもりが少しもなくても結果的に他人を傷つけてしまうようになった,傷つけずにはいられなくなった,というような意味だと思います。だから得意ですと歌っているのは,それを自慢しようとしているのではなく,むしろ自虐的な意味が込められているのだと解します。なおかつ,それが得意である,と歌っているのではなく,それだけが得意である,と歌っているのですから,自虐とか落胆の色合いはそれだけ濃いものであると感じられます。
なのでこの部分は僕にもそう難しくありません。ほかの解釈もあり得るでしょうが,僕は僕の解釈で納得できます。
『スピノザの生涯』の第八章で,スピノザ自身の暮らしと『エチカ』のある定義Definitioが関連付けられて説明されている箇所があります。
スピノザがハーグで暮らすようになった時点で,両親はずっと前に死んでいました。そしてきょうだいとも音信不通でした。これはもちろんスピノザがずっと前に破門されたことが影響しているのであり,要するにスピノザは破門以降は,それまでは存在していたであろう家族との関係の一切が断たれていました。また,スピノザは結婚しませんでしたし,子どももいませんでしたから,破門されてからは,一般的な意味で解されるような家庭環境というものに身を置くことはありませんでした。
フロイデンタールJacob Freudenthalによれば,スピノザは家庭生活への配慮と煩雑さから解放されることによって,活動の自由と独立性を失わずにすみました。なお,フロイデンタールはこの点については,スピノザだけでなく,デカルトやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizといった,その生涯を独身で通したほかの人の名前もあげていますので,こうした要素は独身者に共通のものであると解していると考えられます。
しかし,スピノザはそのことによって,人間の生活の最も美しくまた最も有意義な一面からも閉ざされていたのだとフロイデンタールは主張しています。この部分もとくにスピノザに対して妥当するのでなく,すべての独身者はそうした一面から閉ざされているとフロイデンタールがみなしているのは間違いありません。フロイデンタールの理解では,スピノザは自由を獲得できたという利益よりも,家庭生活の美しさや有意義さから閉ざされていたという損失の方が大きかったのです。
何が人生について美しいことであり,何が人生にとって有意義であるのかについて,議論しようという気は僕には少しもありません。おそらくこの記述からすれば,フロイデンタールはよき家族,妻と子どもに恵まれていて,そうした自身の人生における価値観からこのような評価を下しているのだと僕は推測しますが,そのフロイデンタールの価値観が誤りであるとも僕は思わないです。ですがそれをスピノザの哲学と結び付けるべきではないだろうと僕は考えるのです。
冷たそうな女が 身について
傷つけることだけ 得意です
海と宝石①で示した冒頭の二行を,僕は当初はおおよそ不自然に解釈していましたが,実際には女の独白と解するべきでした。同様にこの二行も女の独白でしょう。ただし一番が単なるお願いであるのに対して,ここは自己評価のようになっているという違いがあります。
最初の一行から理解できるのは,少なくとも他人はこの女のことを冷たい女とみなしているというように,女自身が把握しているということです。ただ,たぶん女自身は,自分が冷たい女であるというようには認識していません。冷たい女が身についた,と歌わずに,冷たそうな女が身についた,と歌っているのは,そういう理由からであると僕は解釈します。
次の一行は,他人を傷つけることが得意になったということで,以前とは自分が変化したということを女が認識していることを示します。ただ,僕の考えでいえば,この女は他人のことを傷つけることを意図して傷つけているのではありません。そんなつもりが少しもなくても結果的に他人を傷つけてしまうようになった,傷つけずにはいられなくなった,というような意味だと思います。だから得意ですと歌っているのは,それを自慢しようとしているのではなく,むしろ自虐的な意味が込められているのだと解します。なおかつ,それが得意である,と歌っているのではなく,それだけが得意である,と歌っているのですから,自虐とか落胆の色合いはそれだけ濃いものであると感じられます。
なのでこの部分は僕にもそう難しくありません。ほかの解釈もあり得るでしょうが,僕は僕の解釈で納得できます。
『スピノザの生涯』の第八章で,スピノザ自身の暮らしと『エチカ』のある定義Definitioが関連付けられて説明されている箇所があります。
スピノザがハーグで暮らすようになった時点で,両親はずっと前に死んでいました。そしてきょうだいとも音信不通でした。これはもちろんスピノザがずっと前に破門されたことが影響しているのであり,要するにスピノザは破門以降は,それまでは存在していたであろう家族との関係の一切が断たれていました。また,スピノザは結婚しませんでしたし,子どももいませんでしたから,破門されてからは,一般的な意味で解されるような家庭環境というものに身を置くことはありませんでした。
フロイデンタールJacob Freudenthalによれば,スピノザは家庭生活への配慮と煩雑さから解放されることによって,活動の自由と独立性を失わずにすみました。なお,フロイデンタールはこの点については,スピノザだけでなく,デカルトやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizといった,その生涯を独身で通したほかの人の名前もあげていますので,こうした要素は独身者に共通のものであると解していると考えられます。
しかし,スピノザはそのことによって,人間の生活の最も美しくまた最も有意義な一面からも閉ざされていたのだとフロイデンタールは主張しています。この部分もとくにスピノザに対して妥当するのでなく,すべての独身者はそうした一面から閉ざされているとフロイデンタールがみなしているのは間違いありません。フロイデンタールの理解では,スピノザは自由を獲得できたという利益よりも,家庭生活の美しさや有意義さから閉ざされていたという損失の方が大きかったのです。
何が人生について美しいことであり,何が人生にとって有意義であるのかについて,議論しようという気は僕には少しもありません。おそらくこの記述からすれば,フロイデンタールはよき家族,妻と子どもに恵まれていて,そうした自身の人生における価値観からこのような評価を下しているのだと僕は推測しますが,そのフロイデンタールの価値観が誤りであるとも僕は思わないです。ですがそれをスピノザの哲学と結び付けるべきではないだろうと僕は考えるのです。