スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヤンググランプリ2016&第五部定理四

2017-01-01 20:00:06 | 競輪
 12月29日に立川競輪場で争われたヤンググランプリ2016。出走した9選手すべてが自力を選択し,ラインがないというきわめて特異なレースになりました。
 前受けしたのは小笹。畑段,取鳥,鈴木,新山,野口,吉田,渡辺,神田という並びで周回。残り2周のホームに入る前から3番手の取鳥が畑段との車間を開けて後続を牽制。ホームの出口から新山が動きましたが,これを見て取鳥も発進。バックで前を叩いて打鐘となり,先行は取鳥に。取鳥の後ろにいた鈴木が続いて2番手。前受けの小笹が3番手に。新山はこの後ろまで追い上げていましたが,ホームに入ろうかというところで内の畑段に牽制されて落車。バックに入ると畑段が発進。しかしこれはあまり進んでいかれず,番手の鈴木に先に行かれました。この後ろにいた小笹は畑段をブロック。この影響でさらに外を捲ろうとした吉田が大外に弾かれることに。鈴木の外から小笹が追うも,吉田の後ろからコーナーで内を回った渡辺が直線も鈴木の内から突き抜けて優勝。1車身差の2着に小笹。半車輪差の3着に鈴木。畑段は失格の裁定になりました。
 優勝した静岡の渡辺雄太選手はグレードレース初優勝。このレースは脚力だけでいえば吉田と新山が上位で,渡辺がそれに次ぐ存在。ただ,ラインが存在しない競走ですと力ある選手がマークされることになり,後方に置かれるとか,無理に仕掛けなければならないというようなケースになることも大いに想定され,もしかしたら大波乱の結末もあるのではないかとは思っていました。新山は落車してしまいましたから何もいえませんが,展開的にベストだったのは吉田。ただ外を回ったためにあおりを受けるという不利。そこで後ろを回っていた渡辺がうまく内に進路を切り替えることで優勝に結び付けたというレースだったといえます。新山は記念を勝っていますし,吉田もすぐに手が届くでしょう。それに次ぐ存在という見立てですから,渡辺も近いうちに記念レベルで活躍して不思議ないと思います。

 第五部定理三九備考の最初の段落は,人間の身体corpusがきわめて受動的であるということ,いい換えるなら,人間の身体がきわめて多くの外部の物体corpusからきわめて多くの仕方で刺激されるということをまず意味していると僕は考えます。そしてそれが人間の身体は有能であるという意味だと解します。なぜなら,このような特徴を有する物体は人間の身体だけであるからです。
                                     
 これだけだとむしろ人間の身体はきわめて不完全であるということを意味しかねません。第五部定理四〇からして,もしあるものを完全といい,別のものを不完全というなら,それはより能動的であるか受動的であるかを比較するほかありませんが,上述したことが示しているのは人間の身体がきわめて受動的であるということだからです。しかし同時に,人間の身体はきわめて受動的であるという他の物体にはない特徴を有しているがゆえに,きわめて多くの共通概念notiones communesを形成することができるということも帰結するのです。
 第二部定理一二が示しているのは,人間の精神mens humanaのうちには,自分の身体の「中に起こること」の観念ideaが必然的にnecessario存在するということでした。そして岩波文庫版111ページの第二部自然学①補助定理二がいっているのは,すべての物体はいくつかの点においては一致するということです。つまり人間の身体がどんな物体から刺激されようと,僕たちはそこから共通概念を形成することができます。こうして帰結するのが第五部定理四です。
 「我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない」。
 つまり,人間の身体が有能であるということは,相反するようなふたつの意味を同時に含み得るのだと僕は考えます。人間はほかの物体よりも多くの働きを受けるpatiという意味で不完全であるけれども,多くの働きをなすagereという意味で完全でもあるということです。どちらの意味も含む以上,人間がほかの物体より完全な様態modiであるとはいえないというのが僕の結論です。
 現代思想1996年11月臨時増刊の総特集スピノザに,マトゥロンによる「スピノザにおける永遠の生と身体」という論考があります。関連のある論考です。
コメント
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