第四部定理二七では,僕たちがものを十全に認識するcognoscereのに役立つものは善bonum,ものを十全に認識することを妨げるものが悪malumであると,僕たちは確知するcerto scimusという意味のことがいわれていました。このとき,確知するということをどのように解すればよいのかということは,スピノザの哲学において善悪を考える場合にひとつの問題点となると僕はみています。
第四部定理八は,僕たちにとっての善と悪の認識cognitioは,僕たちに意識された限りでの喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの感情affectusであるといっています。これを第四部定理二七と結び付けると,僕たちはものを十全に認識するのに役立つものを認識した場合には喜びを感じかつそれを意識し,逆にものを十全に認識することを妨げるものを認識した場合には悲しみを感じかつそれを意識するということになります。いい換えればこれは外部の原因の観念を伴ったconcomitante idea causae externae喜びあるいは悲しみといえるでしょうから,僕たちは十全な認識に役立つもののことを愛し,それを妨害するもののことを憎むということになるでしょう。そしてこの限りにおいて,これらふたつの定理Propositioは両立し得ると僕は考えます。
一方,第四部定理六四では次のようにいわれます。
「悪の認識は非妥当な認識である」。
これは第四部定理八と両立します。なぜなら,悲しみは第三部定理五九により必然的にnecessario受動passioであり,第三部定理三によりそれは混乱した観念idea inadaequataに依存しているからです。
しかし,悪の認識が混乱した認識であるなら,なぜ第四部定理二七のように,僕たちは十全な認識を妨害するもののことを悪であると確知できるのでしょうか。どんなものであれそれが悪と認識されるなら,それは混乱した認識であるということが,第四部定理六四には含意されている筈です。
僕はこの矛盾をどう解決するべきか,正直なところよく分かっていません。確知するということが十全に認識するという意味ではないと解するか,十全な認識を妨害するものを認識することとそれを悪と認識することを分離して解するかのどちらかだと思うのですが,どちらが適しているのかが分からないのです。
第三部諸感情の定義六の意味を中心とした僕のフロイデンタールJacob Freudenthalに対する反論はこれですべてです。しかしこの考察の中には,反論そのものには直接的に関係しないけれども,補足しておかなければならないことがふたつほど含まれています。よってここからは,フロイデンタールがスピノザによる愛amorという感情affectusの定義Definitioをどのようにみなしているのかということと関係なしに,第三部諸感情の定義六を解するにあたって注意しなければならないと僕が考えている点についての説明に移行することにします。
第三部諸感情の定義六は,一般的に愛という感情がどのような感情であるかということを示しています。そしてその特徴として,外部の原因の観念を伴ってconcomitante idea causae externae喜びlaetitiaが齎されるのであれば,その原因の観念の対象ideatumが何であるかということを問わずに,その喜びがすべからく愛といわれるということが含まれていました。他面からいえば,ある外部の観念が原因となって喜びを感じるとき,その観念の対象が何であるかということを問わずに,僕たちはその観念の対象を愛しているといわれるのだということが含まれていました。ですからAの観念が原因となって喜びを感じる場合には僕たちはAを愛していることになりますし,Bの観念が原因となって喜びを感じるなら,僕たちはBを愛していることになるのです。
このように,観念されたものがAであろうとBであろうと関係なく,僕たちはAを愛しますしBも愛します。つまり愛という感情だけに着目するなら,それは同じように愛であるということになります。ですが,それを各々の感情として把握する場合には,Aに対する愛とBに対する愛とは同一の感情ではなく,異なった感情であると解さなくてはなりません。いい換えれば,Aの観念が原因となって齎される喜びとBの観念が原因となって齎される喜びは,第三部諸感情の定義二の意味においては同じように喜びであるといわれなければなりませんが,単に感情としてみた場合には,異なった感情であると解さなければならないのです。
このことは,スピノザが一般性と特殊性の間の関係をどのように考えているのかということと関連するといえるでしょう。
第四部定理八は,僕たちにとっての善と悪の認識cognitioは,僕たちに意識された限りでの喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの感情affectusであるといっています。これを第四部定理二七と結び付けると,僕たちはものを十全に認識するのに役立つものを認識した場合には喜びを感じかつそれを意識し,逆にものを十全に認識することを妨げるものを認識した場合には悲しみを感じかつそれを意識するということになります。いい換えればこれは外部の原因の観念を伴ったconcomitante idea causae externae喜びあるいは悲しみといえるでしょうから,僕たちは十全な認識に役立つもののことを愛し,それを妨害するもののことを憎むということになるでしょう。そしてこの限りにおいて,これらふたつの定理Propositioは両立し得ると僕は考えます。
一方,第四部定理六四では次のようにいわれます。
「悪の認識は非妥当な認識である」。
これは第四部定理八と両立します。なぜなら,悲しみは第三部定理五九により必然的にnecessario受動passioであり,第三部定理三によりそれは混乱した観念idea inadaequataに依存しているからです。
しかし,悪の認識が混乱した認識であるなら,なぜ第四部定理二七のように,僕たちは十全な認識を妨害するもののことを悪であると確知できるのでしょうか。どんなものであれそれが悪と認識されるなら,それは混乱した認識であるということが,第四部定理六四には含意されている筈です。
僕はこの矛盾をどう解決するべきか,正直なところよく分かっていません。確知するということが十全に認識するという意味ではないと解するか,十全な認識を妨害するものを認識することとそれを悪と認識することを分離して解するかのどちらかだと思うのですが,どちらが適しているのかが分からないのです。
第三部諸感情の定義六の意味を中心とした僕のフロイデンタールJacob Freudenthalに対する反論はこれですべてです。しかしこの考察の中には,反論そのものには直接的に関係しないけれども,補足しておかなければならないことがふたつほど含まれています。よってここからは,フロイデンタールがスピノザによる愛amorという感情affectusの定義Definitioをどのようにみなしているのかということと関係なしに,第三部諸感情の定義六を解するにあたって注意しなければならないと僕が考えている点についての説明に移行することにします。
第三部諸感情の定義六は,一般的に愛という感情がどのような感情であるかということを示しています。そしてその特徴として,外部の原因の観念を伴ってconcomitante idea causae externae喜びlaetitiaが齎されるのであれば,その原因の観念の対象ideatumが何であるかということを問わずに,その喜びがすべからく愛といわれるということが含まれていました。他面からいえば,ある外部の観念が原因となって喜びを感じるとき,その観念の対象が何であるかということを問わずに,僕たちはその観念の対象を愛しているといわれるのだということが含まれていました。ですからAの観念が原因となって喜びを感じる場合には僕たちはAを愛していることになりますし,Bの観念が原因となって喜びを感じるなら,僕たちはBを愛していることになるのです。
このように,観念されたものがAであろうとBであろうと関係なく,僕たちはAを愛しますしBも愛します。つまり愛という感情だけに着目するなら,それは同じように愛であるということになります。ですが,それを各々の感情として把握する場合には,Aに対する愛とBに対する愛とは同一の感情ではなく,異なった感情であると解さなくてはなりません。いい換えれば,Aの観念が原因となって齎される喜びとBの観念が原因となって齎される喜びは,第三部諸感情の定義二の意味においては同じように喜びであるといわれなければなりませんが,単に感情としてみた場合には,異なった感情であると解さなければならないのです。
このことは,スピノザが一般性と特殊性の間の関係をどのように考えているのかということと関連するといえるでしょう。