僕は『貧しき人びと』というのは,さほど優れた小説であるようには思えませんでした。その大きな理由として,男側の主人公であるマカールの人間性に好感を抱くことができなかったという点があります。

マカールはもう50歳になろうかという小役人です。その男が向いのアパートの住人であるワルワーラという少女を見初めます。この中年と少女という関係はいろいろな見方ができると思うのですが,ここではマカールのワルワーラに対する思いが,恋愛感情であるということを推測させないための設定と解しておきます。『ドストエフスキー 父殺しの文学』では,父の娘に対する愛情という主旨の記述がありますが,概ねそのような情愛と解するということです。
僕はマカールがワルワーラに対して愛情を抱いているということ自体は否定しません。ただその愛情が,マカールの自身への愛,自己愛の変形されたもののように思えるのです。マカールはもう50になろうかというのに小役人にすぎず,自分の人生というか将来に対してある種の絶望を抱いています。その絶望の代償として,ワルワーラへの愛があるように僕には感じられるのです。したがって,ワルワーラが幸福になるということは幸福になれない自分の幸福の代償ですから,マカールがそれを望んでいることは間違いありません。この意味において確かにマカールはワルワーラを愛しているのです。しかしそれは自分の幸福の代償でなければならないので,ワルワーラはマカールが望むような仕方で幸福になる必要がマカールにはあるのです。よってもし自身が望まないような仕方でワルワーラが幸福になることがあるとしたら,たぶんマカールはそれを望まないだろうと僕は思います。マカールのワルワーラに対する愛が自己愛の代償であるというとのは,そのような意味においてです。
なので僕はマカールが広い意味においてコキュであると考えますが,寝盗られ願望を有するコキュであるとはみなしません。自身がコキュになるということが,仮にワルワーラの幸福に結びつく場合でも,それはマカールの自己愛の代償にはなり得ないと僕は考えるからです。
第四部定理四から明らかなように,現実的に存在している人間が受動passioから完全に免れるということはできません。そして人間は受動に従属しているうちは,第三部定理一五系が示しているように,何の脈絡もなく多くのものを愛します。また,第五部定理三二はその一例ですが,愛amorという感情affectusが喜びlaetitiaの一種であるがゆえに,人間は能動的にも多くのものを愛することが可能です。
これらの感情は,対象が何であるかを問わずに愛といわれるのと同じように,受動であろうと能動actioであろうとやはり関係なしに同じように愛といわれます。ですが,それを現実的に存在する人間が触発される感情としてみた場合には,それら各々の愛は異なった感情であるとみなされなければなりません。
現実的に存在する人間が触発される各々の愛が,感情としてみた場合には異なっているということは,別に論理的に説明するまでもなく,僕たちが経験的に知っていることだといえると僕は思います。たとえばある個別の人間に対する愛と,ある特定の絵画に対する愛というのが異なった感情であるということは,僕たちはとくに意識せずとも分かりきっているのだといって差し支えないだろうと思うからです。
論理的に示そうとするなら,いくつかの方法が考えられます。たとえば愛は喜びの一種なので,第三部諸感情の定義二にあるように,ある人間がより小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行transitioすることです。しかしその移行はすべての愛において同じ移行であるということはできません。単純にいってもより大なる移行もあればより小なる移行もあるでしょう。いい換えればより大きな喜びもあればより小さな喜びもあるでしょう。大きな喜びも小さな喜びも,喜びという点では同じでしょうが,同一の感情であるとはいえない,他面からいえばそれを感じる人間は同一の感情とは感じないでしょう。そしてこうしたことは喜びだけでなく,ほかの基本感情affectus primariiである悲しみtristitiaおよび欲望cupiditasの場合にも成立します。大きな悲しみもあれば小さな悲しみもありますし,大きな欲望もあれば小さな欲望もあるからです。これを一般的に示したのが,第三部定理五六であるということになります。

マカールはもう50歳になろうかという小役人です。その男が向いのアパートの住人であるワルワーラという少女を見初めます。この中年と少女という関係はいろいろな見方ができると思うのですが,ここではマカールのワルワーラに対する思いが,恋愛感情であるということを推測させないための設定と解しておきます。『ドストエフスキー 父殺しの文学』では,父の娘に対する愛情という主旨の記述がありますが,概ねそのような情愛と解するということです。
僕はマカールがワルワーラに対して愛情を抱いているということ自体は否定しません。ただその愛情が,マカールの自身への愛,自己愛の変形されたもののように思えるのです。マカールはもう50になろうかというのに小役人にすぎず,自分の人生というか将来に対してある種の絶望を抱いています。その絶望の代償として,ワルワーラへの愛があるように僕には感じられるのです。したがって,ワルワーラが幸福になるということは幸福になれない自分の幸福の代償ですから,マカールがそれを望んでいることは間違いありません。この意味において確かにマカールはワルワーラを愛しているのです。しかしそれは自分の幸福の代償でなければならないので,ワルワーラはマカールが望むような仕方で幸福になる必要がマカールにはあるのです。よってもし自身が望まないような仕方でワルワーラが幸福になることがあるとしたら,たぶんマカールはそれを望まないだろうと僕は思います。マカールのワルワーラに対する愛が自己愛の代償であるというとのは,そのような意味においてです。
なので僕はマカールが広い意味においてコキュであると考えますが,寝盗られ願望を有するコキュであるとはみなしません。自身がコキュになるということが,仮にワルワーラの幸福に結びつく場合でも,それはマカールの自己愛の代償にはなり得ないと僕は考えるからです。
第四部定理四から明らかなように,現実的に存在している人間が受動passioから完全に免れるということはできません。そして人間は受動に従属しているうちは,第三部定理一五系が示しているように,何の脈絡もなく多くのものを愛します。また,第五部定理三二はその一例ですが,愛amorという感情affectusが喜びlaetitiaの一種であるがゆえに,人間は能動的にも多くのものを愛することが可能です。
これらの感情は,対象が何であるかを問わずに愛といわれるのと同じように,受動であろうと能動actioであろうとやはり関係なしに同じように愛といわれます。ですが,それを現実的に存在する人間が触発される感情としてみた場合には,それら各々の愛は異なった感情であるとみなされなければなりません。
現実的に存在する人間が触発される各々の愛が,感情としてみた場合には異なっているということは,別に論理的に説明するまでもなく,僕たちが経験的に知っていることだといえると僕は思います。たとえばある個別の人間に対する愛と,ある特定の絵画に対する愛というのが異なった感情であるということは,僕たちはとくに意識せずとも分かりきっているのだといって差し支えないだろうと思うからです。
論理的に示そうとするなら,いくつかの方法が考えられます。たとえば愛は喜びの一種なので,第三部諸感情の定義二にあるように,ある人間がより小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行transitioすることです。しかしその移行はすべての愛において同じ移行であるということはできません。単純にいってもより大なる移行もあればより小なる移行もあるでしょう。いい換えればより大きな喜びもあればより小さな喜びもあるでしょう。大きな喜びも小さな喜びも,喜びという点では同じでしょうが,同一の感情であるとはいえない,他面からいえばそれを感じる人間は同一の感情とは感じないでしょう。そしてこうしたことは喜びだけでなく,ほかの基本感情affectus primariiである悲しみtristitiaおよび欲望cupiditasの場合にも成立します。大きな悲しみもあれば小さな悲しみもありますし,大きな欲望もあれば小さな欲望もあるからです。これを一般的に示したのが,第三部定理五六であるということになります。