スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑫-5&スピノザの誤謬

2017-01-31 19:08:55 | ポカと妙手etc
 ⑫-4の第2図の後手の次の一手は☖3七桂でした。
                                     
 桂馬は敵陣の一段目と二段目に打つことはできません。三段目に打つ手は,詰ます場合を除くとあまりいい手でないケースが多く,とくにこの将棋のように中盤で打つのはやや考えにくいところがあるのではないかと思います。
 ☗同銀は☖4七飛成があるので取ることはできず,飛車が逃げるほかありません。☗2八飛は☖4九桂成で角の行き場がありませんから2六か2七ですが☗2七飛と逃げました。
 これには☖4九桂成と追撃。先手は☗2八角と逃げるほかありません。そこで☖4八成桂と使うことができます。
 ここで☗1六歩と取る手はあったのではないかと思います。☖3八成桂なら☗1七角と逃げられるからです。ただ☖4七成桂☗同飛に☖5八銀と打たれる順があり,☗5六金と上がったのはそれを嫌ったためでしょう。
 後手は☖4七成桂☗同飛で駒損を回復。そこで☖1五角と出ました。これは角を成る狙いですが,☗4九飛と引くと☖4七歩と垂らされます。仕方がないので☗3七桂と打ちました。
                                     
 第2図は駒の損得はなく,むしろ先手が香得を果たせそうですが,あまりに愚形。後手の指し回しが光った一局になりました。

 異性愛であろうと同性愛であろうと,また愛するのが男であろうと女であろうと,恋愛の現実的本性actualis essentiaは受動passioに従属したものです。ですが能動的な愛amorというのが不可能なこと,同じことですが非現実的なことというわけでもありません。つまり第四部付録第二〇項は,現実的に可能でないことについて言及しているとは僕は考えません。したがって,きわめて厳しい条件の下にというべきかもしれませんが,スピノザの哲学的見解が結婚を否定するものではないと僕は考えるのです。よってスピノザが結婚しなかった理由も,自身の哲学的見解から帰結したものであったとは考えません。
 一方,『国家論Tractatus Politicus』において女は本性の上で男と同等の権利jusを有さないというときには,スピノザは明らかに女は理性的であることができないといっていると僕は考えます。よってその間の齟齬も埋めようがないと僕は考えます。したがって,スピノザはこの点に関しては批判されなければならないと僕は考えます。要するに僕は,フロイデンタールJacob Freudenthalがそうしたように,第三部諸感情の定義六のように愛という感情affectusを定義したことについて咎める必要はないと考えます。ですがその愛の定義Definitioも含めたスピノザの哲学的見解と相容れないものがスピノザの主張には含まれているという点において,スピノザは咎められなければならないと考えるのです。すなわち,スピノザは『エチカ』において誤った哲学的見解を示したか,さもなければ『国家論』において哲学的見解と相反する政治論を展開したかのどちらかです。
 虚偽と誤謬の関係について先んじていっておけば,『エチカ』が誤りである場合にも『国家論』が誤りである場合にも,スピノザは単に虚偽falsitasをそこで表明したのではなく,誤謬errorを犯したのだと僕は考えています。いい換えればどちらが誤りの場合においても,その誤りを犯した方では,スピノザはある虚偽を真理veritasであると思い込んでいたのだと僕は考えます。
 スピノザがどちらで誤謬を犯したと僕が考えているのかということは,ここまでの論考からお分かりいただけるでしょう。僕はスピノザが独身を通した理由を,哲学的見解に依拠したものではないと考えているからです。
コメント
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