『白夜』の主人公も『貧しき人びと』のマカールと同様に広い意味でのコキュです。ですがマカールとは違い,この主人公には秘められた寝盗られ願望があったと解することが可能だと僕は考えます。

主人公の男は空想の中で生きているような26歳の男です。この男がナースチェンカという少女に出会い恋をします。この恋自体が男にとっては異常な出来事だったと僕は思います。ですがここではそのとき男の中で空想の世界と現実の世界に何らかの一致があったのだと解しておきましょう。
ナースチェンカには将来を誓い合った学生がいます。物語はペテルブルグで進行していますが学生はモスクワに行って消息不明です。しかし帰ってくるということばをナースチェンカは信じています。そこで男はふたりを再会させるために奔走します。これに傾ける男の努力は尋常ではないといえます。なぜなら学生は現実世界の男にとっては明白な恋敵であり,男に不幸を齎しかねません。さらに男は学生とは会ったこともないので,素性を知りません。つまりナースチェンカに相応しい相手であるかどうか,客観的には分かっていないのです。男はもしナースチェンカがその学生を愛しているなら,ナースチェンカに気付かれないように,ナースチェンカの重荷にならないような愛し方をしたいのだという主旨のことをいっていますが,その発想には寝盗られ願望の原型のようなものがある気がしてなりません。
学生と再会したナースチェンカは躊躇なく学生を選び,男はコキュになります。コキュになった男は現実と空想が切断されるのですから,きっとまた空想の中で生きていくことになるのでしょう。もしかしたらずっと空想の中で生きてきた男は,その空想の世界に帰りたいという欲望を,自身の気付かないうちに有していたのかもしれません。その場合には,ナースチェンカを失う必要があります。この意味で僕は,この男には秘められた寝盗られ願望があったのかもしれないと思うのです。
第四部付録第二〇項は,同性愛を否定しているように読解できます。両者の愛amorというとき,わざわざ男と女といい添えられているからです。
僕の考えをいえば,たぶんスピノザはこれを記述するとき,同性愛という愛の形についていっかな念頭に置いていなかったのではないでしょうか。なぜなら,実際にはこの項は,異性愛とか同性愛といわれるような愛の形について何かを主張しているわけではなく,結婚について言及しようとしているからです。いうまでもなくスピノザが生きていた時代には,同性間の結婚というのは制度の上で認められていませんでした。だから結婚について何かを語ろうとするとき,スピノザが同性愛を念頭に置かないのは自然なことと僕には思えるからです。
では同性愛というのがスピノザの哲学からみた場合に否定されるかと問うなら,スピノザの哲学がそれを否定することは困難であるというのが僕の見解です。なぜなら,第三部諸感情の定義六の意味というのは,現実的に存在するある人間が,外部の原因の観念idea causae externaeを伴って喜びlaetitiaを感じるなら,その観念の対象objectumが何であれその感情affectusは愛といわれるということであるからです。したがってその観念の対象が人間である場合,同性であろうと異性であろうと同じように愛といわれなければなりません。ですから同性愛も異性愛も同じように愛といわれなければならないか,さもなければどちらも否定されなければならないかでなくてはなりません。ですが異性愛が否定されるということは第四部付録第二〇項から考えられません。よって同性愛を否定することも不可能であると僕は考えるのです。
もちろんこれは僕の見解であって,スピノザがそう考えていたというものではありません。もし結婚をあくまでも制度上の事柄とみなすなら,同性婚が制度として認められていない場合には,第四部付録第二〇項の文言通りに解してよいでしょう。しかしそれが認められる場合には,両者というのを男と女に限定する必要はありません。また,結婚を制度上のものでなく,ある人間と別の人間の関係とみなす場合にも,両者を男と女に限定しなくてよいだろうというのがこの件に関する僕の結論です。

主人公の男は空想の中で生きているような26歳の男です。この男がナースチェンカという少女に出会い恋をします。この恋自体が男にとっては異常な出来事だったと僕は思います。ですがここではそのとき男の中で空想の世界と現実の世界に何らかの一致があったのだと解しておきましょう。
ナースチェンカには将来を誓い合った学生がいます。物語はペテルブルグで進行していますが学生はモスクワに行って消息不明です。しかし帰ってくるということばをナースチェンカは信じています。そこで男はふたりを再会させるために奔走します。これに傾ける男の努力は尋常ではないといえます。なぜなら学生は現実世界の男にとっては明白な恋敵であり,男に不幸を齎しかねません。さらに男は学生とは会ったこともないので,素性を知りません。つまりナースチェンカに相応しい相手であるかどうか,客観的には分かっていないのです。男はもしナースチェンカがその学生を愛しているなら,ナースチェンカに気付かれないように,ナースチェンカの重荷にならないような愛し方をしたいのだという主旨のことをいっていますが,その発想には寝盗られ願望の原型のようなものがある気がしてなりません。
学生と再会したナースチェンカは躊躇なく学生を選び,男はコキュになります。コキュになった男は現実と空想が切断されるのですから,きっとまた空想の中で生きていくことになるのでしょう。もしかしたらずっと空想の中で生きてきた男は,その空想の世界に帰りたいという欲望を,自身の気付かないうちに有していたのかもしれません。その場合には,ナースチェンカを失う必要があります。この意味で僕は,この男には秘められた寝盗られ願望があったのかもしれないと思うのです。
第四部付録第二〇項は,同性愛を否定しているように読解できます。両者の愛amorというとき,わざわざ男と女といい添えられているからです。
僕の考えをいえば,たぶんスピノザはこれを記述するとき,同性愛という愛の形についていっかな念頭に置いていなかったのではないでしょうか。なぜなら,実際にはこの項は,異性愛とか同性愛といわれるような愛の形について何かを主張しているわけではなく,結婚について言及しようとしているからです。いうまでもなくスピノザが生きていた時代には,同性間の結婚というのは制度の上で認められていませんでした。だから結婚について何かを語ろうとするとき,スピノザが同性愛を念頭に置かないのは自然なことと僕には思えるからです。
では同性愛というのがスピノザの哲学からみた場合に否定されるかと問うなら,スピノザの哲学がそれを否定することは困難であるというのが僕の見解です。なぜなら,第三部諸感情の定義六の意味というのは,現実的に存在するある人間が,外部の原因の観念idea causae externaeを伴って喜びlaetitiaを感じるなら,その観念の対象objectumが何であれその感情affectusは愛といわれるということであるからです。したがってその観念の対象が人間である場合,同性であろうと異性であろうと同じように愛といわれなければなりません。ですから同性愛も異性愛も同じように愛といわれなければならないか,さもなければどちらも否定されなければならないかでなくてはなりません。ですが異性愛が否定されるということは第四部付録第二〇項から考えられません。よって同性愛を否定することも不可能であると僕は考えるのです。
もちろんこれは僕の見解であって,スピノザがそう考えていたというものではありません。もし結婚をあくまでも制度上の事柄とみなすなら,同性婚が制度として認められていない場合には,第四部付録第二〇項の文言通りに解してよいでしょう。しかしそれが認められる場合には,両者というのを男と女に限定する必要はありません。また,結婚を制度上のものでなく,ある人間と別の人間の関係とみなす場合にも,両者を男と女に限定しなくてよいだろうというのがこの件に関する僕の結論です。