岡田美術館で指された第43期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が11勝,上田初美女流三段が2勝。
岡田美術館の館長による振駒で上田三段の先手。里見名人のごきげん中飛車で①-Bになりました。先手が中央を厚く構え,後手が捌きにいく将棋。少し駒損でしたが玉が固い後手が捌けたので,中盤は後手がよかったのではないかと思います。

先手が攻め合いを目指して桂馬を打った局面。放置して☖3七歩成とする手も有力だったと思われますが☖同飛と取り☗同歩に☖5二歩と受けました。大きく駒損して受けに回るのは変調ですが,桂馬を取るのが大きいとみたのだと思います。
先手は☗5三歩成と成り捨てて☖同歩に☗3六銀と払いました。後手は☖3二金☗4一銀成と金を逃がしてから☖3六角。ただし金が逃げたため☗3四飛の両取りが発生しました。ここはどちらが後手にとって得だったか難しいのではないかと思います。
後手は☖2七銀と打って☗3二飛成☖2八銀不成☗3六龍と進めています。これは☖3二金と逃げたときに想定できる展開なので,駒損を承知でこう進めたのは,これで指せると判断していたからか,苦しいのでこう勝負するほかないとみていたかのどちらかでしょう。
☖3五歩☗同龍☖2四角はおそらく後手の読み筋だと思います。先手が☗3二龍と入った局面が勝敗のポイントだったようで,後手は☖3七銀成と指すべきだったようです。実戦の☖7九飛☗8八玉☖8五桂はやはり読み筋だったのでははないかと思いますが☗5一角という絶妙手がありました。

部分的には☖同金☗同成銀☖同角で大損ですがもしそう進めば☗7九玉と飛車が取れます。これがおそらく後手が見落としていた決め手で,第2図は先手が勝ちになっているようです。
上田三段が先勝。第二局は22日です。
スピノザは第三部諸感情の定義六で,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeという感情について,それを愛と定義しました。フロイデンタールJacob Freudenthalによればこれは,スピノザが生涯を通して独身であったために,妻の私心のなさや苦痛と喜びから生じる母性愛を経験として知らず,単に噂だけで知っていたために可能であった定義Definitioであることになっています。
フロイデンタールは愛amorという感情affectusの定義がどのようなものであるべきであるかを具体的には示していません。ただフロイデンタールはその直前の部分で,独身であった哲学者たちが多くの倫理的な関係について異なった判断を下した理由を,独身者は妻や子どもから助けられるという経験をしたことがないという点に帰していますし,もしスピノザが妻帯者で子どももあったと仮定すれば,スピノザは愛の本質についてもっと純粋な理解を得ることができたであろうといっています。したがってこの点を考慮すれば,妻帯者で子どもがある男は必然的に愛の本質を理解し,その理解は共通のものであって,そうして理解される内容こそが愛という感情の定義でなければならないとフロイデンタールが判断していることは間違いないといえるでしょう。
フロイデンタールが愛という感情をどのように定義しようと僕にとっては構わないことです。もっといってしまえば僕には興味がありません。ですがそうした判断の下にスピノザによる愛の定義を否定することは,僕にはスピノザの哲学を研究するという態度として愚かであると思えます。むしろスピノザが,外部の原因の観念を伴った喜びということだけで愛を定義したこと,すなわち外部の原因の観念という場合の観念されたものideatumが何であるのかということを問わずに愛という感情を定義したことのうちに,この愛の定義の意義と重要性があると僕は考えるからです。
そもそも,フロイデンタールはスピノザが独身であったがために愛をこのように定義したと主張しているのであり,それは独身者の独善であるといっているのと同じです。しかしフロイデンタールが妻帯者で子どもがあるから愛を別の仕方で定義するなら,それも同じ意味で独善的といわなければなりません。
岡田美術館の館長による振駒で上田三段の先手。里見名人のごきげん中飛車で①-Bになりました。先手が中央を厚く構え,後手が捌きにいく将棋。少し駒損でしたが玉が固い後手が捌けたので,中盤は後手がよかったのではないかと思います。

先手が攻め合いを目指して桂馬を打った局面。放置して☖3七歩成とする手も有力だったと思われますが☖同飛と取り☗同歩に☖5二歩と受けました。大きく駒損して受けに回るのは変調ですが,桂馬を取るのが大きいとみたのだと思います。
先手は☗5三歩成と成り捨てて☖同歩に☗3六銀と払いました。後手は☖3二金☗4一銀成と金を逃がしてから☖3六角。ただし金が逃げたため☗3四飛の両取りが発生しました。ここはどちらが後手にとって得だったか難しいのではないかと思います。
後手は☖2七銀と打って☗3二飛成☖2八銀不成☗3六龍と進めています。これは☖3二金と逃げたときに想定できる展開なので,駒損を承知でこう進めたのは,これで指せると判断していたからか,苦しいのでこう勝負するほかないとみていたかのどちらかでしょう。
☖3五歩☗同龍☖2四角はおそらく後手の読み筋だと思います。先手が☗3二龍と入った局面が勝敗のポイントだったようで,後手は☖3七銀成と指すべきだったようです。実戦の☖7九飛☗8八玉☖8五桂はやはり読み筋だったのでははないかと思いますが☗5一角という絶妙手がありました。

部分的には☖同金☗同成銀☖同角で大損ですがもしそう進めば☗7九玉と飛車が取れます。これがおそらく後手が見落としていた決め手で,第2図は先手が勝ちになっているようです。
上田三段が先勝。第二局は22日です。
スピノザは第三部諸感情の定義六で,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeという感情について,それを愛と定義しました。フロイデンタールJacob Freudenthalによればこれは,スピノザが生涯を通して独身であったために,妻の私心のなさや苦痛と喜びから生じる母性愛を経験として知らず,単に噂だけで知っていたために可能であった定義Definitioであることになっています。
フロイデンタールは愛amorという感情affectusの定義がどのようなものであるべきであるかを具体的には示していません。ただフロイデンタールはその直前の部分で,独身であった哲学者たちが多くの倫理的な関係について異なった判断を下した理由を,独身者は妻や子どもから助けられるという経験をしたことがないという点に帰していますし,もしスピノザが妻帯者で子どももあったと仮定すれば,スピノザは愛の本質についてもっと純粋な理解を得ることができたであろうといっています。したがってこの点を考慮すれば,妻帯者で子どもがある男は必然的に愛の本質を理解し,その理解は共通のものであって,そうして理解される内容こそが愛という感情の定義でなければならないとフロイデンタールが判断していることは間違いないといえるでしょう。
フロイデンタールが愛という感情をどのように定義しようと僕にとっては構わないことです。もっといってしまえば僕には興味がありません。ですがそうした判断の下にスピノザによる愛の定義を否定することは,僕にはスピノザの哲学を研究するという態度として愚かであると思えます。むしろスピノザが,外部の原因の観念を伴った喜びということだけで愛を定義したこと,すなわち外部の原因の観念という場合の観念されたものideatumが何であるのかということを問わずに愛という感情を定義したことのうちに,この愛の定義の意義と重要性があると僕は考えるからです。
そもそも,フロイデンタールはスピノザが独身であったがために愛をこのように定義したと主張しているのであり,それは独身者の独善であるといっているのと同じです。しかしフロイデンタールが妻帯者で子どもがあるから愛を別の仕方で定義するなら,それも同じ意味で独善的といわなければなりません。