第62回ゴールドカップ。オメガレインボーは野畑騎手から笹川騎手に変更。
一旦はシーサーベントが前に出ましたが外から追い抜いたエンテレケイアの逃げ。シーザーベント,スマイルウィ,アウストロの3頭が並んで追い,5番手にサヨノグローリー。2馬身差でカジノフォンテンが続きその後ろにオメガレインボーとティアラフォーカス。4馬身差でビヨンドボーダーズ。最後尾にグレートジャーニー。向正面に入って2番手以下はシーサーベント,スマイルウィ,アウストロの順になり,内からサヨノグローリーが5番手に。最初の600mは36秒5のミドルペース。
3コーナーでエンテレケイアのリードは1馬身。その後ろが再びシーサーベント,スマイルウィ,アウストロで併走となり,サヨノグローリーはここも内を回りました。直線に入ってエンテレケイアがコーナーワークで再びリードを広げたのですが,3頭併走の大外から伸びたアウストロが差し切って優勝。逃げ粘ったエンテレケイアがクビ差で2着。内から差したサヨノグローリーが1馬身差で3着。
優勝したアウストロは南関東重賞初挑戦での勝利。昨年10月から軌道に乗り,それ以降は8戦して6勝,2着2回。ここ2走は浦和のA2クラスを連勝していました。このレースは速力で上回るエンテレケイアを力でスマイルウィが捻じ伏せられるのかが最大の焦点。エンテレケイアは持ち前のスピードでスマイルウィは封じたのですが,その後ろから差してきたアウストロに屈するという形になりました。スマイルウィの後ろからレースを進められた展開面の利がありましたし,コース適性の利もあったなど,恵まれたところがあったのも確かだと思いますが,負かした馬たちが強い上にまだ4歳馬ですから今後も楽しめる馬かもしれません。父はダノンレジェンド。6代母がパロクサイドで3代母のひとつ下の半妹がエアグルーヴ。
騎乗した浦和の秋元耕成騎手は益田でのデビューから25年8か月で南関東重賞初勝利。管理している浦和の小沢宏次調教師は南関東重賞2勝目。ゴールドカップは初勝利。
ステノNicola Stenoは1677年9月にまず上申書,それからバチカン写本という順で異端審問の機関に提出したのですが,少なくともこの提出した時点では,ステノは自然科学の研究からは身を引いていたとされています。逆にいえば,その直前まではカトリックの普及にだけ専念していたというわけでなく,自然科学の研究にも勤しんでいたということでしょう。チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがイタリアに移ったのがいつであったかということが不明なのですが,もしかしたらチルンハウスとステノが初めて会ったときは,ステノはむしろ自然科学の研究の方に重きを置いていたのかもしれません。
提出の後,ステノはカトリックの司教としてドイツおよびオランダの各地を渡り歩き,プロテスタントが主流の地域で,カトリックへの再改宗を促し,また残っていたカトリックの信者たちの世話をするようになりました。この吉田の説明が正しいなら,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,スピノザが死んだときにステノとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが一緒に仕事をしていたというのはやはりスチュアートMatthew Stewartの創作で,史実ではなかったということになります。ただし,ステノがドイツに移ったときにライプニッツと出会い,一緒に仕事をしたことがあったということは,吉田は何も語っていませんが,歴史的事実と解釈していいようです。これについては資料が残っていて,ただその時期が確定的に書かれていないので,スチュアートはその資料を参照して,勘違いしたのかもしれません。いい換えれば意図的に創作したというわけではないのであって,資料を読み間違えただけかもしれないということです。この点はスチュアートの名誉のためにもいっておかなければなりません。
ステノは熱心に仕事に打ち込んだ影響が出たのかもしれませんが,1686年にドイツで死んでいます。このときまだ48歳でした。1988年になってから,当時のローマ教皇から列福というのを受けています。ローマカトリックでは列聖という処置があって,これは聖人に指定されるという意味です。列福というのはそのひとつ前の段階を意味するようです。したがって現在ではステノはローマカトリックの中では聖人の一歩手前となっているのです。
一旦はシーサーベントが前に出ましたが外から追い抜いたエンテレケイアの逃げ。シーザーベント,スマイルウィ,アウストロの3頭が並んで追い,5番手にサヨノグローリー。2馬身差でカジノフォンテンが続きその後ろにオメガレインボーとティアラフォーカス。4馬身差でビヨンドボーダーズ。最後尾にグレートジャーニー。向正面に入って2番手以下はシーサーベント,スマイルウィ,アウストロの順になり,内からサヨノグローリーが5番手に。最初の600mは36秒5のミドルペース。
3コーナーでエンテレケイアのリードは1馬身。その後ろが再びシーサーベント,スマイルウィ,アウストロで併走となり,サヨノグローリーはここも内を回りました。直線に入ってエンテレケイアがコーナーワークで再びリードを広げたのですが,3頭併走の大外から伸びたアウストロが差し切って優勝。逃げ粘ったエンテレケイアがクビ差で2着。内から差したサヨノグローリーが1馬身差で3着。
優勝したアウストロは南関東重賞初挑戦での勝利。昨年10月から軌道に乗り,それ以降は8戦して6勝,2着2回。ここ2走は浦和のA2クラスを連勝していました。このレースは速力で上回るエンテレケイアを力でスマイルウィが捻じ伏せられるのかが最大の焦点。エンテレケイアは持ち前のスピードでスマイルウィは封じたのですが,その後ろから差してきたアウストロに屈するという形になりました。スマイルウィの後ろからレースを進められた展開面の利がありましたし,コース適性の利もあったなど,恵まれたところがあったのも確かだと思いますが,負かした馬たちが強い上にまだ4歳馬ですから今後も楽しめる馬かもしれません。父はダノンレジェンド。6代母がパロクサイドで3代母のひとつ下の半妹がエアグルーヴ。
騎乗した浦和の秋元耕成騎手は益田でのデビューから25年8か月で南関東重賞初勝利。管理している浦和の小沢宏次調教師は南関東重賞2勝目。ゴールドカップは初勝利。
ステノNicola Stenoは1677年9月にまず上申書,それからバチカン写本という順で異端審問の機関に提出したのですが,少なくともこの提出した時点では,ステノは自然科学の研究からは身を引いていたとされています。逆にいえば,その直前まではカトリックの普及にだけ専念していたというわけでなく,自然科学の研究にも勤しんでいたということでしょう。チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがイタリアに移ったのがいつであったかということが不明なのですが,もしかしたらチルンハウスとステノが初めて会ったときは,ステノはむしろ自然科学の研究の方に重きを置いていたのかもしれません。
提出の後,ステノはカトリックの司教としてドイツおよびオランダの各地を渡り歩き,プロテスタントが主流の地域で,カトリックへの再改宗を促し,また残っていたカトリックの信者たちの世話をするようになりました。この吉田の説明が正しいなら,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,スピノザが死んだときにステノとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが一緒に仕事をしていたというのはやはりスチュアートMatthew Stewartの創作で,史実ではなかったということになります。ただし,ステノがドイツに移ったときにライプニッツと出会い,一緒に仕事をしたことがあったということは,吉田は何も語っていませんが,歴史的事実と解釈していいようです。これについては資料が残っていて,ただその時期が確定的に書かれていないので,スチュアートはその資料を参照して,勘違いしたのかもしれません。いい換えれば意図的に創作したというわけではないのであって,資料を読み間違えただけかもしれないということです。この点はスチュアートの名誉のためにもいっておかなければなりません。
ステノは熱心に仕事に打ち込んだ影響が出たのかもしれませんが,1686年にドイツで死んでいます。このときまだ48歳でした。1988年になってから,当時のローマ教皇から列福というのを受けています。ローマカトリックでは列聖という処置があって,これは聖人に指定されるという意味です。列福というのはそのひとつ前の段階を意味するようです。したがって現在ではステノはローマカトリックの中では聖人の一歩手前となっているのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます