第四部定理七は,僕たちがどうすれば感情を統御することができるのかということのヒントになっています。そしておそらくこのとき,スピノザはデカルトの哲学を意識しているものと思われます。
デカルトにとってのよき生き方とは,理性を用いることによって感情を統御するということを意味しました。つまりデカルトは理性がそれ自体で感情を抑制する力を有していると考えていたことになります。スピノザはそれに対して,ある感情を抑制する力はその感情と相反する感情のうちだけに固有に存するのであって,理性それ自体にそうした力はないと考えていたことになります。つまりスピノザからみればデカルトが示したよき生き方というのは,空理空論でしかなく,実現することが不可能な方法であるということになります。
では僕たちが悪しき感情を抱いたときには,それと相反する感情が生じるのを座して待たなければ,その感情を抑制することはできないとスピノザが考えていたのかといえば,必ずしもそうではないだろうと僕は考えます。というのも第三部定理五九は,基本感情のうち喜びと欲望に関しては,能動的な感情があることを示しているからです。
精神の能動とは,ある人間の精神が十全な原因となって,その精神のうちにある観念が生じることを意味するのでした。そしてこのような思惟作用こそ,理性の作用といわれるのです。つまり,能動的な感情が存在するというのと,理性的な感情が存在するというのは,同じ意味に解することができます。
このとき,理性によって生じた感情が,悪しき感情の相反する感情であれば,悪しき感情は抑制されることになります。これが必ず実践的な意味において可能であるといいきることは不可能かもしれません。しかし論理的にいえば,理性的な喜びないしは欲望は,悪しき感情の相反する感情であり得ることも否定できません。
もしも自身の感情を何らかの方法で統御したいと願うのであれば,この様式のうちにしか可能性は見出せないと僕は考えます。つまりこれが受動感情を抑制するための,唯一の実践的手段であると考えます。
「天文学者」のモデルがスピノザではないかという説が展開されている『フェルメールとスピノザ』に関しては,さすがに哲学の探求のために利用することはないと思います。しかしせっかくのチャンスですから,糖尿病共生記の方で若干の書評を記し,マルタンが示している見解に対する僕の考えも示しておきましょう。
この本は,「天文学者」のモデルがスピノザであるということを第一に主張しようとしています。僕はこの見解そのものには懐疑的です。ただその根拠は,マルタンが著書の中に示していない部分にありますので,後に詳しく説明しましょう。また,マルタンがそのように主張する論拠というのがいくつかあって,そのすべてに見解を表明することはできませんが,重要であると考えられるいくつかについても順に説明していきます。
ただ,僕が読んだ限りでは,この本の白眉となる部分は,それとは別の点にあるのです。それは,フェルメールが描いた絵画のうちにあるものと,スピノザの哲学のうちにあるものとの間には,明確な親和性があるということです。僕には絵画を十分に鑑賞する能力がないので,そのことの是非については何ともいうことはできません。しかし名画のうちにある価値というものを,同時代の哲学のうちにあるものとして鑑賞することが可能なことなのであるということ,あるいはそれが絵画のひとつの観賞方法なのだということは,僕にもはっきりと分かりました。
マルタンはその親和性を,永遠の公式という語で表現しています。実はフランス語の原著では,永遠の公式というのが著書のタイトルで,フェルメールとスピノザというのはサブタイトルです。日本語版ではこれがちょうど逆になっています。これは訳者の杉村昌昭の意図によるものですが,その意図に関しては僕は同意できます。
公式と訳されているフランス語はbréviairede,で,杉村にもあまり聞き慣れない単語だそうです。マルタンとメールのやり取りをして着想した訳だといっています。それなら定理と訳してしまえばよかったとは思います。公式でも定理でも,ニュアンスに大きな違いはないように思うからです。
デカルトにとってのよき生き方とは,理性を用いることによって感情を統御するということを意味しました。つまりデカルトは理性がそれ自体で感情を抑制する力を有していると考えていたことになります。スピノザはそれに対して,ある感情を抑制する力はその感情と相反する感情のうちだけに固有に存するのであって,理性それ自体にそうした力はないと考えていたことになります。つまりスピノザからみればデカルトが示したよき生き方というのは,空理空論でしかなく,実現することが不可能な方法であるということになります。
では僕たちが悪しき感情を抱いたときには,それと相反する感情が生じるのを座して待たなければ,その感情を抑制することはできないとスピノザが考えていたのかといえば,必ずしもそうではないだろうと僕は考えます。というのも第三部定理五九は,基本感情のうち喜びと欲望に関しては,能動的な感情があることを示しているからです。
精神の能動とは,ある人間の精神が十全な原因となって,その精神のうちにある観念が生じることを意味するのでした。そしてこのような思惟作用こそ,理性の作用といわれるのです。つまり,能動的な感情が存在するというのと,理性的な感情が存在するというのは,同じ意味に解することができます。
このとき,理性によって生じた感情が,悪しき感情の相反する感情であれば,悪しき感情は抑制されることになります。これが必ず実践的な意味において可能であるといいきることは不可能かもしれません。しかし論理的にいえば,理性的な喜びないしは欲望は,悪しき感情の相反する感情であり得ることも否定できません。
もしも自身の感情を何らかの方法で統御したいと願うのであれば,この様式のうちにしか可能性は見出せないと僕は考えます。つまりこれが受動感情を抑制するための,唯一の実践的手段であると考えます。
「天文学者」のモデルがスピノザではないかという説が展開されている『フェルメールとスピノザ』に関しては,さすがに哲学の探求のために利用することはないと思います。しかしせっかくのチャンスですから,糖尿病共生記の方で若干の書評を記し,マルタンが示している見解に対する僕の考えも示しておきましょう。
この本は,「天文学者」のモデルがスピノザであるということを第一に主張しようとしています。僕はこの見解そのものには懐疑的です。ただその根拠は,マルタンが著書の中に示していない部分にありますので,後に詳しく説明しましょう。また,マルタンがそのように主張する論拠というのがいくつかあって,そのすべてに見解を表明することはできませんが,重要であると考えられるいくつかについても順に説明していきます。
ただ,僕が読んだ限りでは,この本の白眉となる部分は,それとは別の点にあるのです。それは,フェルメールが描いた絵画のうちにあるものと,スピノザの哲学のうちにあるものとの間には,明確な親和性があるということです。僕には絵画を十分に鑑賞する能力がないので,そのことの是非については何ともいうことはできません。しかし名画のうちにある価値というものを,同時代の哲学のうちにあるものとして鑑賞することが可能なことなのであるということ,あるいはそれが絵画のひとつの観賞方法なのだということは,僕にもはっきりと分かりました。
マルタンはその親和性を,永遠の公式という語で表現しています。実はフランス語の原著では,永遠の公式というのが著書のタイトルで,フェルメールとスピノザというのはサブタイトルです。日本語版ではこれがちょうど逆になっています。これは訳者の杉村昌昭の意図によるものですが,その意図に関しては僕は同意できます。
公式と訳されているフランス語はbréviairede,で,杉村にもあまり聞き慣れない単語だそうです。マルタンとメールのやり取りをして着想した訳だといっています。それなら定理と訳してしまえばよかったとは思います。公式でも定理でも,ニュアンスに大きな違いはないように思うからです。
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