先週の若武者賞を勝ったグラッシーズマンの輸入基礎繁殖牝馬は5代母にあたるファイアフラワーです。1972年にイギリスで産まれました。
繁殖生活は1975年から日本で送りました。直仔で重賞を勝ったのは1984年に産んだダイナカーペンター。1988年の阪神大賞典と1989年の京都記念を勝ちました。
ダイナカーペンターの7つ上の半姉,1977年に産んだ牝馬は繁殖入り。この馬の産駒がフラワーパークです。フラワーパークは繁殖牝馬となり,2015年の東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌの母になっています。
フラワーパークのひとつ下の半姉も繁殖牝馬に。この馬の産駒には2007年にシルクロードステークスを勝ったエムオーウイナーがいます。
ダイナカーペンターのふたつ下の半妹も繁殖牝馬になっています。その馬の曾孫にあたるのが2013年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたブルーセレブ。グラッシーズマンはこのブルーセレブの産駒になります。
牝系自体の活力はすでに衰えているとみていいかもしれません。ただ,枝葉は広がっていますので,ある程度の活躍馬が出てくる可能性は十分にあるでしょう。
第二部定理三二の意味に関しては僕が示したことに同意するとしても,もしもその意味を示すのに,すべての観念ideaは神Deusに帰せられれば真verumであるというよりも,すべての観念は神に還元されれば真であるといった方が、その意味が分かりやすい訳になっていると考えるのであれば,そちらの訳を用いる方がいいでしょう。重要なのはこの定理Propositioでスピノザが示そうとしたことについて,どのような訳を選択すればその意味が理解しやすくなるのかということなのであって,もしも畠中の訳が最も分かりやすいと思うのであれば,とくにその訳を変更しなければならない理由というのはありません。僕は帰するという語を用いるのが最もよいと思いますので,これを使用するということであって,このように訳さなければならないということを主張するものではありません。
ここからは僕独自の考察になります。僕はこの定理を,観念は神に帰せられるなら真であるというようにいいますが,この定理の意味を確定させる過程で探求した事柄は,当たり前のことですが,帰するといおうが関係するといおうが同じです。したがって,第一部定理一五にあるように,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのであって,観念というのも神のうちにあるわけですから,神に関係させることができない観念は存在しないのと同様に,神に帰することができない観念というのは存在しません。なので,この定理は,すべての観念は真であるというようにも読解できるのですが,実際にはそうではなく,神に帰せられていない観念,いい換えればたとえば僕たちの精神mensに帰せられている観念というのがあって,その限りでは誤った観念idea falsaがあるということが前提となっているのです。
このことから分かるように,観念は神に帰せられれば真であるのですから,もしも僕たちの精神のうちにある観念があるとき,この観念が神に帰せられているのであれば,それは僕たちの精神のうちで真の観念idea veraであるということになります。ですが,これも考察の中で示したように,僕たちの精神のうちに表象像imaginesがあるときには,僕たちはそれを神に帰することができません。よってそれは僕たちの精神のうちでは誤った観念です。
繁殖生活は1975年から日本で送りました。直仔で重賞を勝ったのは1984年に産んだダイナカーペンター。1988年の阪神大賞典と1989年の京都記念を勝ちました。
ダイナカーペンターの7つ上の半姉,1977年に産んだ牝馬は繁殖入り。この馬の産駒がフラワーパークです。フラワーパークは繁殖牝馬となり,2015年の東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌの母になっています。
フラワーパークのひとつ下の半姉も繁殖牝馬に。この馬の産駒には2007年にシルクロードステークスを勝ったエムオーウイナーがいます。
ダイナカーペンターのふたつ下の半妹も繁殖牝馬になっています。その馬の曾孫にあたるのが2013年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたブルーセレブ。グラッシーズマンはこのブルーセレブの産駒になります。
牝系自体の活力はすでに衰えているとみていいかもしれません。ただ,枝葉は広がっていますので,ある程度の活躍馬が出てくる可能性は十分にあるでしょう。
第二部定理三二の意味に関しては僕が示したことに同意するとしても,もしもその意味を示すのに,すべての観念ideaは神Deusに帰せられれば真verumであるというよりも,すべての観念は神に還元されれば真であるといった方が、その意味が分かりやすい訳になっていると考えるのであれば,そちらの訳を用いる方がいいでしょう。重要なのはこの定理Propositioでスピノザが示そうとしたことについて,どのような訳を選択すればその意味が理解しやすくなるのかということなのであって,もしも畠中の訳が最も分かりやすいと思うのであれば,とくにその訳を変更しなければならない理由というのはありません。僕は帰するという語を用いるのが最もよいと思いますので,これを使用するということであって,このように訳さなければならないということを主張するものではありません。
ここからは僕独自の考察になります。僕はこの定理を,観念は神に帰せられるなら真であるというようにいいますが,この定理の意味を確定させる過程で探求した事柄は,当たり前のことですが,帰するといおうが関係するといおうが同じです。したがって,第一部定理一五にあるように,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのであって,観念というのも神のうちにあるわけですから,神に関係させることができない観念は存在しないのと同様に,神に帰することができない観念というのは存在しません。なので,この定理は,すべての観念は真であるというようにも読解できるのですが,実際にはそうではなく,神に帰せられていない観念,いい換えればたとえば僕たちの精神mensに帰せられている観念というのがあって,その限りでは誤った観念idea falsaがあるということが前提となっているのです。
このことから分かるように,観念は神に帰せられれば真であるのですから,もしも僕たちの精神のうちにある観念があるとき,この観念が神に帰せられているのであれば,それは僕たちの精神のうちで真の観念idea veraであるということになります。ですが,これも考察の中で示したように,僕たちの精神のうちに表象像imaginesがあるときには,僕たちはそれを神に帰することができません。よってそれは僕たちの精神のうちでは誤った観念です。
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