これもニーチェとの近似性のひとつになりますが,スピノザの哲学では能動的であることが肯定され,受動的(反動的)であることが否定されます。ところで,一般に宗教というものは,信者にその教義を守ることを教えますから,信者の側からすると,ある宗教を信じるということは受動的であるということになります,したがってこの意味では,別にキリスト教に限らず,すべての宗教はスピノザ主義と相容れないということになるでしょう。しかし,スピノザによれば,人間が受動的でないということは実は不可能であり,それどころか,ある人間を受動的にさせるような外部の力というのは,ひとりの人間の力を無限に凌駕するのです(第四部定理三~六)。そしてこのとき,たぶん,同じ受動的であるとしても,よりましな受動状態というべきものがあって,キリスト教の教えを守るという受動状態は,スピノザからしてみれば,受動状態としてはよりよいものであると思えたのだと思います。これが,前に紹介したエピソードの理由であろうと僕は考えています。
人間の精神のうちに知性の秩序によって十全な観念が生じるとき,僕には重要であると思えることがふたつあります。そのうちのひとつが対象の不要性です。直線はそれ自体で運動するものではありませんから,円の観念に関連付けられる直線の運動というのは,完全に純粋な思惟作用です。したがって,この仕方で人間の精神のうちに円の十全な観念が生じる場合には,別に円が形相的に存在していなければならない理由がありません。それどころか,人間は,形相的に存在している円というものをまったく知らないとしても,この運動する直線という思惟作用のみで,円の十全な観念をもつことが可能なのです。観念は対象がなくても考えることができるというのは,具体的にはこういったことを意味しているのです。
人間の精神のうちに知性の秩序によって十全な観念が生じるとき,僕には重要であると思えることがふたつあります。そのうちのひとつが対象の不要性です。直線はそれ自体で運動するものではありませんから,円の観念に関連付けられる直線の運動というのは,完全に純粋な思惟作用です。したがって,この仕方で人間の精神のうちに円の十全な観念が生じる場合には,別に円が形相的に存在していなければならない理由がありません。それどころか,人間は,形相的に存在している円というものをまったく知らないとしても,この運動する直線という思惟作用のみで,円の十全な観念をもつことが可能なのです。観念は対象がなくても考えることができるというのは,具体的にはこういったことを意味しているのです。
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