15日と16日に嬉野温泉で指された第64期王位戦七番勝負第四局。
佐々木大地七段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王位が横歩を取る将棋になりました。
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第1図で☗6一飛と打たれたら,☖5三桂と受ける手を後手は考えていたようです。感想戦で並べられたのは☗6二銀☖同金☗5一角☖3一王☗6二角成☖2二王☗5三馬で,これは先手が勝ちそうです。
実戦は☗2四歩と打って☖同銀上としてから☗6一飛と打ちました。
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後手が☖5三桂と打つなら,条件は第1図より第2図の方がよさそうに思えます。☗6二銀とは打てなさそうだからです。ところがこの局面では後手は☖5五桂と打って攻め合いにいき,この局面での☖5三桂は感想戦でも触れられませんでした。不思議だったのですが,どうも第2図から☖5五桂と打って勝ちという錯覚が後手にあったようです。たぶん先手は第1図で☗6一飛と打った方がよく,☗2四歩は最善手ではなかったのですが,そのために後手は☖5三桂という手自体は発見していたものの,錯覚が生じてそれを逃したということなのでしょう。
佐々木七段が勝って1勝3敗。第五局は22日と23日に指される予定です。
ここまでに説明してきたような事情になっているわけですから,第二部定理八備考において,第二部定理八系で触れられていない個物res singularisの観念ideaの区別distinguereのあり方について言及されているとしても,だから備考Scholiumにおいては現実的に存在する個物の観念についてとくに何かを言及しようとスピノザはしているわけではないと解してよいと僕は考えます。むしろこの備考では矩形という特定の個物を個物全般の比喩として用いたので,矩形の観念が現実的に存在するようになるとその観念はほかの矩形の観念と区別することができるようになるけれど,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合は,そうした区別は不可能であるということをいい添えることができたと解するのが適切ではないでしょうか。
河井のいわんとすることは,ここまでのことを前提としつつ,さらにその先にあります。
すでにいっておいたように,円の中に無限に多くのinfinita矩形があるというとき,円の中で直線が交差するということを念頭に置けばよいのであって,ふたつの線分が直交する必要はありません。当該部分のスピノザのテクストは確かにそう解釈できるようになっているのであって,スピノザ自身がそのように考えていたということは疑い得ません。そして河井がいうには,スピノザがそのようにテクストを記述するときには,ある事柄を意識していたのです。それはユークリッド原論の第3巻の命題35です。僕はこの命題まで探求することはできませんので,『スピノザーナ11号』の巻頭言で河井が示している文章をそのまま記述します。ただしこれは,共立出版社から1971年に発行された,日本語版のユークリッド原論に示されている訳文のようです。
「もし円において二つの弦が互いに交わるならば,一方の弦の二つの部分にかこまれた矩形は他方の弦の二つの部分にかこまれた矩形に等しい」。
僕は円の中には無限に多くの矩形があるといういい方でも示してきましたが,スピノザがいっているのは,円の中には相互に等しい無限に多くの矩形が含まれているということなので,確かにそれはユークリッド原論のこの命題でいわれていることと一致しています。
佐々木大地七段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王位が横歩を取る将棋になりました。
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第1図で☗6一飛と打たれたら,☖5三桂と受ける手を後手は考えていたようです。感想戦で並べられたのは☗6二銀☖同金☗5一角☖3一王☗6二角成☖2二王☗5三馬で,これは先手が勝ちそうです。
実戦は☗2四歩と打って☖同銀上としてから☗6一飛と打ちました。
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後手が☖5三桂と打つなら,条件は第1図より第2図の方がよさそうに思えます。☗6二銀とは打てなさそうだからです。ところがこの局面では後手は☖5五桂と打って攻め合いにいき,この局面での☖5三桂は感想戦でも触れられませんでした。不思議だったのですが,どうも第2図から☖5五桂と打って勝ちという錯覚が後手にあったようです。たぶん先手は第1図で☗6一飛と打った方がよく,☗2四歩は最善手ではなかったのですが,そのために後手は☖5三桂という手自体は発見していたものの,錯覚が生じてそれを逃したということなのでしょう。
佐々木七段が勝って1勝3敗。第五局は22日と23日に指される予定です。
ここまでに説明してきたような事情になっているわけですから,第二部定理八備考において,第二部定理八系で触れられていない個物res singularisの観念ideaの区別distinguereのあり方について言及されているとしても,だから備考Scholiumにおいては現実的に存在する個物の観念についてとくに何かを言及しようとスピノザはしているわけではないと解してよいと僕は考えます。むしろこの備考では矩形という特定の個物を個物全般の比喩として用いたので,矩形の観念が現実的に存在するようになるとその観念はほかの矩形の観念と区別することができるようになるけれど,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合は,そうした区別は不可能であるということをいい添えることができたと解するのが適切ではないでしょうか。
河井のいわんとすることは,ここまでのことを前提としつつ,さらにその先にあります。
すでにいっておいたように,円の中に無限に多くのinfinita矩形があるというとき,円の中で直線が交差するということを念頭に置けばよいのであって,ふたつの線分が直交する必要はありません。当該部分のスピノザのテクストは確かにそう解釈できるようになっているのであって,スピノザ自身がそのように考えていたということは疑い得ません。そして河井がいうには,スピノザがそのようにテクストを記述するときには,ある事柄を意識していたのです。それはユークリッド原論の第3巻の命題35です。僕はこの命題まで探求することはできませんので,『スピノザーナ11号』の巻頭言で河井が示している文章をそのまま記述します。ただしこれは,共立出版社から1971年に発行された,日本語版のユークリッド原論に示されている訳文のようです。
「もし円において二つの弦が互いに交わるならば,一方の弦の二つの部分にかこまれた矩形は他方の弦の二つの部分にかこまれた矩形に等しい」。
僕は円の中には無限に多くの矩形があるといういい方でも示してきましたが,スピノザがいっているのは,円の中には相互に等しい無限に多くの矩形が含まれているということなので,確かにそれはユークリッド原論のこの命題でいわれていることと一致しています。
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