淡路島で指された第87期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が0勝,永瀬拓矢六段が3勝。
振駒で羽生棋聖の先手になり永瀬六段の横歩取り。この将棋は中盤で千日手になりました。先手としては不本意かもしれませんが,消費時間に大きな差があり,後手としてもあまり嬉しくはなかったのではないかと思います。
指し直し局は相矢倉で先手の早囲いに。
ここは前例のある局面。▲6三角と▲4一角が指されていましたが▲3五歩△同歩と突き捨ててから▲4一角と打ち込みました。単に打った前例は後に突き捨てが入らなかったので,先手の改良手順といえそうです。
前例と同じように進めると突き捨てが入っている分だけ先手が得をすることになります。代償に後手は一歩を手にしましたので,それを生かせる手順が必要とされるところ。まず△6五歩と突き,突き捨てを生かした先手の▲3五銀に△8六歩▲同歩△8八歩▲同玉△6六歩▲同金△3九角と攻め込みました。△8八歩は一歩があったから指せた手で,先手玉を危険地帯に呼んでいるので,ここまでは理に適っていると思います。
▲3八飛に△6六角成と切っていくのは仕方ないものと思います。ただそこで△3四歩▲4六銀としてから△9五銀としなければならなかったので,ここでは後手がやや苦しいかもしれません。後手が歩をここに使ったのをみて先手は▲7七銀と引きました。
ここから△8六銀と攻めていきましたが,これは足りませんでした。この手順だと先手に利があるので,後手に別の手順が求められることになります。
永瀬六段が先勝。第二局は18日です。
これはあくまでも僕の印象ですが,僕たちは多くの場合,スピノザが第四部公理でいっていることを人間に関して適用する場合には,きわめて限定的にしか理解しないように思えるのです。
自然が僕たちの身体を簡単に凌駕してしまうことを,僕たちは大概は認めていると思います。こうしたことを僕たちは経験的に理解するからです。地震や台風といった自然災害の前に,ひとりの人間の身体が無力に等しいということを,僕たちはたとえ直接的な体験として知っているのでなくても,情報を通じては知っているからです。
ですがこの公理が意味していることはこれだけにとどまりません。スピノザは第三部の序言で,自然の力は常に同一の「唯一」のものであるから,感情affectusについてもその力が生じる法則すなわち必然性において考えなければならないという意味のことをいっています。これでみれば分かるように,僕たちが受動感情から逃れることはできないということも,自然災害を回避することができないことと同じなのです。僕たちは自然災害を完全に克服することができないのと同じように,自身のうちに生じる受動感情を完全に克服するということは不可能なのです。
さらにいうと,この公理を人間に適用する場合,その身体に限定して何事かを主張しているわけではありません。第四部公理と人間の精神の間にもここでいわれていることが適用されるのです。いい換えれば人間の精神あるいは知性もまた,ほかのものによってきわめて容易に,というのは人間の身体がほかのものによって凌駕されるのと同じくらいに容易に,凌駕され得るという意味も含まれているのです。
ところが僕たちは,人間の身体が自然災害に凌駕されるということは認めていても,受動感情は意志によって克服し得るとか,人間の知性をもってすればほかのものの知性に凌駕されるようなことはないというように信じている場合が多いように思えます。だから第四部定理三とか第四部定理四というのを,本当の意味で自分のこととして理解するということは,それほど簡単なことではないと思えるのです。なのでその理解が,スピノザの哲学の理解に重要だと僕は思うのです。
振駒で羽生棋聖の先手になり永瀬六段の横歩取り。この将棋は中盤で千日手になりました。先手としては不本意かもしれませんが,消費時間に大きな差があり,後手としてもあまり嬉しくはなかったのではないかと思います。
指し直し局は相矢倉で先手の早囲いに。
ここは前例のある局面。▲6三角と▲4一角が指されていましたが▲3五歩△同歩と突き捨ててから▲4一角と打ち込みました。単に打った前例は後に突き捨てが入らなかったので,先手の改良手順といえそうです。
前例と同じように進めると突き捨てが入っている分だけ先手が得をすることになります。代償に後手は一歩を手にしましたので,それを生かせる手順が必要とされるところ。まず△6五歩と突き,突き捨てを生かした先手の▲3五銀に△8六歩▲同歩△8八歩▲同玉△6六歩▲同金△3九角と攻め込みました。△8八歩は一歩があったから指せた手で,先手玉を危険地帯に呼んでいるので,ここまでは理に適っていると思います。
▲3八飛に△6六角成と切っていくのは仕方ないものと思います。ただそこで△3四歩▲4六銀としてから△9五銀としなければならなかったので,ここでは後手がやや苦しいかもしれません。後手が歩をここに使ったのをみて先手は▲7七銀と引きました。
ここから△8六銀と攻めていきましたが,これは足りませんでした。この手順だと先手に利があるので,後手に別の手順が求められることになります。
永瀬六段が先勝。第二局は18日です。
これはあくまでも僕の印象ですが,僕たちは多くの場合,スピノザが第四部公理でいっていることを人間に関して適用する場合には,きわめて限定的にしか理解しないように思えるのです。
自然が僕たちの身体を簡単に凌駕してしまうことを,僕たちは大概は認めていると思います。こうしたことを僕たちは経験的に理解するからです。地震や台風といった自然災害の前に,ひとりの人間の身体が無力に等しいということを,僕たちはたとえ直接的な体験として知っているのでなくても,情報を通じては知っているからです。
ですがこの公理が意味していることはこれだけにとどまりません。スピノザは第三部の序言で,自然の力は常に同一の「唯一」のものであるから,感情affectusについてもその力が生じる法則すなわち必然性において考えなければならないという意味のことをいっています。これでみれば分かるように,僕たちが受動感情から逃れることはできないということも,自然災害を回避することができないことと同じなのです。僕たちは自然災害を完全に克服することができないのと同じように,自身のうちに生じる受動感情を完全に克服するということは不可能なのです。
さらにいうと,この公理を人間に適用する場合,その身体に限定して何事かを主張しているわけではありません。第四部公理と人間の精神の間にもここでいわれていることが適用されるのです。いい換えれば人間の精神あるいは知性もまた,ほかのものによってきわめて容易に,というのは人間の身体がほかのものによって凌駕されるのと同じくらいに容易に,凌駕され得るという意味も含まれているのです。
ところが僕たちは,人間の身体が自然災害に凌駕されるということは認めていても,受動感情は意志によって克服し得るとか,人間の知性をもってすればほかのものの知性に凌駕されるようなことはないというように信じている場合が多いように思えます。だから第四部定理三とか第四部定理四というのを,本当の意味で自分のこととして理解するということは,それほど簡単なことではないと思えるのです。なのでその理解が,スピノザの哲学の理解に重要だと僕は思うのです。
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