阿修羅・原は僕にとってはレスラーとしての格付けが難しく思える選手です。ただ,僕のプロレスキャリアが始まった頃についていえば,全日本プロレス所属の中堅であったと解しています。この当時にアジアタッグ選手権に関与していたレスラーは中堅という格付けだったと僕は解するからです。馬場はもちろんジャンボ・鶴田や天龍源一郎は関わっていません。それはトップだったからです。逆に越中や三沢も基本的に関わっていません。それは若手だったからだというのが僕の解釈法です。
タッグ選手権なのでパートナーが必要ですが,原のパートナーはマイティ・井上が務めていました。井上も原と同様に,国際プロレスの崩壊で全日本に移籍してきたためでしょう。原がアジアタッグには絡まなくなり,また石川のパートナーだった佐藤昭雄の退団もあり,石川ともチャンピオンになっていますが,僕には初期のイメージの方が強く,井上のパートナーといえばまず原が思い浮かびます。
石川もそうですし佐藤はとくにプロレスは地味でしたが,それに比べれば井上には派手さがありました。その井上が花開いたのはもう少し後で,ジュニアヘビー級のタイトル戦線に参加するようになってからです。正直にいうと体形的にジュニアヘビーはどうなのかと僕は思っていたのですが,シングルのチャンピオンにもなり,大きな実績を残しました。全日本のジュニアは大きな流れでいえばまず大仁田,そして三沢すなわちタイガー・マスク,そして渕と続くのですが,大仁田と三沢の間,そして三沢と渕の間をしっかりと橋渡ししたのは井上であり,僕はその貢献度は低いものではなかったと思っています。
井上にとって不運だったのは,移籍した時期には全日本ではジュニアヘビー級が重視されていなかったこと。そのために中堅格になってしまい,後にジュニアの王者に就いたときもそれを払拭するのが難しくなっていました。全日本がジュニアにも視点を置くのがもっと早ければ,あるいは全日本への移籍がもっと遅ければ,かなり違ったレスラー人生を歩んでいたのではないかと思います。
「スピノザの「無限」」でいわれているように,僕たちは意志の力で受動感情を制御することはできません。また,受動感情について「考えるconcipere」ということは可能であり,かつそれを考えている間は当の受動感情から逃れることができますが,それによって何らかの結論を導出することができたからといって,その受動感情まで消失するというわけではありません。前者については第四部定理七が示しています。すなわち僕たちの受動感情を抑制したり除去したりするものがあるとすれば,それは理性や意志ではなく,その受動感情とは別の感情,同じ人間が感じるという意味でいえば,その受動感情と相反する感情であるからです。一方,後者については第四部定理一にすでに示されているといえます。第三部定理一により,僕たちがある感情を受動するということを僕たちの精神と関連させていえば,それは僕たちの精神の現実的有の一部を構成しているとみられる混乱した観念に起因します。そこでそれをXの混乱した観念であると仮定した場合に,僕たちがXを十全に認識したからといって,Xの混乱した観念が消失するというわけではありません。いい換えればそのXの混乱した観念に起因する受動感情から逃れることはできないでしょう。
しかしこれらのことを自らのこととして引き受けるならば,もし僕たちが受動感情からなるべく影響を受けないようにするにはどうすればよいのかということを僕たちは知ることができるでしょう。いい換えれば「感情の抑制」はどのような意味において可能であるのかということを理解するでしょう。ある感情が別の感情によってしか抑制も除去もできないのであれば,僕たちは逃れたいと思う受動感情に対しては,それよりも強力な相反する感情を自身のうちに生じさせるほかはありません。第三部定理五八は,人間の能動と関係する感情,基本感情のうちの喜びと欲望が存在するということを示します。もしその感情が受動感情に対して強力な相反する感情であれば,それによって受動感情の抑制や除去が可能であるということが,少なくとも論理的にはいえるのです。これが感情について考えることの最大の効用といえるのです。
タッグ選手権なのでパートナーが必要ですが,原のパートナーはマイティ・井上が務めていました。井上も原と同様に,国際プロレスの崩壊で全日本に移籍してきたためでしょう。原がアジアタッグには絡まなくなり,また石川のパートナーだった佐藤昭雄の退団もあり,石川ともチャンピオンになっていますが,僕には初期のイメージの方が強く,井上のパートナーといえばまず原が思い浮かびます。
石川もそうですし佐藤はとくにプロレスは地味でしたが,それに比べれば井上には派手さがありました。その井上が花開いたのはもう少し後で,ジュニアヘビー級のタイトル戦線に参加するようになってからです。正直にいうと体形的にジュニアヘビーはどうなのかと僕は思っていたのですが,シングルのチャンピオンにもなり,大きな実績を残しました。全日本のジュニアは大きな流れでいえばまず大仁田,そして三沢すなわちタイガー・マスク,そして渕と続くのですが,大仁田と三沢の間,そして三沢と渕の間をしっかりと橋渡ししたのは井上であり,僕はその貢献度は低いものではなかったと思っています。
井上にとって不運だったのは,移籍した時期には全日本ではジュニアヘビー級が重視されていなかったこと。そのために中堅格になってしまい,後にジュニアの王者に就いたときもそれを払拭するのが難しくなっていました。全日本がジュニアにも視点を置くのがもっと早ければ,あるいは全日本への移籍がもっと遅ければ,かなり違ったレスラー人生を歩んでいたのではないかと思います。
「スピノザの「無限」」でいわれているように,僕たちは意志の力で受動感情を制御することはできません。また,受動感情について「考えるconcipere」ということは可能であり,かつそれを考えている間は当の受動感情から逃れることができますが,それによって何らかの結論を導出することができたからといって,その受動感情まで消失するというわけではありません。前者については第四部定理七が示しています。すなわち僕たちの受動感情を抑制したり除去したりするものがあるとすれば,それは理性や意志ではなく,その受動感情とは別の感情,同じ人間が感じるという意味でいえば,その受動感情と相反する感情であるからです。一方,後者については第四部定理一にすでに示されているといえます。第三部定理一により,僕たちがある感情を受動するということを僕たちの精神と関連させていえば,それは僕たちの精神の現実的有の一部を構成しているとみられる混乱した観念に起因します。そこでそれをXの混乱した観念であると仮定した場合に,僕たちがXを十全に認識したからといって,Xの混乱した観念が消失するというわけではありません。いい換えればそのXの混乱した観念に起因する受動感情から逃れることはできないでしょう。
しかしこれらのことを自らのこととして引き受けるならば,もし僕たちが受動感情からなるべく影響を受けないようにするにはどうすればよいのかということを僕たちは知ることができるでしょう。いい換えれば「感情の抑制」はどのような意味において可能であるのかということを理解するでしょう。ある感情が別の感情によってしか抑制も除去もできないのであれば,僕たちは逃れたいと思う受動感情に対しては,それよりも強力な相反する感情を自身のうちに生じさせるほかはありません。第三部定理五八は,人間の能動と関係する感情,基本感情のうちの喜びと欲望が存在するということを示します。もしその感情が受動感情に対して強力な相反する感情であれば,それによって受動感情の抑制や除去が可能であるということが,少なくとも論理的にはいえるのです。これが感情について考えることの最大の効用といえるのです。
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