スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&実際の善悪

2008-10-16 21:17:24 | 将棋
 女流王位戦五番勝負第二局
 後手の石橋幸緒女流王位の4手目△3三角戦法。角交換後の清水市代女流二冠の▲7八金を見て振飛車に。先手は▲7七玉~▲8八玉のルートで穴熊。戦型としては6月の棋聖戦第二局と同じです。ただ,本局は先手が穴熊に組む前に右辺に手をかけたので,後手が△2五桂から桂損の速攻。うまく戦機を掴んだように僕には思えます。第1図に。
           
 ここで▲8八桂と合駒。これは実質的に駒得の主張を放棄するような手で,ここからは後手が攻めきるか先手が受けきるのかが焦点。先手は龍を引き付け,馬も引き付けて粘りました。
           
 ちょうどここから観戦しましたが,石橋王位はこの手で苦戦を意識されたようです。ただ△3六龍はポカでしょう。▲4五銀打で龍が取られてしまいました。それでも先手の薄い穴熊に必至に食いついていき第3図。
           
 この少し前,△7九角に対して▲6九飛と打つかなとも思いましたが,実戦の方が先手はよさそう。また,この△6八銀には▲4六金と馬を取る手もあったと思いますが▲2九龍。これなら△6九銀不成▲同龍△7九金までは必然。ここでも▲4六金がありそうですが,龍を取られるのも大きそうで▲2九龍と逃げました。対して△4七馬と金を入手して△7八金打。もしかして▲9七香かと思いましたがこれも怖そうで▲7九龍と取りました。しかし第4図まで進んでみると,駒得とはいえ盤上の2枚の銀は遊んでいますので,もう先手が勝つのは難しくなっていると思います。
           
 これ以下,手数は長かったですが2筋に作ったと金が活躍して後手が勝ちました。先手としては早い段階で時間を投入せざるを得ず,好転したと思われる第2図から第3図のあたりですでに十分に考える持ち時間が失われていたのが響いた感じです。
 これで石橋王位の2連勝。五番勝負ですから次を勝てば一気の防衛。その第三局は22日に指されます。
 
 人間による善悪の認識とは,第四部定理八にあるように,善の場合には自分自身の喜びの認識,悪の場合には自分自身の悲しみの認識にほかなりません。ただ,ここにはひとつ注意が必要で,僕たちは何事かを善であるとか悪であるとか実施に認識する場合には,必ずしもこれら喜びあるいは悲しみの感情自体をそのようにみなすのではありません。むしろ僕たちにそうした喜びを与えるようなものについてそれを善と認識し,逆に悲しみをもたらすようなものについてそれを悪と認識します。つまり善悪の認識というのは,自分の喜びと悲しみの認識そのものというよりは,自分の喜びあるいは悲しみの原因であると知覚するようなものの認識であるといった方が,少なくとも経験論的な視点からは正確であると思います。そしてこのことからも,スピノザの哲学においては,善悪は普遍的な価値観ではあり得ないということが出てきます。なぜなら第三部定理五一に示されているように,人間の受動の様式というのは一定したものではないからです。
 次に,第四部定義一と第四部定義二にしても,あるいは第四部定理八にしても,善悪というのはひとつの認識として,人間の精神のうちにあるというのはスピノザの哲学の基本的な考え方であるということになります。ただし,善悪の認識の基準となる喜びおよび悲しみという感情は,第三部定義三にあるように,スピノザの哲学では珍しく,それを精神のうちにあるような客観的なものとして考えても,また精神の外にある形相的なものとして考えてもよいことばになっていますので,まず形相的な側面から,排尿という運動の善悪を考えていきたいと思います。
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埼玉栄冠賞&善悪の認識

2008-10-15 18:58:50 | 地方競馬
 第18回埼玉栄冠賞というレースは初めて行われました。これは昨年までの埼玉新聞杯が改称されたものだからです。
 先行争いも予想されましたが,ナイキアディライトがハナに立つと外の各馬はわりと早めに控えました。エスプリベン,デスモゾーム,クレイアートビュン,ナイキデラックスといったあたりが入れ替わりながら2番手集団を形成。ペース自体はハイペースの範疇と思います。
 1番人気のデスモゾームは2周目の向正面で大きく後退。直線に入るとエスプリベンがナイキアディライトを交わして先頭に出ましたがこれは束の間。内を追走して外に出されたクレイアートビュンが一気に交わすとあとは差を広げる一方。4馬身差をつけての快勝になりました。エスプリベンが何とか2着に残り,最後尾の1頭前でレースをしていたサウンドサンデーが追込み,これにかなり迫っての3着になっています。
 優勝したクレイアートビュンは,7月のゴールドカップで2着になった後,自己条件を3戦取りこぼしていましたが,今日は鮮やかな勝利。これが8勝目で南関東重賞初制覇。どうでもいいことですが,これで8勝,2着8回,3着8回,4着以下も8回という綺麗な成績になりました。今日はメンバーに恵まれたというか,ほかの馬の凡走にも助けられた感もあり,最後も自身が伸びたというよりはほかが止まったというところもあります。ただ,まだ4歳であり,成長の余地を残していると思われますので,今後も活躍の可能性は大いにあるでしょう。
 鞍上は大井の的場文男騎手で,先月の日本テレビ盃以来の重賞・南関東重賞制覇。意外にも埼玉新聞杯時代からこのレースは初優勝です。管理するのは浦和の小久保智調教師で,このレースというより南関東重賞自体が初優勝。浦和の馬は南関東ではほかに押され気味ですので,こうして南関東重賞の勝ち馬が出たことは喜ばしいことと思います。

 明日は女流王位戦五番勝負第二局。今回は北海道新聞による中継です。

 旭川ではエーデルワイス賞。ここは北海道勢3頭による争いが濃厚。順番は,アンペア◎,モエレオンリーワン○,リロ▲。あとはタッチブライト△。

 人間の実在性realitasすなわち完全性perfectioを維持しまた促進するものがその人間にとっての善bonumであり,逆にそれを阻害し排除するものがその人間にとっての悪malumであるということは,端的にいって,人間の完全性というものは,促進されたり阻害されたりすることがあるということを示しています。そこで人間による善の認識cognitioまた悪の認識というのは,こうした阻害および促進の認識と関係することになります。
 ところで,人間の完全性のこうした促進および阻害というのは,人間にとって感情affectusとして発現するというのがスピノザの哲学における基本的な考え方です。いうまでもなくその感情とは,第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三でそれぞれ定義されている,喜びlaetitiaという感情と悲しみtristitiaという感情です。ここでは完全性が移行transitioとして説明されていますが,大なる完全性へと移行する場合が促進されている場合で,小なる完全性へと移行する場合が阻害されている場合ということはいうまでもないでしょう。ただし,小なる完全性といわれていても,それはそれ自体でみるならばひとつの完全性に違いありませんから,それが大なる完全性よりも不完全であるということを,これ自体で示しているわけではありません。これは僕が完全性という価値観について考察して出した結論に合致しているといえるでしょう,
 僕が思うに,この移行というのは,価値観でいうならば,完全性の価値観ではなく,むしろ善悪の価値観に関係しているのです。すなわち,大なる完全性への移行,感情でいうところの喜びが善であり,小なる完全性への移行、つまり悲しみは悪であるということです。スピノザが第四部定理八で示しているように,僕たちが認識する善悪というのは,まずはこの自分自身の喜びの認識であり,また悲しみの認識であるということになるのです。
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共同通信社杯&善と悪

2008-10-14 18:54:58 | 競輪
 GⅡでは賞金額が高いため,年末のグランプリ出場権を左右するケースもある共同通信社杯競輪。今年は昨日が決勝でした。
 山田選手がSを取って前受け。3番手に山崎選手,6番手に平原選手,8番手が海老根選手という周回に。
 海老根選手が上昇していくと,残り2周のホームでは平原選手,さらに山崎選手も上がっていってごちゃごちゃしましたが,結局,バックでまず平原選手が前を叩き,それを外から山崎選手が交わしていっての先行という形に。打鐘で山田選手がインを上昇し,4番手を取りましたが,坂上選手は付ききれず,5番手に平原選手。バックでは後方の海老根選手,さらに平原選手と捲り発進。平原選手を牽制するように佐藤選手も発進し,少し遅れたようにも見えたのですが,そのまま抜かせずに佐藤選手が優勝。食い下がった平原選手が2着。再度インを上昇してきた山田選手の影響で態勢的には苦しくなった伏見選手ですが,3着は確保しました。
 優勝した岩手の佐藤友和選手は2月の東王座戦以来となるビッグ3勝目。ただしすべてGⅡですので,GⅠ制覇が待たれます。もちろんGⅠ初優勝の最短距離にいる選手でしょう。ただしここは山崎選手の番手を回った上,どかんと行ってもらいましたし,番手を攻めそうな選手が見当たらないなど,恵まれていた部分もあります。ただ,自力で動いたレースも含めて,この開催は好調という印象でしたので,この調子を維持していってほしいところです。

 明日は浦和で埼玉栄冠賞。一応ナイキアディライト◎が中心。本線はモエレラッキー○とデスモゾーム▲で,次がクレイアートビュン△。ナイキデラックス△も。

 さて,価値観ということになれば,善と悪ということを外すわけにはいきません。そこで最後に,排尿という運動の善悪ということをどのように考えればいいのかということを,スピノザの哲学の観点から考えておくことにします。なお,善悪は『エチカ』でそれぞれ定義されていますので,これはスピノザが用いるように用いなければなりません。第四部定義一と第四部定義二がそれにあたります。またこのとき,第四部定義一の方でいわれている有益であるということがどういうことであるのかということは問題になるのですが,ここでも,これまでそうしてきたように,これを第三部定理七に依拠して理解するということにします。つまり,Aというものがあるときに,Aの現実的存在を維持しまた促進するようなものについて,これをAにとっての善であると理解するということです。何度もいっていることですが,あるものがAにとってはその存在を促進するけれども,Bにとってはそうではないというケースはいくらでも考えられますので,スピノザの哲学における善悪は,普遍的な概念ではありません。むしろ各々のものにとって,善であるものと悪であるものがあるのですし,同じものがAにとって,あるときには善であるけれども別のときには悪であるという場合も想定されます。つまり各々のものに,それぞれのときに,善であるものと悪であるものがあるという方がなお正確でしょう。
 現在の考察はあくまでも人間の身体における排尿という運動に関係しているわけですから,まずは,この排尿という運動が,人間にとって善であるか悪であるかということを考えなければいけないのですが,その前に,これら善悪のテーマは明らかにある認識を対象にしていますから,どのような場合に人間はあるものを善と認識し,また悪と認識するのかということを考えておく必要があります。
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南部杯&同様の事例

2008-10-13 19:07:43 | 地方競馬
 秋のダート大レース路線の幕開けを告げる南部杯(動画)。
 主張してコンゴウリキシオーの逃げ。キングスゾーンが外の2番手に控え,メイショウバトラー,ブルーコンコルド,ワイルドワンダーと,上位人気の馬たちが前を占めました。前半の800メートルは48秒4でこれはミドルペース。
 3コーナーを過ぎるとキングスゾーンが先頭に立ち,コンゴウリキシオーは後退。さらに外からメイショウバトラーがいい手応えでこれを交わしていき,4コーナーでは後ろとの差が少し開きました。しかし外から追ってきたブルーコンコルドが長い直線でこれを捕えて優勝。メイショウバトラーが2着で,ワイルドワンダーがキングスゾーンを捕えて3着でした。
 優勝したブルーコンコルドは昨年の南部杯以来の勝利。一昨年も勝っていますのでこれで三連覇。大レースはこれで7勝目。父はフサイチコンコルド,母系はアストニシメントエベレストの分枝。やはりこの距離がベストで,相手関係も少し恵まれていました。とはいえ8歳の秋にして大きな衰えを見せずにこうして大レースを勝つというのは驚異的ではあります。
 鞍上は幸英明騎手で,3月の高松宮記念以来の大レース勝ち。馬と共にこのレース三連覇で3勝目。管理するのは服部利之調教師で,こちらは昨年のこのレース以来の大レース制覇。やはり三連覇で3勝目となっています。

 こうなってきますともはや今回の考察の補足としての範疇すらも逸脱するということになってしまうのですが,これと同様の事例というものは僕は数多く散見されると思っています。ちょうどいい機会ですから,それについても少し申し添えておくことにします。
 僕の祖母は社会的には身体障害者と規定されています。また,僕の妹は社会的には知的障害者といわれます。そして僕の祖母はたとえば僕のようなスピードで歩くことはできませんし,僕の妹は僕のようにたとえばごく簡単な暗算をすることはできません。しかしだからといって,僕の身体あるいは精神が,僕の祖母の身体や僕の妹の精神より完全であるのかといえば,そういうわけではないのです。なぜなら僕は僕の本性によってなし得ることをなすのですが,同様に祖母は祖母の本性がなし得ることをなしているのであり,妹もまた妹の本性がなし得ることをなしていて,この点では僕も祖母も妹もまったく同じです。そしてこの本性によってなし得ることをなすことが現実的な力というものであり,この力が各々の完全性を規定するのだからです。つまり僕も祖母も妹も,各々の本性において完全であるということになるのです。
 これはあくまでも哲学的考察なので,ここで社会学的な論争を挑む気はありませんが,障害者というのはラベリングの一種ではないかとさえ僕は思います。排尿を我慢できる程度が著しく低い人間が病気であると規定される場合もそうなのですが,こうした事柄が人間の完全性を規定すると考えることは,本来は個人の本性として考えられるべき力というものを,人間一般の本性に属するような力として誤って理解することから生じているといえると思います。本性の中に似たような部分を多く含むものが完全であり,そうでないものが不完全というわけではないのです。
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観音寺記念&完全の意味

2008-10-12 19:26:22 | 競輪
 予告していた通りに遅くなってしまいましたが,先週の日曜日に雨の中で争われた観音寺懸念の決勝(動画)を回顧します。
 前受けしたのは石丸選手で,渡部選手が中団,吉川選手が後方からの周回。もちろん吉川選手から上昇していきましたが,これをみた渡部選手も動き,一足先に石丸選手を叩きました。これをバックで吉川選手がさらに叩いていくと,石丸選手は引いて前後が入れ替わっての一列棒状。結局このまま,残り1周の直線入口から,吉川選手が抑え先行となりました。バックで渡部選手が捲っていくと,ちょうど吉川選手のスピードが落ちてくるところと重なったためでしょうか,渡部選手のスピードよく,牽制もないままに四国勢で捲りきって直線勝負。番手から出た香川選手が優勝。3番手の室井選手が2着,渡部選手が3着でした。
 優勝した香川の香川雄介選手は2004年の武雄記念以来となる久々の記念競輪優勝。ここはうまく中団から中団へと回った四国勢の作戦勝ち。これからまだまだ記念競輪を勝っていく選手とは思いませんが,地元での優勝は感慨ひとしおでしょう。印象に残ったのは渡部選手のスピードですが,四国勢にとっては,3分戦とはいえ,ひとつがおそらく連係豊富な岡山の石丸選手であったことも幸いした感じもします。

 明日は盛岡で南部杯。これはブルーコンコルド◎とワイルドワンダーの争いとなることが濃厚。あとはコンゴウリキシオー△,メイショウバトラー△,キングスゾーン△。

 共同通信社杯競輪は決勝。並びは山崎-佐藤-伏見の北日本,平原-神山の関東,海老根に兵藤,山田-坂上の中部。メンバー構成的にここも北日本。

 排尿という運動を我慢できる程度が病気と規定されるほどに低かろうとあるいはそうではなかろうと,それ自体が何ら人間の身体の不完全性や完全性を意味しないということは,次のように考えても明らかではないでしょうか。
 たとえばAという人間の身体とBという人間の身体とを比べたときに,Aにはなし得るけれどもBにはなし得ないこととか,逆にBにはなし得てもAにはなし得ないことというのはあるわけです。これは僕たちの経験からいっても否定できないでしょう。そしてこうしたことを,AとBだけでなくすべての人間に当てはめていくならば,この差異というものはそれこそ無際限にあることになると思います。しかるに,排尿を我慢する程度の差異によって一方を完全といい他方を不完全というならば,同じ理由によって,こうした差異のことごとくに関して,一方を完全といい他方を不完全といわなければならなくなります。かくして,100メートルを10秒で走れる身体は走れない身体より完全であり,視力が0.1の身体は1.2の身体より不完全であり,指の間でペンを器用に回せる身体は回せない身体よりも完全であるということになるでしょう。もちろんこれらは個別の例にすぎず,こうした例を無際限にあげていくことができるということになります。
 結局のところ,こうしたことから帰結することは,完全とか不完全ということは,現実的にはもはや何の意味ももたないということではないでしょうか。いい換えれば,完全性というのはもはや価値観でも何でもないということだと思います。つまり完全性ということに何らかの意味をもたせようとするならば,このような差異によってそれを規定することはできないということになると思うのです。
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久留米つつじ賞&個別の力

2008-10-11 19:19:15 | 競輪
 共同通信社杯競輪2日目のメーンは,恒例となっている共同賞。今年は久留米つつじ賞として行われました。
 何選手かが飛び出しましたが,Sを取ったのは神山選手で小嶋選手の前受け。3番手に石丸選手,5番手に山崎選手,8番手から石橋選手という周回になりました。
 残り2周のホームに入るところから石橋選手が一気に踏み上げていくと,山崎選手がこのラインに続きました。バックで小嶋選手が引くと,山崎選手がこれを叩いて先行態勢に。4番手を小嶋選手がうまく確保すると,外から石丸選手が発進。僕には予想外だったのですが,石丸選手のかまし先行という形になりました。山崎選手が一番前にいたので3番手。バックから後ろを待たずに発進。小嶋選手も捲りましたが4コーナーでは一杯で,北日本勢の直線勝負。番手の佐藤選手が抜け出し1着,伏見選手が山崎選手を僅かに捕えて2着,山崎選手が3着となっています。
 山崎選手にとっては願ってもないといえるような展開で,本来ならば勝ちパターン。ただ後ろが佐藤選手-伏見選手であったから差されたということだろうと思います。逆にいえば佐藤選手や伏見選手もそれだけ強いということで,この3人が連係というケースでは,ほかの選手もよほど工夫しなければいけないということを示していると思います。

 人間が排尿という運動を我慢する力というのは,一般的な意味での人間の身体の本性に属するような力とは考えられ得ないわけですから,こうした力というのは,個々の人間の身体の本性が含んでいるものとして考えられなければならないわけです。したがって,たとえばAという人間とBという人間がいて,これらふたりの人間が排尿という運動をする場合には,AもBも共に同じ人間の身体の本性に属する力としてこの運動をなすわけですが,排尿という運動を我慢するという場合には,これとは違って,AはAの身体の本性に属する力として我慢するのであり,BはBの身体の本性に属する力として我慢するのであるということになります。
 そこでこのことから,次のことが帰結すると思います。もしも人間が排尿という運動をなす場合には,個々の人間の間で各々の身体の本性の力としての完全性を比較することができるでしょう。よってもしも,Aは排尿という運動をなし得るが,Bはなし得ないということがあるならば,この限りにおいて,あくまでもこの限りにおいてではありますが,Aの完全性すなわち実在性はBの完全性を上回るということが可能であるとはいえます。しかし我慢する場合には,AはAの本性によって我慢し,BはBの本性によって我慢するのですから,この場合には完全性を比較することができません。事物の本性というのは,第二部定義二にあるように,その事物の存在を肯定するのであって,そこには何ら完全性に差異はなく,比較できません。そしてこの場合の完全性の比較は,そのような本性の比較にほかならないからです。よって,Aの身体はこの我慢の限界点が低いために医学的には病気と規定され,Bの身体はそうではないからといって,Aの身体はBの身体よりも不完全であるということには,少なくともスピノザの哲学の考え方からはならないのです。
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女流王位戦&我慢する場合

2008-10-10 22:50:30 | 将棋
 3年連続での師弟対決となった女流王位戦五番勝負第一局
 振駒で先手は石橋幸緒女流王位。▲7六歩△3四歩に対する▲6六歩を見て,後手の清水市代女流二冠は真直ぐに右四間飛車に。先手の3手目▲6六歩に,飛車先を突かずに腰掛け銀から右四間飛車を目指すのは,第16期銀河戦決勝トーナメント準決勝で佐藤康光棋王も用いている作戦で,有力な選択肢のひとつ。その将棋は先手の振飛車になりましたが,石橋女流王位は居飛車を選択したので,14手目には△6五歩と早くも後手から仕掛けました。
           
 第1図以下,▲7八金△6六歩に▲同金。ここで△6五銀だと一気に終盤ですが△6五歩。これには▲5五金と出て,一応は落ち着きました。先手としてもいい形とはいえないかもしれませんが▲6七歩が打てて一安心だったかもしれません。
 おそらくこの将棋の勝着となったのは第2図の▲2四銀でしょう。
           
 ここから△3二玉▲3三銀成△同金となりましたが,この駒得は大きい感じです。してみると▲2四銀の直前,△4三銀と上がったのはやや疑問だったかもしれません。
 この後,後手は先手の飛車を攻めてこれを取ることには成功しました。
           
 第3図から▲5三歩成△同銀▲4五桂△4四銀▲3三桂成が先手からの気持ちのいい攻め。△同銀に▲5四角と打ち,△2二玉に▲2一角成と切って△同玉▲3三角成も素早い寄せで先手の勝勢。そのまま押し切っています。
 石橋王位は今期の成績が奮わず,僕が見にいった8月の京急将棋祭りの席上対局のときには「このままでは女流王位戦も危ないでしょう」と解説の渡辺明竜王に言われていましたが,その後,公務を減らしてここに臨んでいたようで,この内容ならば文句なしに楽しみです。

 明日は共同通信社杯競輪の2日目で,久留米つつじ賞がメーンとして行われます。並びは山崎-佐藤-伏見で北日本,石橋-海老根で南関東,小嶋には神山,石丸-豊田の岡山。北日本で。

 人間の身体が排尿という運動をしないようにすること,いい換えれば排尿を我慢するような運動をなすこと。これは一般的な意味での人間の身体の本性に含まれるような力であると考えることはできないと僕は思います。なぜなら,すでにみたように,排尿という運動自体は,たとえそれが客観的要件によって放尿とみられようと失禁とみられようと,それ自体で一般的な人間の身体の力である,すなわち,それがどんな人間の身体であっても,その人間の身体の実在性を維持するような運動であるとみなすことができるわけです。これで考えれば,排尿を我慢するような運動は,むしろこの意味では人間の身体の実在性すなわち完全性の維持を阻害するような運動であると考えられるべきであって,これを人間の身体に一般の力であると主張することは,明らかに第三部定理七に反することであると考えられるからです。実際,僕たちは,排尿という運動を過剰に我慢することについては,そういうことをしないように教えられますが,それはこのことを経験的に裏付けているのではないかと思います。
 よって,排尿を我慢するような力というのは,仮にそういう力というものがあるのだとすれば,あるいはそれを力といい得るのであるとすれば,人間の身体に一般の力としてではなく,むしろ個人個人の身体に備わる力であると考えられなければなりません。そしてこのとき重要なことは,個人の身体に属するような力というものは,個人の身体の本性に属するのですから,個人の身体の本性が異なっているのに比例して,この力もまた異なると考えなければならないということです。
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東京記念&排尿の完全性

2008-10-09 21:37:05 | 地方競馬
 2400メートルという,ダートではやや特殊といえる距離で行われる第45回東京記念
 あるいはマズルブラストが自らペースを作っていくことも予想されましたが,セイワクリスタルの逃げに。ナイキコランダム,マズルブラスト,ケイアイプラネットといったあたりが続きましたがどの馬も引っ張りきり。このために最初の1000メートルが69秒8というまれに見る超スローペースになりました。
 向正面から中団にいたルースリンドが追撃開始。ただ,さすがにこのあたりからはペースも上がり,前に取り付くのには一苦労。マズルブラストは直線に入ると構わず追い出され,逃げたセイワクリスタルを置き去りに。展開的には完全な勝ちパターンだったのですが,諦めずに追ってきたルースリンドがゴール前で捕えて優勝。マズルブラストが2着。3コーナーの手前で不利があったように見えたケイアイプラネットが大外を伸びて3着に入りました。
 優勝したルースリンドは2月の金盃以来の勝利で南関東重賞3勝目。父はエルコンドルパサー。ここは能力上位で,休養明けだけが心配でしたが,何とか勝ちきりました。てこずったのは展開と,マズルブラストは順調に使っていたためでしょう。何とか重賞を勝ってほしい馬です。
 鞍上はJRAの内田博幸騎手で,南関東重賞は5月の東京湾カップ以来で,移籍後の2勝目。東京盃は2000年以来となる3勝目。管理するのは船橋の矢野義幸調教師で,こちらは東京盃初制覇となりました。

 明日は女流王位戦五番勝負第一局。ここは立場こそ違え3年連続同一カード。対戦成績は石橋幸緒女流王位が16勝,清水市代女流二冠が26勝です。

 競輪は明日から久留米で共同通信社杯が開催されます。北日本勢が強力そうです。

 排尿という運動が人間の身体一般の力に属するということはこれでいいと思います。この運動は,すべての人間の身体がなす運動であるといっていいと思いますが,これは各々の人間の身体が個別に理解されるような力としてなされる運動ではなくて,すべての人間の身体に共通するような本性に属する運動としてなされているわけです。そこで僕は,この形相的作用としての排尿を,客観的条件によって放尿と失禁とに分類したのですから,人間は放尿しようと失禁しようとそれを人間の身体の実在性すなわち完全性によってなしているということになります。放尿も失禁も,形相的観点でみれば同じ排尿という運動にほかならないからです。一般的には排尿というのはプラスよりはマイナスにイメージされるものであり,それが失禁となればそのマイナスイメージはさらに大きくなるのではないかと思うのですが,少なくともスピノザの哲学においては,第一義的にはこれはむしろ人間の身体の完全性を示すと考えなければなりません。実際,失禁という現象が人間に生じるのは,まさに人間の身体が,自分の精神の決意とは無関係に,自身の実在性を維持しようとしているからだと考えることができるのではないかと思います。
 ただし,これは確かに一面的な考え方であるということはできると思います。なぜなら,人間の身体が排尿という運動をするということ自体が人間の身体の完全性の一部を構成するということ,あるいはそれが人間の身体一般の力であるということは否定できないとしても,逆の場合,すなわち人間の身体が排尿という運動をなさないようにすること,つまり排尿を我慢することがそうした力ではないということは,このこと自体のうちには含まれているとはいえないからです。そこで次に,この完全性について考えてみることにします。
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東京盃&排尿の場合

2008-10-08 21:27:15 | 地方競馬
 今年は園田で開催されるJBC。そのうちJBCスプリントの最大の前哨戦といえるのが今夜の東京盃です。
 タイセイアトムが大きく出遅れ。ヴァンクルタテヤマが難なくハナを奪って逃げ,チヨノドラゴン,キングオブライヒといった伏兵がこれを追いかけていく展開に。前半の600メートルは34秒3。コース形態上どうしてもハイペースになりますが,箆棒なペースではないと思います。
 直線に入るところで一旦は後ろとの差を広げたヴァンクルタテヤマですが,伏兵に絡まれたのが応えたか残り200メートルほどで一杯に。好位の内からスムーズに馬群を捌いてきたフジノウェーブがあっさりとこれを捕えて優勝。おっつけながらもやや後ろからの競馬になったディープサマーは,かなり外に持ち出してきましたがこちらもゴール前でヴァンクルタテヤマを交わして2着に入り,ヴァンクルタテヤマは3着まで。
 優勝したフジノウェーブは昨年のJBCスプリント以来の勝利で重賞2勝目。そのJBCスプリントも今日も休養明けの競馬で,フレッシュな状態の方が好走できるタイプなのかもしれません。また,時計は少し掛かる方がよいようです。大レース勝ちがフロックではなかったことを示す快勝でした。
 鞍上は大井の御神本訓史騎手。コンスタントに勝ち鞍を上げていますが,重賞・南関東重賞勝ちはJBCスプリント以来。東京盃は初制覇。管理するのは大井の高橋三郎調教師で,2003年以来の東京盃2勝目となっています。

 明日は引き続き大井で東京記念。これはルースリンド◎が中心。相手筆頭がマズルブラスト○で,ショーターザトッシ△,ケイアイプラネット△,ブルーライン△,ロングウェーブ△まで。

 第三部定理七から分かることは,人間の身体は諸々の運動ないしは静止をなす力を有するわけですが,もしもその運動ないしは静止が,その人間の身体の完全性すなわち実在性を,一般的な意味で維持するような運動であり静止であるならば,その運動や静止は一般的な意味で人間の身体の本性に属する力とみなすことができるであろうということです。そこでもしも逆に,ある人間の身体の運動が,こうした観点からは人間の身体の実在性を維持することに有益であるとはいえないならば,それはむしろその個人の身体の本性に属する力であるとみなされるべきであるということになります。
 そこでこうしたことから人間の身体の排尿という運動について考えてみるならば,これはもう一般的な意味で人間の身体の本性に属するといっていいのではないかと思います。膀胱に溜まった尿を身体の外に排出するという運動が,排尿の定義であるかどうかは争いませんが,少なくともこうした運動が,人間の身体の実在性を維持するために有益であること,あるいは不可欠でさえあるということには,異論の余地はないであろうと思います。実際にこれは逆に考えてみれば理解しやすく,もしも何らかの外的原因により,ある人間の身体が排尿という運動をなし得なくなった場合には,それをそのまま放置する限り,その人間の身体は徐々に破壊され,ついにはその人間は死に至るでしょう。第三部定理四が示しているのは,具体的にはそのようなことであって,このことからも排尿という運動が,スピノザの哲学においては,一般的な意味で人間の身体の本性に属するということが理解できるのではないかと思います。
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白山大賞典&一般的意味と個別的意味

2008-10-07 20:37:42 | 地方競馬
 昨年は馬インフルエンザの余波でレース表記上の重賞としては行われなかった第28回白山大賞典(動画)ですが,今年は無事に施行されました。
 ダイナミックグロウもかなり押していましたが,外からスマートファルコンが前に出ての逃げ。2番手は内にダイナミックグロウ,外にマルヨフェニックスで,4番手にサカラート,1頭おいてヤマトマリオン。隊列が決まると2周目の向正面までは淡々と流れていきました。
 最初に動いたのがヤマトマリオン。サカラートを交わし,マルヨフェニックスに並び掛けるとペースアップし,ダイナミックグロウは後退。3コーナーを回るとヤマトマリオンが2番手に上がって直線に。しかしスマートファルコンにはまだ余裕があり,ヤマトマリオンに並ばれることなく逃げ切って優勝。ヤマトマリオンが2着。ヤマトマリオンが動いたときには対応できなかったサカラートでしたが,直線は追い上げ,マルヨフェニックスを交わして3着に入りました。
 優勝したスマートファルコンは前走のKBC杯からの連勝で,重賞は初制覇。2勝目までダートで上げた後,芝のジュニアカップを勝ったのでクラシック路線を走りましたが苦戦。休養を挟んでダートに戻り,ジャパンダートダービーで2着の後,KBC杯を勝っていました。今日は斤量面で少し恵まれていたと思いますし,わりと楽に逃げられたのもよかったのでしょう。逃げなくてもレースはできる馬で,重賞はまだ勝てるでしょう。長距離タイプではないような気がします。
 鞍上は岩田康誠騎手で,一昨年も勝っていてこのレースは2勝目。小崎憲調教師は白山大賞典初制覇です。

 明日は大井で東京盃。中心はヴァンクルタテヤマ◎も,フジノウェーブ○,リミットレスビッド▲,ベルモントサンダー△まで勝機はありそうで,ディープサマー△とアグネスジェダイ△も。

 人間の身体というのは物体ですから,それがなすこと,あるいはなし得ることというのは,運動ないしは静止に限られます。一方,スピノザが考える力というのは,可能的なものではなくて現実的なものですから,人間の身体の完全性を規定するような力というのは,そうした人間の身体がなす運動であり静止であるということになります。しかし,このことは僕たちがそれこそ経験的によく知っていることですが,個々人の人間の身体というのは,必ずしも同一の事柄をなし得るとは限らず,ある人間の身体にはなし得ても,別の人間の身体にはなし得ないこともありますし,あるいは同一の人間の身体であっても,かつてなし得なかったことをなし得るようになるとか,逆に,以前はなし得ていたことがなし得なくなるということもあるわけです。そこでこうした諸々の運動や静止のうち,何が一般的な意味で人間の身体の本性に属し,また何が諸個人の身体の本性に属すると考えるべきなのかということを,スピノザの哲学に訴えることによって決定しておく必要があるといえるでしょう。
 このために僕はここでは,第三部定理七を援用したいと思います。万全を期すためには,ひとつ前の第三部定理六とセットで援用するべきなのですが,定理六の方はまだこのブログで扱ったことがなく,このことのためにわざわざ扱うにはあまりに煩雑ですので,ここでは定理七の方だけを利用します。するとこのことから,人間の身体というのは,一般的な意味で考えられようと,個別の意味で考えられようと,現実的に実在する限り,それ自身の実在性を維持する傾向を有するということが理解できます。
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凱旋門賞&身体の完全性

2008-10-06 20:52:33 | 海外競馬
 日本時間で昨日深夜,パリのロンシャン競馬場で争われた第87回凱旋門賞GⅠ。フランス遠征中のメイショウサムソンを含む16頭で争われました。
 メイショウサムソンは発走直後は好位にいたのですが,どうもその後で不利があったようで位置取りを下げ,かなり後方の内からレースを進めました。直線もそのまま内を突いて進出を図りましたが伸びを欠き,10着という入線になっています。
 勝ったのはメイショウサムソンのすぐ前でレースをしていたZarkavaで,こちらは直線で馬場の半ばまで持ち出して追われるとよく伸び,内で争う各馬を尻目に悠々と抜け出しています。3歳牝馬がこのレースを勝つのは26年振りとのこと。今年のサンクルー大賞GⅠで,Duke of Marmaladeを降して優勝していたイギリスのYoumzainがゴール前で内の2頭を捕えて2着,Soldier of Fortuneと伏兵のIt's Ginoが同着で3着を分け合っています。
 メイショウサムソンも瞬発力に優るというタイプの馬ではありませんから,道中の位置取りは,レースですから仕方のない面もありますが,やや不本意ではあったでしょう。また,個人的には前哨戦も使っておいた方がよかったとは思います。ただ,いずれにしても今年はメンバーが強力で,勝ち負けというところまでは難しかったのではないでしょうか。

 明日は金沢で白山大賞典。上位はおそらく4頭で,順番はスマートファルコン◎,サカラート○,マルヨフェニックス▲,ヤマトマリオン△。ダイナミックグロウ△にもチャンスはありそうです。

 スピノザの哲学では,完全性すなわち実在性というのは,力という観点からみた場合の事物の本性にほかならないと僕は考えています。よって僕は,人間の身体の完全性とは,人間の身体の力であると考えます。ただしこのとき注意しなければならないのは,スピノザはいかなる意味でも,たとえそれが神のものであったとしても,力というのをただ現実的なものとしてのみ認め,可能的なものあるいは潜在的なものとしては認めませんので,この場合にも,人間の身体の力とは,人間の身体が現実的になし得ることというように理解しなければならないということです。したがって,人間の身体が一般的な意味でなし得ることというのと,各々の人間の身体が個別になし得ることというのを混同せず,明確に区別しなければならないということになります。
 このことは,人間の身体の本性というものが,実際には二様の意味で理解され得るということを意味していると思います。すなわち,スピノザの哲学における人間の身体の本性ということのうちには,すべての人間の身体に共通するような要素としての人間の身体の本性と,ある人間の身体の本性ということのふたつの意味があるのです。実際,個々の人間の身体の本性に異なる面があるということについては,スピノザが第三部定理五七で示しているといえるでしょう。そこで,何が一般的な人間の身体の本性に属し,何が個別の人間の身体の本性に属するのかということを考えなければいけません。
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スプリンターズステークス&精神の完全性

2008-10-05 19:25:00 | 中央競馬
 海外からの登録馬がすべて回避し,日本調教馬のみによって争われた今年のスプリンターズステークス
 5頭ほど好発を決めましたが,押していったウエスタンビーナスの逃げ。エムオーウイナー,アポロドルチェ,ビービーガルダンと続き,スリープレスナイトはこれらを見ながらの競馬で,これをマークする位置にキンシャサノキセキ。前半の600メートルは33秒6とミドルペースになりました。
 スリープレスナイトはそのまま外から上がっていって直線に。すぐ外にキンシャサノキセキが追ってきて,叩き合いになるかと思われましたが,キンシャサノキセキは思ったほど伸びず,1馬身4分の1の差をつけてスリープレスナイトが優勝。一旦は交わされたビービーガルダンが差し返すような形で伸びてきて,2着は接戦になりましたがキンシャサノキセキで,ビービーガルダンが3着。
 優勝したスリープレスナイトはこれで今年の4月から,ここ2走の重賞も含めて5連勝。大レースは初制覇。父はこの馬の名前の由来ともなったクロフネ。輸入された祖先は異なりますが,昨年のJRA賞年度代表馬のアドマイヤムーンの近親。この馬がアドマイヤムーンの母の従妹ということになります。今年に入ってからの充実著しく,スプリント路線では名実共に日本のトップに立ったといっていいでしょう。このレースは過去の傾向から外枠の馬が苦戦していたのですが,今年は上位3着まで,外の馬が占めるということになりました。
 鞍上は上村洋行騎手で,大レースは初制覇。目の病気で長期の休養を余儀なくされた騎手で,さらなる活躍が期待されるところ。管理するのは橋口弘次郎調教師で,一昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。スプリンターズステークスは初優勝です。

 日本時間の今夜,フランス遠征中のメイショウサムソンが出走する凱旋門賞が行われます。今年は強力メンバー。まずGⅠ4勝を含め6戦6勝,すべて楽勝続きのフランスの3歳牝馬,Zarkava。同じく6戦6勝で今年のフランスダービー馬のVision D'Etat。古馬ではアイルランドの2頭,今年のキングジョージを勝ったDuke of Marmaladeと昨年のアイルランドダービー馬のSoldier of Fortune。前哨戦を使わなかったメイショウサムソンですが,これらの馬を相手にどこまで走ってくれるでしょうか。

 僕たちがあるものについてそれを完全とか不完全という場合には,そのようにいうものの部分についてそういうのではなくて,そのものの全体についてそういいます。これは,たとえばあるものの全体からある一部分が欠けているというようなことがあるという場合には,その欠落している部分について不完全といわれるのではなくて,そのように欠けている部分があることによってその全体が不完全であるといわれるということからも明らかでしょう。よって,もしもある表象ないし観念の完全性ということを考える場合に,その観念というのをひとつの全体として考えるならばこれでいいのですが,この観念をある全体の部分として考える場合,現実的にいえばここでは人間の精神のうちにある観念について考えているわけですから,こうした観念をある人間の精神を構成する観念の一部分としてみた場合には,不十分であるといえます。実際に僕たちは,ある観念についてそれを完全とか不完全という場合には,むしろそうした観念を有するような精神を有する人間についてそれを完全とか不完全というだろうからです。
 第二部定理一三によれば,人間の精神を構成する観念の対象はその人間の身体であって,第二部定理七によれば,観念の秩序と物体の秩序は同一ですから,人間の精神の完全性ないしは実在性というのは,その人間の身体の完全性ないしは実在性と平行的な関係にあるということになります。したがって,人間の精神の完全性ということを考える場合には,人間の身体の完全性とは何かということを考えなければならないということになります。というより,ここでは排尿というのを人間の身体がなす運動と規定しているわけですから,排尿に関係するような完全性については,この観点からしか考えることができません。
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再渡米&完全性

2008-10-04 19:00:17 | 海外競馬
 春にアメリカ遠征し,ピーターパンステークスを勝つという快挙を達成したものの,最大の目標であったベルモントステークスは直前の爪の怪我で出走を取り消したカジノドライヴ。怪我は軽症でしたのですぐに帰国,秋の目標を現地時間今月25日のブリーダーズカップクラシックに定め,1日に日本を旅立ちました
 本当は9月16日に出国という予定を組んでいたのですが,日本での調整が少し遅れてしまったようです。ブリーダーズカップは開催競馬場が持ち回りですが,今年は西海岸のサンタアニタパーク競馬場。ここはダートではなくポリトラックですので,慣れさせるという意味で,試走としてレースも使うようです。ただこれは重賞でなく一般レースになるようですから,ここでは取り上げません。
 ブリーダーズカップクラシックは,アメリカの有力馬はすべてが目標とするレースといっても過言ではなく,レースのレベルは格段に上がることになります。ただ,カジノドライヴはレースで底をみせていませんので,僕としては不安よりも期待の方が大きいです。少なくとも,まったくレースにならずに負けてしまうということはないのではないかと思います。鞍上は,アメリカのビクター・エスピノーザ騎手が務める予定となっています。

 明日はスプリンターズステークス。キンシャサノキセキ◎,スリープレスナイト○,カノヤザクラ▲,ファイングレイン△,スズカフェニックス△。順番つけましたけど拮抗してると思います。

 観音寺記念は決勝です。並びは吉川ー遠沢ー渡辺の南関東,石丸には山口で西日本,渡部ー香川ー室井の四国で手島は単騎。石丸選手を狙いますが,手島選手は無視できません。なお,このレースの回顧はかなり後になることをお断りしておきます。

 次に,ある人間の精神のうちにある排尿の観念の完全性ということを考えてみることにします。なるほど,ある事物について,それを完全とか不完全とかいうのは,ひとつの価値観に相違ないだろうと思われるからです。
 表象は混乱した観念です。だから,それがどんな人間の精神のうちにあったとしても,排尿の表象像というのはすべからく混乱した観念です。すでに何度か指摘していますように,混乱した観念と十全な観念の関係というのは,前者が無であるのに対して後者が有であるということにスピノザの哲学ではなっていますので,これを実在性の観点からみるならば,排尿の表象像は,それがどのように表象されるのかということには関係なく,すべて非実在的なものであるといえます。ところが,第二部定義六にあるように,事物の完全性とはその事物の実在性にほかならないのであって,要するに排尿の表象像は,表象のされ方には関係なしに不完全なものといえるでしょう。
 要するにもしも排尿の観念というものがあって,こうした観念が完全なものであるといわれるためには,その排尿の観念が表象つまり混乱した観念ではなくて,十全な観念ないしは真の観念としてあることが必要となるわけです。僕は僕自身の排尿の説明について,これはスピノザの哲学における定義ではないかといいました。この点については争いませんが,もしもそれが確かに排尿の定義であるのなら,そのように排尿が観念される場合に,それは始めて完全であるといい得るのであり,それ以外の排尿の観念は,すべて不完全であるということになるのです。
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ちょうさ賞&真偽

2008-10-03 20:07:27 | 競輪
 ちょうさって何だろうと思って調べたら,さぬき豊浜ちょうさ祭というのが来週末に開催。というわけで今日の観音寺記念の2日目優秀(動画)はちょうさ賞でした。
 前受けは石橋選手。渡部選手が中団で,後方から金子選手という周回。上昇した金子選手は残り2周のホームで一旦は渡部選手を牽制し,バックで石橋選手を叩きました。渡部選手が続いて,石橋選手はすんなり7番手に。しかし金子選手もなかなか駆ける素振りをみせなかったので,ホームから石橋選手が発進し,かまし先行。3番手の手島選手は離れ加減で,金子選手に入られそうでしたが,バックで追い上げ3番手を確保。渡部選手の捲りに合わせて金子選手も発進しましたが,時すでに遅く,逃げ切った石橋選手が1着。マークの渡辺選手がきわどく迫っての2着。3着も手島選手が確保し,東日本の上位独占となりました。
 勝った石橋慎太郎選手はここのところ力をつけてきたのか,あるいは好調なのでしょうか。今日もかまし先行でぴったりマークした渡辺選手の差し脚を凌ぎましたので,強かったといっていいと思います。金子選手に3番手に入られればあるいは違っていたかもしれず,手島選手が諦めずに追い上げてきてくれたのも味方になりました。

 正しいということは,一般的にはふたつの観点からいわれます。すなわち,それが真であるか偽であるかという観点と,それが善であるか悪であるかという観点です。そしてこれらは共に価値観であるといってよいでしょう。
 ところで,人間の精神による事物の表象というのは,すべからく混乱した観念です。すでに第二部定理四〇を詳細に考察することによって明らかなように,混乱した観念を原因として生じてくるいかなる観念も混乱した観念です。よって排尿の表象像,これは,現実的に考えれば,排尿という運動をしているある人間の身体の表象像といえますが,この表象像を原因として人間の精神のうちに生じるような一切の観念は,やはり混乱した観念であるということになります。よって,排尿という表象から連結して生じてくる観念は,各々の人間によって異なるわけですが,ここからどんな連結である観念が人間の精神のうちに生じようとも,それらはすべて混乱した観念ですから,少なくとも真と偽という観点から,正しい連結があるということはナンセンスであることになります。いい換えればそれはどんな連結であったとしても,つまり排尿の表象からどんな事柄を連想するのであっても,それらは一様に偽であるということになるでしょう。
 同じように,ある何らかの原因によって,人間の精神のうちに排尿の表象像が生じるとしても,やはりそれはどんな人間の精神のうちに生じるとしても,すべてが偽であるということになります。よって,排尿の表象像に関連する限り,ある表象像が真であり,またある表象像が偽であるということはあり得ません。これは排尿とは関係なく,表象像というものに一般の,スピノザの哲学のひとつの価値観の決定であるといえると思います。
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取手記念&価値観

2008-10-02 21:18:33 | 競輪
 全体的に地元勢が大活躍したといえる取手記念の決勝(動画)は,一昨日,争われました。
 前受けは小嶋選手。4番手に小林選手が入り,5番手から牛山選手。早めに叩きに出るのかと思ったらそうでもなく,牛山選手が小嶋選手に並び掛けたのが残り2周のホーム。バックで前に出て,一旦スピードを緩めたところで小林選手も6番手に切り替え,小嶋選手は7番手。結果的に抑え先行のような形で牛山選手の逃げ。小嶋選手がバックから捲っていったのですが,構わずに武田選手に番手捲りを放たれて万事休す。前の地元勢の争いとなり,並びの順で,武田選手が優勝,戸辺選手が2着,十文字選手が3着と,きわめて固い決着になりました。
 優勝した地元の武田豊樹選手。今年は4月の一宮の北京オリンピック日本選手応援競輪でGⅢを勝ってはいますが,記念競輪は昨年6月の富山記念以来で,力からすればずいぶんと勝てなかったものだと思います。ここは展開がすべて。自力で優勝して,ようやく復調してきたということができるのではないかという気がします。

 明日は観音寺記念の2日目優秀のちょうさ賞です。並びは石橋ー渡辺の静岡に手島,金子ー山口ー岩本の中部,渡部ー室井ー豊田の四国中国。僕は中部から。

 人間の精神がある事物を表象すると,この表象像が原因となってある別の表象像が発生し,またその表象像が原因となって別の表象像が発生するという具合に,表象像が移行していくということはしばしば生じます。これは僕たちの経験からいっても疑い得ないでしょう。しかしある表象像から別の表象像への移行というのは,そうした表象をする人間の身体の秩序に応じますので,スピノザが第二部定理一八の備考に示しているように,各人によって差異が生じます。単純にいっても,あることばから連想するものはすべての人間において同一というわけではなく,むしろ相違があるでしょう。そこで,たとえば排尿という運動が自身の性的な嗜好に結びついている人間と,そうでない人間とでは,排尿ということから生じる表象像は異なったものになるであろうということは容易に推測できます。そして同様の相違は,排尿に関してある病気であると規定される人間と,そうでない人間との間でも,やはり当然のように生じるということになるでしょう。
 僕がまず断っておきたいのは,このとき,排尿から別の表象像へと移行する連結の間には,それがどんな連結であったとしても,質的な差異はないという点です。いい換えれば,表象像の正しい連結というのはあり得ませんし,また,各々の人間にとってはよい連結と悪い連結というのはあり得るとしても,普遍的に,万人にとってよい連結とか悪い連結というのはあり得ないということです。したがって,こうした連結の原因である排尿の表象を単独で考察した場合にも,それは万人にとってよい表象であるということはあり得ませんし,しかし同時に,万人にとって悪い表象であるということもあり得ないということになります。まずこの点を,スピノザの哲学から確認しておくことにします。
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