スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典JBCレディスクラシック&基本原理

2012-11-15 18:32:36 | 地方競馬
 5日のJBC3レースのうち,最初に行われたのが第2回JBCレディスクラシックで,今年は1600m。
                         
 先手を奪ったのはサクラサクラサクラ。クィーンズバーン,アースサウンド,プレシャスジェムズ,エーシンクールディ,クラーベセクレタ,サトノジョリーという隊列で,ミラクルレジェンドはその後ろ。前半の800mが50秒1のミドルペースになりました。
 前の馬の中で最初に下がったのがアースサウンドで,それ以外の馬は2番手以降がごった返すような形で直線に。ここから大外に出されたミラクルレジェンドが鮮やかに突き抜け,1馬身半差で快勝。インの苦しい位置取りから内から2頭目を割るように伸びたクラーベセクレタが2着。4分の3馬身差の3着に逃げ粘ったサクラサクラサクラは大健闘といっていいでしょう。
 優勝したミラクルレジェンドは前哨戦のレディスプレリュードからの連勝で重賞7勝目。第1回の優勝馬であり連覇。現時点で牝馬同士であれば太刀打ちできそうなのは2着馬以外になく,それに差をつけての圧勝ですからまだまだこの馬の天下が続くでしょう。牡馬相手にもいい競馬ができる力をもっている馬だと思います。父はフジキセキ,半弟に今年のエルムステークスとみやこステークスを勝っているローマンレジェンド
 騎乗したのは岩田康誠[やすなり]騎手で管理しているのは藤原英昭調教師。両者にとってもこのレース連覇となりました。

 この結論に至る論証過程に関係して,注意しておくべき事柄がひとつ,さらに別に派生してくる事柄がひとつありますので,それらを順に説明しておくことにします。
 スピノザは人間の精神による第三種の認識について,神の属性の十全な認識から事物の本性の十全な認識へと進むタイプの認識であるという意味のことを,第二部定理四〇備考二の中で示しています。そこでは確かに事物といわれているのであって,個物といわれているわけではありません。しかし個物が事物の一部をなすことは明白です。さらに第二部公理五によれば,人間の精神は物体か物体の観念以外の個物を知覚しないとされているのですから,ここで事物といわれているものに物体が含まれているということはほぼ確実視してよいように思えます。したがってこれでみれば,スピノザは,少なくとも第三種の認識によっては,人間の精神が個物,とくに第二部定義一にある延長の属性の個物である物体に関して,その十全な観念を有するということ,あるいは有することが可能であるということに関しては,それを肯定していたと考えるのが順当であると僕は思います。そしてこのことは,第二部定理一二の新しい意味を導出するために論証した過程で出現した,人間の精神は現実的に存在する個物についてその十全な観念を有することはできないという事柄,たとえば第二部定理二六第二部定理二五を合わせることによって結論されるような事柄と,矛盾するものではありません。このことは,現在の考察の主旨からすればそれとはほとんど関係してこないような事柄ではあるのですが,『エチカ』の全体に関して考えてみた場合には,きわめて重要な事柄であるといえますので,少し詳しく僕の考え方というものを説明しておくことにします。
 なぜこれらふたつの事柄が矛盾しないと僕が考えるのかといえば,その最も基礎的な部分をなすのは,一般に事物が持続する場合に,その事物の持続,とりわけ持続の範囲というものは,その持続している事物自身,いい換えれば現実的に存在している事物自身の本性には含まれることはできないという基本原理であると僕は考えています。
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ハイセイコー記念&第二部定理二四

2012-11-14 20:45:04 | 地方競馬
 ハイセイコーのデビュー40年の節目ということで中央競馬に移籍した後,手綱を取った増沢末夫さんも招かれた第45回ハイセイコー記念
 逃げたのはサブノランマル。ドリームタイム,ヴェリイブライト,ザスパイスガール,ソルテと続き,外をブラックワードが上昇。前半の800mは49秒8で,これはハイペースですが,11秒台のラップはありませんので,そんなに苦しくはなかったものと思います。
 先行勢の中で手応え抜群に見えたのがヴェリイブライト。この馬が直線入口で逃げたサブノランマルに並ぶとすぐに交わして先頭。しかしこれをマークするように上がってきたソルテがあっさりと交わし,3馬身の差をつけて快勝。意外と伸びきれなかったヴェリイブライトが2着。最後尾から向正面で動き,今日もいい脚を長く使ったナリチュウドラゴンですが1馬身半差の3着まで。
 優勝したソルテは9月デビュー。2戦目の特別で初勝利し,前走は前哨戦といえるレースで4着。ただ勝ち馬とは0.1秒差でしたから能力的には勝っておかしくないだけのものがありました。かなり鮮やかな勝ち方であったことは事実ですが,能力的に抜けているというわけではないと思われ,今後も今日の上位馬は勝ったり負けたりを繰り返していくことになるような気がします。父はタイムパラドックス。祖母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ。Sorteはイタリア語で運命。
 騎乗した川崎の金子正彦騎手は2009年の東京ダービー以来の南関東重賞制覇。ハイセイコー記念は初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師もハイセイコー記念初勝利。

 この若干の不備を解消してくれるのが第二部定理二四です。
 「人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない」。
 この定理を証明するためには,人間の身体を組織する部分というのがどういったものであるのかということの理解が不可欠ですが,これはさすがに現状の考察とはあまりにかけ離れた事柄ですからここでは考えることはしません。ただ,今は現実的に存在する人間の身体について考えているのですから,この場合のそれを組織する部分というのも,当然ながら現実的に存在するものとして考えなければなりません。よってそれは観念としては第二部定理九の仕方で説明される限りにおいて,神のうちにあるということになるでしょう。しかるにこの第二部定理九を,現在は神の無限知性を構成するものとして理解しているのですから,その十全な観念というのが現実的に存在する人間の精神のうちにあるということはできません。もちろんこうした証明の仕方というのは,現実的に存在する人間の身体の部分の十全な観念は人間の精神のうちにあることはないという意味であって,現実的に存在する人間の精神のうちに自分の身体を組織する部分の十全な観念は存在しないという,この定理が本来の意味で有していると考えられる内容とは異なっていますが,この証明による意味が,この定理の本来の意味をも含んでいることは間違いないでしょう。現時点では現実的に存在する人間の精神が自分の身体の部分に関してその十全な観念をもつことはできないということだけが明らかになれば十分ですから,ここではこのことをもってそれが証明されたということにします。
 これにより,第二部定理一二の新しい意味が成立するということが明らかになりました。いい換えれば,第二部定理九系の消極的意味もまた,この系のスピノザによる記述からそのように理解されなければならないということになります。もっといえば,むしろこれらの定理および系は,混乱した観念のみに言及しているのであって,十全な観念については言及していないということになります。というのも人間の精神は,現実的に存在するあらゆる個物に関して,それを十全には認識し得ないということが明らかとなったからです。
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農林水産大臣賞典JBCスプリント&若干の不備

2012-11-13 19:04:48 | 地方競馬
 5日の10レースに行われた第12回JBCスプリント。今年は1400m。
                         
 先手を奪ったのはタイセイレジェンド。シャイニングアワーとラブミーチャン,さらにオオエライジンと地方勢が続き,スーニ。セイクリムズンはその後ろからの追走となりました。最初の600mは36秒7で,ミドルペースと考えていいでしょう。
 向正面でスーニが進出。シャイニングアワーとオオエライジンは後退し,タイセイレジェンドの後ろにラブミーチャンとスーニが並ぶようにして直線に。ここまでスーニの勢いがよかったのであるいは突き抜けるのかと思いましたが,むしろ余力があったのは逃げていたタイセイレジェンドの方で,ここから後ろを突き離していき,3馬身差のレコードタイムで優勝。早めに動いたスーニはさすがに苦しくなったようで,直線では馬群を割るように抜けてきたセイクリムズンが2着。2馬身差の3着にスーニ。
 優勝したタイセイレジェンドは8月のクラスターカップ以来の勝利で重賞は2勝目。大レースは初制覇。レコードタイムで逃げ切ってのものですから,かなり強い内容であったと考えてよいでしょう。早い時計が出る馬場状態の方がよい成績を収める傾向にあり,馬場の状況も向いたものと思います。今後もトップクラスで活躍し続けるでしょう。父はキングカメハメハ,母の父はメジロマックイーン。祖母のいとこに1995年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬のサクラチトセオーと同年のエリザベス女王杯を勝ったサクラキャンドルの兄妹。
                         
 騎乗した内田博幸騎手は菊花賞に続く大レース制覇。JBCは全体でこれが初勝利。管理している矢作芳人調教師は今年のダービー以来の大レース制覇でJBCはこちらも全体で初勝利。

 厳密にいえば人間の精神が現実的に存在する自分の身体の十全な観念を有さないということだけで,第二部定理一二の新しい意味が成立していると結論することには,若干の不備が残っています。それは以下のような事情があるからです。
 第二部定義七から理解できるように,スピノザはいくつかの個物によって組織されているひとつの個物が存在するということを認めます。このことは個物が神の無限な観念があるといわれる限りである場合にも,現実的に存在すると説明される場合にも同じように妥当しなければなりません。したがって,ある現実的に存在する個物Aの一部分が,個物Xであるという場合があり得るということになります。
 そこで人間の身体がどのようになっているのかといえば,それは岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から明らかなように,きわめて多くの個物から組織されているひとつの個物なのです。したがって人間の身体が現実的に存在するのであれば,その身体を組織しているきわめて多くの個物が現実的に存在しているのだと理解されなければなりません。
 そこで現実的に存在する人間の身体のうちに何事かが生じる場合には,それはひとつの個物としての人間の身体がその原因の一部を構成することによって生じると考えることも可能ですが,むしろ先述の要請の観点からするならば,その人間の身体の一部を組織しているような個物が原因となるというように考える方が,ごく普通の理解になるように思えるのです。なお,この点に関してはまた後でまったく違った観点から再考することになります。
 現状の考察との関係では,このとき,一部というのは全体ではありませんからそれは人間の身体そのものであるとはいえません。しかしそれは人間の身体にとって外部の物体であるということもできません。よってもしも現実的に存在する自分の身体を組織する一部の個物,この場合にはそれは当然ながら物体であるということになりますが,そうした物体については十全な観念がその人間の精神のうちにあるということになるなら,それが十全な原因となって発生する現象については,人間はそれを十全に認識するということになります。
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水戸黄門賞&自分の身体

2012-11-12 18:30:32 | 競輪
 東日本大震災以降長らく開催不能状態にあった取手競輪場は今年の10月22日にようやく再開。2開催目が記念競輪となり,今日の決勝を迎えました。並びは平原-武田-長塚-芦沢の関東,川村-伊藤の近畿中部,菅原-小野-三宅の西国。
 前受けした菅原の外に川村,さらにその外に平原となったのが残り2周のホーム。そのまま平原が誘導を追い抜き先頭に。早めに引いた菅原が巻き返していくと平原も発進して先行争い。ホームの入口で小野は外に浮いてしまい,出口で菅原も一杯になり平原の突っ張り先行に。バックから川村が捲っていきましたが武田が先に番手発進。武田の後ろから長塚がよく迫りましたが,残して武田の優勝。長塚が2着,芦沢も3着に続いて地元勢が上位独占。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は8月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝。記念競輪はその直前の松戸記念以来でGⅢは節目の20勝目。地元となる当地の記念は2006年2008年に優勝していて3勝目になります。ここは平原が頑張ってくれました。むしろそのわりには長塚に差を詰められたという印象で,完全優勝ではありましたが絶好調といえるほどの状態ではなかったのかもしれません。

 これですでに第二部定理一二の新しい意味が『エチカ』の中で成立しているということが明らかになったと考えることができます。のみならず,人間の精神が現実的に存在する外部の物体すなわち神の延長の属性の個物に関しては,十全に認識することが不可能であるとするなら,むしろ現実的に存在する人間の精神による自分自身の身体の内部に起こることの認識は,必然的に混乱した認識であるということになるでしょう。すでに紹介したように,上野修の解釈の中にこのことが含まれているのかどうかは不明なのですが,この結論はむしろその解釈に近付いた結論であるということになります。そしてこの場合には,第二部定理一二に記述されている知覚というのを,文字通りに概念と知覚を分節した上での知覚であると判断することが可能であるということにもなります。
 ただ,現実に存在する身体の中に起こることの観念というのは,たとえそれが第二部定理九の仕方によって説明されなければならないのだとしても,その身体の外部にある現実的に存在する物体の観念とは異なるということもまた事実です。そこでさらに,この結論を強化する要素を『エチカ』のうちからあげておきます。
 第二部定理一九は,現実的に存在する人間の精神がいかなる条件のもとに自分の身体を現実的に存在するものとして認識するのかを示しています。そして第二部定理二七は,そうした仕方による自分の身体の認識が十全な認識ではないということを示しています。いい換えれば現実的に存在する人間は,自分の身体が現実的に存在するということに関しては,これを必然的に混乱して認識するということになります。すなわち現実的に存在する人間の精神を構成する観念のうちには,現実的に存在する自分の身体の十全な観念は存在しないということになるのです。
 ここで第二部定理四〇の4つの意味に注目すれば,人間の精神のうちにある現実的に存在する自分の身体の観念を原因として発生するいかなる観念も,混乱した観念であるということが帰結します。身体の中に起こることの原因の一部を身体が構成するという前提ですから,その観念もまた混乱した観念であるということになるでしょう。
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エリザベス女王即位60年記念エリザベス女王杯&外部の物体

2012-11-11 18:29:57 | 中央競馬
 秋の牝馬チャンピオン決定戦,第37回エリザベス女王杯
 先手を奪ったのはレジェンドブルー。マイネジャンヌが続きオールザットジャズが3番手。ヴィルシーナはその後ろの外で,内にはスマートシルエット。クリスマスキャロル,ホエールキャプチャ,マイネイサベルで,アカンサスとラシンティランテ。さらにマイネオーチャードとレインボーダリアといった隊列になりました。最初の1000mは62秒4で,これは悪化した馬場状態を考慮してもスローペース。
 レースを動かしたのは後方からの競馬になったエリンコートで,向正面から3コーナーにかけて外を進出。4コーナーでは逃げたレジェンドブルーとこの動きに対応したオールザットジャズの外の3番手に。ヴィルシーナはこれを先に行かせて外から手を動かしながら追っていきました。手応えはあまりよく見えませんでしたがそれでも力で先頭に。しかし力を温存していたレインボーダリアがさらに外を伸びるとこれを差し,クビ差で優勝。ヴィルシーナはこれで大レース4度めの2着。後方追走から直線入口では最後尾まで下がったピクシープリンセスが大外からアタマ差まで追い詰めての3着。
 優勝したレインボーダリアは今日が28戦目。7月に準オープンを勝ってオープン入りした馬ですが,それ以前から重賞や大レースにも挑戦はしていました。どんなレースに出走しても1秒以上は負けないというレースを続けていて,しかし条件戦でも勝ちあぐねる面もあり,要はレース相手のレベルに応じて力を出すというタイプの馬なのでしょう。こういったタイプがときに大仕事をするというのはあるケースで,今日のレースはその一例といえそう。陣営は良馬場を希望していたようですが,渋ったのはむしろプラスに作用したのではないかと思います。
 騎乗した柴田善臣騎手,管理している二ノ宮敬宇[よしたか]調教師のコンビは一昨年の宝塚記念以来の大レース制覇でエリザベス女王杯初勝利。

 現象自体を個物res singularisということには無理があるとしても,現実的に存在する人間の身体humanum corpusの中に起こることの観念ideaに関しては第二部定理九の仕方で説明されなければならないということは明らかになりました。現状はこの第二部定理九を,神Deusの無限知性intellectus infinitusを構成する十全な観念idea adaequataとして前提しています。しかし第二部定理一二の新しい意味が成立するのかどうかを問うときに必要なことは,そうした仕方で理解されるような現実的に存在する個物の観念ではあり得ません。これはこの新しい意味において問題となっていることが,現実的に存在する人間の精神mens humanaによる,自分の身体の中に起こることの認識cognitioであるということから明らかです。よって考えなければならないことは,現実的に存在する人間の精神が,現実的に存在する個物を認識するcognoscereということが,『エチカ』においてどのように説明されているのかということになります。
 まず,現実的に存在する外部の物体corpusについての認識についてこれをみておきましょう。第二部定理一七は,人間の精神が現実的に存在する外部の物体を表象するimaginariということを示しています。そして第二部定理二五は,こうした表象imaginatioによる現実的に存在する外部の物体の認識が,十全な観念ではないということを示しています。さらに続く第二部定理二六は,人間の精神はこの仕方によってのみ外部の物体を現実的に存在すると知覚するpercipereということを示しています。
 これらのことを総合するなら,現実的に存在する人間の精神は,現実的に存在する外部の物体に関しては,必然的にnecessarioそれを混乱して認識するということになります。いい換えれば人間の精神のうちには,現実的に存在する個物の十全な観念というものは存在しないということになるでしょう。これはちょうど現状の第二部定理九の理解の裏返しで,第二部定理九を神の無限知性のうちにあると考えるならそれはすべて十全な観念であり,よって原因causaの十全性という観点を導入することができるとしていたものが,第二部定理九の観念のすべてを十全な観念とみなすならば,それは神の無限知性を構成するものと考えなければならず,よって原因の十全性という観点は必然的に導入されなければならないと変容されたといえるでしょう。
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リコー杯女流王座戦&現象

2012-11-10 20:15:23 | 将棋
 加藤桃子女流王座にとっては地元となる静岡県藤枝市での対局となった第2期女流王座戦三番勝負第三局。
 本田小百合女流三段の先手で3手目に▲2五歩と決めた上での角換り。指し手を生かすという意味では棒銀でしょうが相腰掛銀となりました。先手から開戦し,後手も応戦する展開。
                         
 ▲7四歩を受けて一息入れたところ。ここから▲1五歩△同歩に▲1四歩と垂らし,△5五銀直に▲2六角と打っていったのですが,どうもこの順がぬるかったように思えます。後手は△4五銀と食いちぎり▲同歩に△4六歩のくさび。▲4八金に△6五歩と突き,▲4四銀△6六歩▲5五銀△6七歩成▲同銀と進展。
                         
 銀交換ですが,先手は駒を引いて後手の手番ですので,ここで先手ははっきりとやり損ねたように思えます。どうもこれが決定的な失着であったようで,以下は後手が攻めきって勝ちました。
 3連勝で加藤女流王座の防衛。本田三段の実力からして好勝負になると考えていましたので,内容はともかくストレートの決着は個人的には意外でした。

 次に,ある人間の身体の中に起こることですが,これはあるひとつの現象と考えるのが妥当で,これ自体をひとつの個物とみなすことはできないかもしれません。ただ,第一部公理三により,こうした現象が生じるために何らかの原因が必要であるということは明らかです。そして少なくともその原因の一部がその人間の身体によって構成されているということは,ここまでの考察からこれについて考える前提として外せません。
 まず第一に確認されるべき事柄は,人間の身体が物体であるということ,いい換えれば神の延長の属性の個物であるということです。この点に関してはここでは第二部定理一〇系に訴えておきましょう。よって,人間の身体の中に起こることの原因は,第一部定理二八の仕方で説明されなければならないということになります。
 ところで,第一部定理二八というのは,第二部定理九とは異なり,個物が現実的に存在するといわれる場合の原因と結果の無限連鎖だけを示しているとはいえません。これは各々の定理のスピノザの記述の仕方からそうだと判断しなければならないと思います。いい換えれば第一部定理二八というのは,第二部定理八でいわれている,個物ないし様態の本性が神の属性の中に含まれて存在すると説明されるような場合の個物の原因と結果の無限連鎖に関しても言及していると,とりあえずは判断しておかなければならないのです。
 ただし,現在の考察の対象となっているのは人間の身体の現実的存在です。よって身体の中に何かが起こるというときにも,それは現実的に存在するある人間の身体の中に何かが生じるというように解釈されなければなりません。したがってその身体の中に起こる何事かもまた,現実的に生じているような現象であると解釈されなければならないわけです。このことはそれ自体で明らかであるといっていいでしょう。よってその現象の観念の原因と結果の連結については,第二部定理九の仕方で発生するし,またこの定理のもとに理解しなければならないということになります。つまり現象は個物とはいえないとしても,第二部定理九の仕方で因果関係が説明されるということは間違いないといっていいと思います。
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竜王戦&現実的存在

2012-11-09 19:18:22 | 将棋
 鹿児島県霧島市で対局となった第25期竜王戦七番勝負第三局。
 丸山忠久九段の先手で角換り相腰掛銀。渡辺明竜王が歩得を果たすも駒の働きでやや劣るような中盤戦になりました。このために先手が一方的に攻め,後手はずっと受けに回るという将棋に。最後は入玉できるかどうかの争いとなりました。
                         
 4七に金を上がられるのを防いで歩を打ったところ。先手は金しかないので▲3八金。ここで△3六歩と打っていますが,これはかなり考えにくい手だったと思います。先手が▲1五飛成とすると△2七歩成の龍取り。▲3七金△同歩成は必然ですが,これだと△3六歩が生きた展開になったといえそう。先手は▲同香△同ととしてから▲2四歩の王手。これには△2五金が絶対手。▲3六歩△同王と進みました。
                         
 ここは▲4七角と打つ手があり,少なくともそちらの方が難しかったでしょう。実戦は▲1四角と上から打ったのですが,△2四歩▲同龍△3三桂で攻めが続かなくなり,もう少し指されましたが後手玉を捕えられなかった先手の投了となりました。
 渡辺竜王が3連勝で防衛にリーチ。第四局は20日と21日に滋賀県近江八幡市で。

 第二部定理一二で示されている人間の精神およびその精神を構成する観念の対象ideatumである人間の身体が,現実的に存在する精神でありまた身体であるということがまず最初に意味することは,その身体の観念すなわち精神を有する限りでの神といわれるとき,それが一般的な意味において人間の精神を構成する対象ideatumの観念を有する限りでの神という意味ではないということです。いい換えるなら,ここで神が有するとされている観念は,第二部定理八系の意味のうち,神の無限な観念がある限りにおいて存在するといわれているような観念ではなく,むしろ持続するといわれるような存在としての観念であるということです。
 したがって,第二部定理一二で示されているのは,たとえばある人間Aが現実的に,すなわちある持続のうちに存在すると仮定されるときの,そのAの精神を有する限りでの神というように理解されなければなりません。つまり,もしもそれが神の無限な観念があるといわれる限りで存在するような人間の本性の観念であったとするなら,それはあらゆる人間,たとえば人間Aにとっても人間Bにとっても同じように十全な観念であることになるのですが,この場合にはたとえば人間Aにとっては十全な観念であっても,人間Bにとっては十全でないような,人間の身体の観念であるというように考えなければならないことになります。
 また,それが現実的に存在する個物,この場合には思惟の属性として考えればある人間Aの精神であり,延長の属性として考えるならある人間Aの身体ですが,それが現実的に存在する個物であるという点に着目するならば,ここで示されている観念のうちにはそれが現実的に存在している限りで有しているような本性が含まれているのでなければなりません。つまりたとえば第三部定理七で示されているような事柄が,この十全な観念の一部を構成しているのでなければならないということになります。これはこの観念が神と関係づけられている以上,そうでなければ十全な観念であることはできなくなってしまいますから,第二部定理七系の意味に反することになってしまいます。
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大山名人杯倉敷藤花戦&相違

2012-11-08 19:18:48 | 将棋
 個人的に待望のタイトル戦初顔合わせが実現。第20期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が8勝,矢内理絵子女流四段が3勝。
 振駒で里見倉敷藤花の先手。三間飛車を目指しましたが後手がいきなり角交換し,乱戦に。その中で後手に新手が出て,これはなかなかの構想だったようなのですが,その後の手順でその新手を生かす順を選べず,どうも先手が有利となったようです。
                         
 序盤といっていいかどうか分かりませんが,早い段階で△7三銀と上がったのが後手の新手。そしてその銀がようやく6四に上がったところ。ただここでは▲4六歩と突かれ,△6五銀の進出には▲8八角。続いて△3八飛と打ったところで▲4五歩と外され,△1八飛成▲同馬に△4五銀と手を戻したところで▲8二飛で攻め合いにされ,先手の勝ち筋に入っているようです。
                         
 後手の新手は実らずに里見倉敷藤花が先勝。第二局は23日に倉敷市で。

 実際にその箇所を提示する前に,さらに以下のことを確認しておきます。
 第二部定理一二の意味から第二部定理一二の新しい意味へと僕は転向したのですが,これは単に第二部定理一二の意味をどのように解釈するのかということが変化したというだけのことではありません。むしろ第二部定理一二の『エチカ』の内部での位置付けに変化があったということなのです。それは次のふたつの点です。
 第一はいうまでもなく,第二部定理九に原因の十全性という観点が導入され,この定理でいわれている個物の観念が,神の無限知性を形作るということを前提とした上で,第二部定理一二が解釈し直されているという点にあります。
 第二は,第二部定理九が第二部定理八系の意味のうち,個物の観念が現実的に存在する場合を意味しているという点に関係します。したがって第二部定理一二は,人間の精神が現実的に存在するという場合に関して言及されていると解釈されることになります。僕は第二部定理九系についてはこの点についてすでに説明しましたが,第二部定理一二については詳しく触れてきませんでした。ただ,第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結するという点では,僕は以前も現在も同様の見解です。よって第二部定理九系が現実的に存在する個物の観念に関して言及されているならば,第二部定理一二もまたそれと同じように理解されなければならないということ自体は当然で,この点に関してはこれ以上の説明は不要でしょう。
 したがって,その意味の理解において転向があったのは事実ですが,他面からいうならば,実は同じように第二部定理一二に関して考察しているのだとしても,実際には以前と現在とでは異なった定理について考察しているとみることも可能ではあります。この相違が原因となって各々の意味の相違を発生させているということになるからです。
 ここでは第二の点の方を重点的に分析します。つまり,第二部定理一二でスピノザが人間の精神とかあるいはその人間の精神を構成する観念の対象ideatum,すなわちこれはその人間の身体のことですが,それが現実的に存在する場合についての言及であるという点をまずは重視してみます。
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デイリー盃ロジータ記念&転向

2012-11-07 20:46:54 | 地方競馬
 南関東の3歳牝馬にとっては秋の大目標となる第23回ロジータ記念
                         
 内枠勢の発走が悪かったように見えましたが,主張してコテキタイの逃げに。エミーズパラダイス,グレコ,ソウブチャンスの3頭が追っていきました。正面に入ると隊列が定まり,コテキタイの後ろにエミーズパラダイス,そしてグレコとレディーソルジャー。クリックとソウブチャンスがいて,グラッドクライ,ジュディソング。アスカリーブルがその後ろに。最初が早かった分だけのハイペースといえるでしょう。
 2周目の向正面からアスカリーブルが追い上げ,後方でマークしていたシラヤマヒメも続きました。コテキタイは3コーナーで一杯となり,エミーズパラダイスが先頭に立ち,アスカリーブルが2番手となって直線。アスカリーブルも苦しそうになりながらよく追い掛けましたが,並び掛けることはできず,1馬身差でエミーズパラダイスが優勝。アスカリーブルが2着。一旦はシラヤマヒメに先に行かれましたが直線でこれを外から抜き返したグラッドクライが1馬身半差で3着。
 優勝したエミーズパラダイスは2歳の昨年,北海道でフローラルカップを勝って南関東に転入。転入初戦の特別戦を勝った後は好走を続けながらも未勝利で,これが南関東重賞初制覇。東京に遠征したクイーンカップで5着,牡馬相手の春のクラシックも2着,3着と走っていて,牝馬同士であれば勝負になる筈で,2着馬を負かすとしたらこの馬だろうと思っていましたがその通りの結果に。2着馬を圧倒したとはいえませんが,遜色ない力を有していることを証明した形で,2頭とも今後は牝馬の重賞戦線で活躍してくれるものと思います。父はフサイチコンコルドで母の父はアグネスタキオン。叔父に2007年の北海道2歳優駿を勝ったディラクエ
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は8月のスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞制覇。第22回に続く連覇でロジータ記念2勝目。管理している船橋の川島正行調教師も連覇となる2勝目。

 まず最初にいっておかなければならないことは,実は第二部定理一二の新しい意味が成立するのではないかという問いは,僕が『エチカ』において第二部定理一二を最大の難題であると考えた疑問のひとつを構成しているということです。これは2度にわたる考察の中においても示してきたことですが,改めてその概要をここで明らかにしておきましょう。
 僕にとって当初の第二部定理一二の意味というのは,人間の精神は自分の身体の中に起こることを十全に認識するということでなければならなかったのです。いい換えればそれは,第二部定理一二の新しい意味の成立を許容しない立場でした。しかしたとえば第二部定理一七証明に示されていることは,人間が自分の身体の中に起こることを混乱して認識しているという意味を含んでいるとしか僕には考えられませんでした。そのゆえに,僕は第二部定理一二に示されている身体の中に起こることという点に着目し,それがスピノザにとって具体的には何を意味していたのかを探求しようとしたわけです。これに関しては今回の考察においても後に再び考えることになりますが,このブログを開設して最初にこの定理を考察したとき,僕のスタンスは一貫してそういうものだったわけです。
 したがって今,第二部定理一二の新しい意味が成立すると僕がいうとき,これは明らかに考え方を改めたということになります。いい換えるならばこの点において,一種の転向がなされているということになります。ただ,第二部定理一二の新しい意味が成立する要素が『エチカ』の中にはあるのではないかということは,当初から僕のうちにはあったということは紛れもない事実です。
 こういうわけですから,実は第二部定理一二の意味を第二部定理一二のうちに読解することが可能であるかという問いに対して,それを『エチカ』の別の個所に訴えて考えるということは,実は僕にとってはそうも難しいことではないのです。そしてスピノザによる記述そのものに関しては,これはすでに基本命題を用いて簡単に説明した第二部定理九系の消極的意味と同様に,どちらにも解釈自体は可能ですから,やはり方法としては,別の個所を参照するというのがベストであろうと思うのです。
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ブリーダーズカップターフ&本当の課題

2012-11-06 18:26:37 | 海外競馬
 日本時間で4日の朝にロサンゼルス郊外のサンタアニタパーク競馬場で行われたブリーダーズカップターフGⅠ芝11/4マイルには,アロヨセコマイルを一叩きされたトレイルブレイザーが出走しました。
 12頭立ての大外。前3頭が飛ばしていく展開となり,スムーズに離れた4番手。わりと早めに内に入れましたので,大外の不利は最小限のものにとどめることができました。さらに外を1頭が上がっていったので,5番手という位置取りに。一般にアメリカのレースがどういう傾向にあるか分かりませんが,日本のレースとの比較でいえばハイペースです。
 向正面の半ば辺りからはっきりと外に出し,3コーナーから外を追い上げ,直線に入るところでは4頭が雁行する先頭争いの大外。ここから2番手に上がって前を追いましたが,むしろ直線半ばでは力尽き,追ってきた2頭に交わされての4着でした。
 勝ちにいくという姿勢を見せて一杯になったのですから,力が足りなかったとみるのが妥当ではないかと思います。日本の芝コースはタイムが早く,ヨーロッパの馬との比較では勝ち時計が早くなるのは一般的には日本馬にとって好都合なのですが,ここは2分22秒83と異常なくらいに早い時計で,そこまでのタイムには対応できなかったという面もあったかもしれません。

 実は本当ならば先に解決しておかなければならない事柄を後回しにして考察を進めたのには,ひとつの理由があります。かいつまんでいえばそれは以下のようなものです。
 第二部定理一二第二部定理九系から直接的に帰結します。いい換えれば,第二部定理一二の新しい意味というのは,第二部定理九系の消極的意味から帰結するのです。したがって,第二部定理九系の記述から第二部定理九系の消極的意味を読解することが可能であるのかという問いは,第二部定理一二の記述内容から第二部定理一二の新しい意味を読解することが可能であるのかと問うていることと同じなのです。というか,僕にとっては同じことなのです。なぜなら,今回のテーマの設定の理由からも明らかにように,僕が『エチカ』の中で抱えている問題は,第二部定理一二なのであって,第二部定理九系ではないからです。なので,もしも第二部定理一二の記述から第二部定理一二の新しい意味を読解することが可能であるとなれば,それは直ちに第二部定理九系の記述から第二部定理九系の消極的意味を読解することが可能であるという結論になるのです。
 そしてこのことは,僕自身の問題意識のゆえに僕だけに妥当であるというだけでなく,たぶん『エチカ』の全体の連関の中でも妥当するのです。なぜなら『エチカ』全体における第二部定理九系の役割というのは,明らかに第二部定理一二の準備なのであって,『エチカ』のほかの箇所との関係の中でより大きな重要性を担っているのが第二部定理九系であるのか第二部定理一二であるのかというならば,間違いなくそれは第二部定理一二の方だからです。それはこれ以降の定理の証明において,スピノザが第二部定理九系に訴えるケースと第二部定理一二に訴えるケースとどちらが多いのかを調べてみれば一目瞭然であると思います。
 こうしたことから僕が考えるべき課題は,第二部定理一二の記述の中に,第二部定理一二の新しい意味を読み込む余地があるのかどうかということなのであって,それ以外ではあり得ません。このために先に第二部定理九系の消極的意味から第二部定理一二の新しい意味を導出することを先行させたのです。
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農林水産大臣賞典JBCクラシック&重なる部分

2012-11-05 20:34:03 | 地方競馬
 6年ぶり2度目の川崎競馬場での開催となったJBC。メーンは午後8時発走の第12回JBCクラシック。今年は2100m。
                         
 マグニフィカの逃げは考えられた展開のひとつ。トランセンドが外に続き,最初はテスタマッタが3番手でしたが,入れ替わってワンダーアキュートが3番手,テスタマッタが4番手に。かなり速いペースだったと思います。
 向正面でソリタリーキングとタマモスクワートが上がっていき,さらに後ろにいたシビルウォーもこれを追い掛けていき,早くもレースが動きました。マグニフィカは一杯で,トランセンドが先頭に立ち,その外にソリタリーキング,さらに外にシビルウォーという隊列となって直線。この3頭の追い比べからはシビルウォーが抜け出しましたが,一旦は控えて大外に出されたワンダーアキュートが弾けるように伸びると楽々と交わし,5馬身の差をつける快勝。シビルウォーが2着で粘ったトランセンドが3馬身差で3着。
 優勝したワンダーアキュートは昨年5月の東海ステークス以来の勝利で重賞は4勝目。大レースは初制覇。この春はやや本調子を欠いていた面もあって,不本意な成績ではなかったかと思うのですが,元来は大レースでも好走を続けていた馬ですので,この勝利もおかしなものではありません。後ろを離しての快勝はおそらく体調が元に戻ったということの証に思え,以前のように大きく崩れることなしに走っていくことになるものと思います。半兄に2008年のアンタレスステークスと名古屋グランプリ,2009年の平安ステークスと東海ステークス,2010年にも名古屋グランプリを勝っているワンダースピード。Acuteは英語で鋭い。
 騎乗した和田竜二騎手は2001年の春の天皇賞をテイエムオペラオーで勝って以来の大レース制覇。JBCは初制覇。管理している佐藤正雄調教師はこれが大レース初制覇。

 この第二部定理一二の新しい意味が,今回の考察の中で紹介した上野修によるこの定理の解釈と重なる部分があるということは,お気付きの方も多いだろうと思います。
                         
 僕は今の時点では,重なる部分があるとだけいい,完全に重なっているとはいいません。これについてはまた後で考察することになります。ただ,現時点ではなぜ完全に重なるといいきらないのかといえば,僕には少なくとも第二部定理一二のスピノザによる記述の中に,ある人間の精神が自分の身体の中に起こることの観念に対して,十全な原因となる場合に関して,これを完全に排除するような要素が含まれているとは考えられないからです。あるいは同じことですが,ある人間の身体が十全な原因となって,その人間の身体の中に何事かが生じるという可能性を,完全には否定できないと考えるからです。
 上野の論述は,以上の点に関しては触れていませんから,上野自身がそうした可能性を完全に排除しているのかどうかまでは分かりません。ただ,上野がこの定理の認識を,単にある人間の精神という観点からみるならば,そこには混乱した認識も含まれていると考えていることは疑い得ず,その意味において僕は重なる部分は少なくともあるといっておきます。
 考察の中でも示したように,上野はそこではそう考える論拠というのを示していません。なので僕はおそらく上野が重視するであろう『エチカ』の内部における定理の配置という要素から考察し,そこにも一理あると結論付けていました。それが今や単に配置の意図という観点にとどまらず,ある論理性という観点からも,上野の結論には理があるということが明らかとなったわけです。
 ところで,第二部定理九系の消極的意味というのを,第二部定理九系の記述そのものの中から解釈することが可能であるかどうかという問題について,僕は何の結論も出さないまま第二部定理一二の新しい意味を抽出するところまで進めました。実際にはその妥当性が確保されていないならば,第二部定理一二の新しい意味というのも成立しないのです。ですからこれについては,それが可能であるという根拠を出しておかなければなりません。
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水都大垣杯&第二部定理一二の新しい意味

2012-11-04 18:33:01 | 競輪
 2週連続で中部地区での記念競輪開催となり,今日は大垣記念の決勝。並びは上原ー神山-朝倉の関東,深谷-志智の中部に藤田,稲垣に佐藤で荒井が単騎。
 スタートは朝倉が取って上原の前受け。4番手に深谷,7番手に稲垣,最後尾に荒井で周回。残り3周のバックから早くも稲垣が上昇。しかし上原が引かず,ホームからバックにかけてずっと併走状態。バックに入ってようやく上原が引き,稲垣が単独で先頭に立ったところで深谷が発進。そのままスピードを緩めず打鐘からのかまし先行に。4番手は稲垣でしたが車間が大きく開いてしまいバックになっても詰まらず。こうなっては前3人の争い。番手から志智が抜け出して優勝。2着はきわどくなりましたが逃げた深谷で藤田が3着。
 優勝した岐阜の志智俊夫選手は2007年の岸和田記念以来となる記念競輪2勝目。すでに40歳の中堅からベテランの域に入っている選手で,正直なところ最も強かった頃の力はすでにないと思います。自分のことだけ考えれば深谷は抑え先行の方がよかったと思いますが,地元である志智の優勝でも構わないという姿勢からかましたものでしょう。上原の作戦がどういったものだったのか不可解ですが,展開にも非常に恵まれました。

 ここまでの諸条件をすべて満たすような形で,今度は第二部定理一二の意味を考えてみます。
 ある人間の身体の中に生じることの観念は,その人間の精神の本性を構成する神と関連付けられるならば,それは必然的に神のうちにあります。よって第二部定理一一系の意味からして,人間は自分の身体の中に起こることを必然的に認識するということになります。
 しかしこの場合には,この人間の精神による自分の身体の中に起こることの認識は,必ず十全な認識であるとはいえません。なぜなら神はこの人間の精神と関連付けられているならば必然的にその身体の中に起こることを認識するとはいえ,その関連のされ方にはいくつかのパターンが考えられるからです。
 もしもある人間の精神の本性を構成するだけでの神のうちにその人間の身体の中に起こることの観念があるなら,その場合にはこの人間は自分の身体の中に起こることというのを十全に認識するということになります。しかしもしもある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念も有している神のうちにその身体の中に起こることの観念があると説明されなければならない場合には,むしろこの人間は自分の身体の中に起こることを混乱して認識する,すなわちこれを概念と知覚とを厳密に峻別した場合の意味において,知覚するということになるでしょう。
 これはちょうど,第二部定理九系の意味第二部定理九系の消極的意味に変容したのと同じだけの意味の変容が第二部定理一二にももたらされるということを意味します。ここでは第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結すると考えていますし,また第二部定理一二は第二部定理九系が一般的な意味において示している事柄を,ある具体的なものに適用しているという結論から考察していますので,このこと自体は至極当たり前のことであるといえるとは思います。
 現時点では僕は,第二部定理一二というのは,この新しい意味において理解されるべきなのだろうし,またこの路線で理解するほかはないと考えています。これでこの定理の問題がすべて解決されるわけではありませんが,僕にとってその重みは幾分か軽くなっています。
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リコー杯女流王座戦&第二部定理一二への応用

2012-11-03 20:28:13 | 将棋
 信濃町の明治記念館での対局となった第2期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流王座の先手で本田小百合女流三段の一手損角換り1-Ⅰに。相腰掛銀となり,後手から仕掛けたもののその直後に後手が最善の手段を逸したようで先手がリード。後手も大きくは離されないようについていきましたが,先手がリードしたままで最終盤に突入しました。
                         
 この局面は先手玉が詰まないので,▲3ニ飛と打てばそのまま決まっていたようです。しかし▲2二銀と王手にいきました。△同玉にさらに▲3三金と打ち,△同桂と捨ててから▲3二飛。△1三玉に▲3三とと詰めろを掛けました。
                         
 ここは△9七角と打ち,▲同香は詰みなので▲8八桂と打たせ,それから△2一金と受ければ先手の駒台から桂馬が消えて後手の勝ちだったようです。しかし単に△2一金と受けたため,即詰みが残っていて先手の勝ちとなりました。せっかく離されずに追ってきて,逆転まで持ち込んだだけに,本田三段としては残念な一局でしょう。
 加藤女流王座が連勝で防衛に王手。第三局は10日です。

 第二部定理九系の消極的意味が成立していると仮定して,今度はこれを第二部定理一二に応用します。
 第二部定理九系で対象ideatumの観念といわれているもの,いい換えれば原因に相当するものは第二部定理一二ではある人間の精神です。一方,結果に相当するもの,すなわち第二部定理九系で対象ideatumの中に起こることの観念といわれているものは,第二部定理一二においてはその精神の現実的有を構成する対象ideatumの中に起こることの観念です。この点に関しては今回も特段の説明は加えません。なお,このいい方は煩雑ですので,第二部定理一三を援用して,対象ideatumのことを身体ということにします。
 第二部定理九系の消極的意味は,第二部定理九の無限連鎖を前提とした上で帰結したものです。したがってこの前提が第二部定理一二にも成立するのでなければなりません。すなわちこの定理でいわれている人間の精神,いい換えれば人間の身体の観念というのは,現実的に存在する個物の観念の無限連鎖を前提とした上で,神のうちにあるある人間の身体の観念という意味になり,その人間の身体の観念,すなわちその人間の精神に変状しただけの神という意味ではなくなります。いい換えれば,この定理に導入される原因の十全性の意味というのは,無限連鎖を前提とした上で神のうちにある観念に関して導入されているのであって,ある人間の精神とかある人間の身体そのものに導入されるわけではないということになります。
 ただし,このことのうちには,人間の精神ならびに身体の原因の十全性という観点を,完全に排除してしまうということが含まれているというわけではありません。むしろ,単に人間の精神および身体をそれ自体でみるならば,それが十全な原因であるという場合もあるけれども,部分的原因となっている場合も含まれるということを意味します。つまり,ある人間の身体の観念を有しているだけの神という意味と,ある人間の身体の観念を有するとともに,ほかのものの観念を有するような神というふたつの意味が含まれているということです。精神や身体は,前者であれば十全な原因で,後者の場合には部分的原因であるということは説明不要でしょう。
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新人王戦&基本命題

2012-11-02 18:17:02 | 将棋
 10月31日に指された第43回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で先手は藤森哲也四段。永瀬拓矢五段の角道オープン四間飛車となり先手から角交換しての相穴熊戦に。後手が先に意表の生角を打ったのに対し,先手は歩損の代償に馬を作って後手の玉頭方面から先攻する展開となりました。
                         
 2六にいた飛車が回って戦力を集中させたところ。ここで後手は☖8四金と力強く受けたのですが,結果的にいえばこの手が勝因となったように思います。先手は☗9五歩☖同歩と突き捨ててから☗7四銀と進出。後手は☖7五歩でこれは用意の受け。こうなっては☗同馬☖同金☗同飛までは仕方がないと思えますが☖7三歩。そこで☗9三歩と打つのが勝負手だったそうですが逃して☗6三銀成。これには☖4五角が絶好で☗5四歩☖同角☗6四成銀に☖2七角成。
                         
 あまり働いていなかったような角が馬に出世して,ここは後手がよさそうです。後手はこの後,もう1枚馬を作り,2枚の馬を自陣に引きつけて盤石の布陣。先手の猛攻を凌いだところで反撃に転じ,勝利を収めました。
 2勝1敗で永瀬五段が優勝。28日の加古川青流戦に続いて2度めの棋戦優勝。今年度の新人賞は当確でしょうか。
 藤森四段は先手を得た二局とも☗2六歩☖3四歩に☗2五歩でした。理由がない指し方ではありませんが,個人的にはこの手順を連発したことを残念に感じています。

 最後に,たぶんこれが最も重要な点になるかと思いますが,そもそもスピノザによる第二部定理九系の記述の内容から,第二部定理九系の消極的意味というのを読解することが可能であるのかということです。これについてはまずは一般論から考えます。
 もしもAの観念ideaを有する限りで神DeusのうちにXの観念があるという基本命題がスピノザから与えられているとしたら,まず第一にこのAの観念とXの観念は共に十全な観念idea adaequataであるということが前提されているということになります。これは第二部定理七系の意味からそうでなければなりません。このいわば大前提に関しては,第二部定理九系の消極的意味は明らかに従っています。
 つまり最大の問題は,上述の基本命題のうちに,Aの観念を有するだけで神のうちにXの観念があるというように解するべきなのか,それともAの観念を有しているなら神のうちにXの観念もあるというように解するべきなのかという点にあります。もしも前者であるなら,第二部定理九の消極的意味が成立し得ないことは明白であると思います。そもそも僕はこうした意味においてこの基本命題を理解したからこそ,第二部定理九系,ひいては第二部定理一二をもこの路線で読解し,そのゆえに第二部定理一二が『エチカ』における最大の難題として生じたのです。
 しかし,この基本命題をむしろ後者の意味で読解するということは,可能であるのか不可能であるのかといえば,必ずしも不可能であるとはいえないようにも思うようになりました。というのも,~の限りでの神とスピノザがいうとき,それは基本的にはその~に変状した神という意味であって,そう理解するならば後者の意味は考えられないことになるのですが,ごく一般的な言語の記述という観点からみてみるならば,~の限りで,という記述が~だけで,というように理解されなければならないということはなく,~であればというように理解されるような余地が明らかにあるように思われるからです。
 とくにこれを第二部定理九系に持ち込む場合,後者の意味が成立すると考えられる根拠がほかにもあるのです。しかしこの根拠を示すためには,考察をさらに進めていかなければなりません。
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竜王戦&対象の原因の十全性

2012-11-01 18:32:04 | 将棋
 金沢市で指された第25期竜王戦七番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。先手が9筋の位を取った関係から,後手が先攻する将棋になりました。
                         
 2六に浮いた飛車で6筋の突き捨てを払った局面。後手は△2七角と打ち込みました。先手は逃げずに▲7六飛。これだと△4九角成とするほかありません。先手は▲7四歩と突き出しましたが,これが厳しくてどうやら先手が優位に立っているようです。桂馬を逃げておく手はあったでしょうが△6五金。よって▲7三歩成△7六金▲8二とと飛車の取り合いに。▲6五角の王手金取りを防いで△2六飛と打ったのですが先手は▲7一飛。
                         
 再び▲6五角が発生していて,打ち合った飛車の働きにもはっきりと差があるように思えますから,ここは先手がかなりよさそう。この後,真直ぐに攻め合うような展開となり,10手ほどで先手の勝ちになりました。
 渡辺竜王が連勝。第三局は来週で8日と9日です。

 もうひとつは,この系に導入されている限りでの原因の十全性ということの意味に関係します。
 どんな観念も,それが神のうちにある限りでは十全であるというのは第二部定理七系の意味そのものです。なので,たとえ無限知性という観点を前提としたところで,対象ideatumの観念もその対象ideatumの中に起こることの観念も,それだけでみれば原因の十全性は確保されているといえます。これは原因の十全性と観念の十全性との間には,欠くことができない関係性があるということから明らかであるといえるでしょう。
 しかしここに平行論的観点を導入し,形相的にみられる限りでの対象ideatumとその対象ideatumの中に起こることとの関係だけで考えるならば,この場合には原因の十全性が導入されているとはいえないということになります。むしろ第二部定理九系の消極的意味というのは,その対象ideatumに関してはこの観点が導入されていないからこそ成立するという側面があるのです。もちろんそれは,その対象ideatumがその中に起こることに対して,十全な原因であるということを全面的に否定するものではありません。しかし部分的には否定するものであり,そのゆえに,対象ideatumがその中に起こることに対して部分的原因であるという場合にも成立するということになっているからです。
 また,この第二部定理九系の消極的意味が成立するということ自体は,それこそその対象ideatumの中に何事かが起こるという言明自体の中に,その対象ideatumの実在が前提されているということからも明らかであるといえます。すなわちあるものが存在しなければそのものの中には何事であれ生じようがありません。もちろんあるものがあれば,そのものの中には必然的に何事かが生じるということにはならないかもしれませんが,現在の考察との関連では,このことの証明は不要でしょう。重要なのは,あるものの中に何かが生じることの観念があるためには,そのあるものの観念があるのでなければならないということです。そしてこのことは,たとえば人間の精神のうちにある混乱した観念の場合にも同様でなければなりませんから,それ以上の説明は不要でしょう。
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