スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
Kとの同居を開始する以前から,お嬢さんと結婚することを望まれているという先生の認識があったということに関しては,石原千秋が『『こころ』大人になれなかった先生』の中で,僕が根拠としたのとは別のテクストから説明しています。つまり石原も,お嬢さんとの結婚に関して,僕と同じように読解していることになります。

下一七で,先生と奥さん,お嬢さんの3人で,日本橋へ買い物に行くプロットがあります。級友のひとりに目撃され,お嬢さんの美貌に関してからかわれることになるプロットです。先生はこのときに着物を買い,お嬢さんに反物を買ってやりました。
下一八では,先生はこのからかわれた話を家に帰ってから奥さんとお嬢さんにします。その話から,先生は意図的にお嬢さんの結婚の話へと進めます。先生はお嬢さんとの結婚と自身が受けた長男の悲劇を絡めて考えていたように,これが奥さんの策略ではないかと疑っていたのですが,その真意を探るべく,ここでは先生が計略を用いたことになっています。
この話の間にお嬢さんが席を外します。テクストでは,先生が気付かないうちにお嬢さんはその場を離れ,先生が自分の部屋に戻ろうと立ち上がったときに,お嬢さんが部屋の隅にいることに気が付いたというようになっています。
部屋の隅には戸棚があって,お嬢さんはその戸棚を30㎝ほど開けていました。そのときに先生は,その戸棚の隅に,先生の着物とお嬢さんの反物が重ねてあるのを見ました。
石原によればこれは,その直前まで話題になっていた結婚問題に関するお嬢さんの答えだそうです。僕はそれがお嬢さんの答えであるかどうかは何ともいえないと思います。しかし先生がそれを発見し,こうしてわざわざテクストとして残したのは,少なくとも先生がお嬢さんの答えを感じ取ったというように理解することは可能だし,むしろ積極的にそのように読解するべきであろうと考えます。つまりこの部分のテクストからも,自分がこの家の主人となることを望まれているという認識があったと読解することができると思います。
2009年の11月28日に,ゼミの同級生のひとりが結婚し,その二次会がみなとみらいで開かれたとき,僕も参加しました。このときに教授をはじめ,何人かの同級生も集まりました。年賀状などのやり取りはありますが,僕が教授や同級生と顔を合わせたのはこのとき以来ありませんでした。つまり5年強は会っていなかったのです。久しぶりに会うことができるということも,僕の楽しみのひとつでした。
日曜日の午後2時からでしたから,午前中は時間に余裕があります。なのでウォーキングがてらWINS横浜にはいつものように行きました。中途半端な時間とはいえ,イタリアンレストランでの開催ですから,当然ながら何らかの食事は出るでしょう。ですから昼食は摂らずに,正午前に家を出たのですが,これは早すぎたようです。1時過ぎには渋谷に着いてしまい,本屋などでだいぶ時間を潰しました。
実をいうと僕は渋谷に行くということ自体が久々でした。現在の生活ですと,横浜市と川崎市以外はほとんど行くことがないのです。東京都に入るということはそれでも神奈川県内のこれ以外の市に行くよりはずっと多かったですが,母が退院して以降は蒲田の周辺か羽田の近辺のどちらかにほぼ限られていました。それ以前,これは僕が社会的にドロップアウトする以前という意味ですが,その頃も渋谷に行くということはほとんどなかった筈で,たぶん20年くらいは行っていなかったのではないかと思うのです。このためにどれほどの時間を要するかがよく思い出せず,あまりに早く着いてしまったのです。
僕の同級生で参加したのは僕を含めて7人。このうち僕を含めた4人は5年強前に会っていますが,残りの3人はもっと久々の再会でした。また,僕のひとつ上の世代で,在学中に1年間のカナダ留学があったため,卒業は僕たちと同じ年になった方がひとりいて,この方も参加していました。卒業後,電車の中でたまたま会ったことがありましたが,この方とは20年くらいは会っていなかったと思います。同級生の中でひとりだけ,ぱっと見た瞬間にはだれだか分からない方がいました。この方とは卒業した後も何度かは会っているのですが,だいぶふっくらとしていて驚きました。
汎神論論争の説明の最後の部分で,僕はメンデルスゾーンがスピノザ主義を支持する立場を選択したといいました。これには異論も予想されます。僕の見解を詳しく説明しておきましょう。
レッシング自身がスピノザを死んだ犬と評していたように,この時代にあっても,スピノザ主義を標榜することには,無神論との関係で危険が伴っていました。カトリックの勢力が強かったフランスに対し,ドイツはプロテスタントが優勢で,プロテスタントの左派の教義は,スピノザ主義とも相容れる要素を有していると僕は考えますが,そのドイツでも,基本的にはこうした状況であったわけです。
ですからメンデルスゾーンも,当初はレッシングがスピノザ主義者であるというのは誤解であるということを主張しようとしたということについては,僕は認めます。しかし汎神論論争の主導権は常にヤコービの側にありました。これはおそらくヤコービが反スピノザの立場でありながら,哲学に関してはスピノザのよき理解者であったからだと思われます。実際にヤコービは,神学と無関係の部分でスピノザの哲学がほかの哲学と相対する場合には,スピノザの哲学の方を擁護する傾向がありました。要するにヤコービはメンデルスゾーンよりずっとスピノザの哲学に精通していたので,論争の主導権を握ることなどは容易かったのだと思います。そこでヤコービは論争を巧みに進め,メンデルスゾーンは,レッシングがスピノザ主義者ではなかったと主張することを許さず,スピノザ主義を擁護する立場に回したのです。
したがって,メンデルスゾーンがスピノザ主義を擁護する立場に立ったというのは,結果的にそうなったという意味です。メンデルスゾーンが意図的にそういう立場を選択したというようには僕も考えてはいません。
汎神論論争がこのような仕方で進行したのは,スピノザの哲学にとってはむしろ幸いしたと思われます。実際には論争ではなく,ヤコービがメンデルスゾーンとレッシングを仮想の敵と仕立て上げた,ヤコービ自身の内なる対話であったかもしれませんが,その内なる対話に外部から意見が飛び交うことにより,スピノザ主義にも受容の余地があるのではないかということが明らかになったと思われるからです。
芸術祭の日は,母が妹を施設まで送った後でI歯科へ。ちょうど1週間前に抜いた刺し歯を新品に交換しました。当初は母も違和感を訴えることがありましたが,現在はそれもなくなっています。僕がブリッジを入れたときもそうでしたが,こういうのは慣れの影響が大きいのでしょう。僕はこの日も川崎で,午後4時半頃に帰宅。これも早い方です。
3月8日,日曜日。僕が大学時代にお世話になったゼミの教授が,定年のためこの3月で退官することになり,その懇親会というのが渋谷のイタリアンレストランでありました。時刻は14時からで,概ね1時間から1時間半。中途半端な時間だと思われるかもしれませんが,これには事情があります。
教授が僕の大学で教鞭をとるようになったのは,僕が入学する少し前からでした。ほかの大学から転任してきたものです。教授は赴任してすぐにゼミの授業を開始しましたから,僕よりも上の世代というか学年もあり,僕たちは5期生に該当します。僕が卒業した後も,ずっと同じ大学でゼミを続けました。僕が卒業してもう20年以上が経過していますから,後輩の世代は25代くらいはあることになります。それらすべてが一堂に会することになると,大変な人数になってしまいます。よって3世代ずつを集めて,時間ごとに配分しました。それで僕たちはこの時間になったものです。おそらく正午に開始されて,僕たちは2回目であったのでしょう。この日だけで終らせたのか,それともまだ別に日があったかは分からないのですが,最後は夜8時とか10時とかになった筈だと思います。教授の意向で,教授がゼミ生を招待するという形式になったため,会費は1000円でした。
懇親会の報知はだいぶ前に届いていました。母の発熱があった頃,1月14日に鶴見市場から帰ったときに,ゼミの同級生から手紙で届いていたものです。僕はメールも使っていますが,頻繁にやり取りをしているわけではありません。アドレスを変えていますから,メールでは届かなかったものでしょう。相手のメールアドレスもその手紙に書いてありましたので,返事はメールで送ってありました。もうそのときから楽しみにしていたのです。
昨晩の第7回川崎マイラーズ。

大外から被せるようにピエールタイガーの逃げ。ソルテが2番手でトーセンアドミラルが3番手。この後ろは少し離れてサーモピレーとジョーラプターが並んでいましたが,向正面ではこの2頭の間にファイヤープリンスが突っ込み,外にもミラーコロが追い上げて4頭の一団に。前半の800mは50秒1で,ミドルペースに近いハイペース。
3コーナーを回るとソルテがピエールタイガーに並び掛けていき,コーナーの途中では先頭に。少し早いのではないかと案じましたが,余裕はあったよう。急カーブで落ちていたラップを最後の直線ではむしろ上げ,後続に5馬身もの差をつけて圧勝。一杯になったピエールタイガーと、ソルテをマークして外を追い上げたトーセンアドミラルの間に進路を取ったファイヤープリンスが2着。ソルテを負かしにいったトーセンアドミラルは苦しくなったもののクビ差で3着は確保。
優勝したソルテは前走の隅田川オープンから連勝。南関東重賞は2013年のニューイヤーカップ以来,およそ2年4ヶ月ぶりの3勝目。その後,オープン特別では4勝していたものの,南関東重賞では2着が5回。現状の南関東は,A2以下のレースとオープンではレベルに差があり,オープンと南関東重賞ではそれほどの差がないので,勝てなかった方が不思議でした。ここはその不可解さを払拭する圧勝。この距離がベストで,重賞で通用するとは思えないですが,南関東重賞では今後も常に優勝候補の1頭。1400mに短縮するよりは,1800mに延長する方が,レースはしやすい馬だろうと思います。父はタイムパラドックス。祖母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ。Sorteはイタリア語で運命。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は先月のしらさぎ賞に続いての南関東重賞制覇。川崎マイラーズは初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師も川崎マイラーズ初勝利。
前回,もらうべきであった自己管理ノートをもらい忘れていたので,この日に受け取りました。1月1日からこの日までの記録はメモしてありましたから,現在はすべてノートの方に書写してあります。帰途に薬局へ。この日は処方箋に記載されたすべてを受け取ることができました。家に着いたのは午後5時10分頃のことでした。
2月25日,水曜日。母がI歯科へ。前回の定期検診のときに指摘された,上の前歯の刺し歯の点検です。どうやら劣化しているということで,新しいものと交換することになりました。予約時間が午前11時になっていましたから,さほど時間を要する作業と想定されてはいなかったものと思われますが,この刺し歯を抜くのに非常に時間が掛かったようで,およそ1時間半ほどの治療になったようです。むろんこの日に新品と交換することはできません。しかし抜いたところを放置しておくわけにはいきませんから,この日は仮の歯を入れて帰りました。僕はこの日は鶴見でしたが,午後4時5分頃には帰っています。
2月27日,金曜日。妹の施設で芸術祭というのが催されました。妹はダンスを踊ったようです。これはリズムダンスとは異なっていたようですが,踊りだけを抽出したなら,大して変わるところもなかったのではないかと思います。何組かのグループがそれぞれのダンスを披露したようで,花笠音頭とかスンドコ節などもあったとのこと。妹のグループは恋するフォーチュンクッキーで,これは妹の選択であったそうです。これらの話はすべて母から聞いたもの。この芸術祭は保護者の見学があり,その後で母は保護者のみの食事会にも参加しました。つまり芸術祭というのは午前中で終了したのだろうと思われます。僕もこの日は本牧。僕が帰ったのは午後4時45分頃ですから,母や妹よりも遅くなりました。
2月28日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後2時半からでした。
3月4日,水曜日。妹の施設で春の食事会なる行事がありました。午前中は横浜都市発展記念館を見学し,その後,メルパルク横浜で昼食という日程。どんな内容であったかは定かではありません。
旭川で指された第26期女流王位戦五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手で相三間飛車。甲斐智美女流王位が先手に追随して相金無双。後手から角を交換し,その角を先着。さらにその角を切って攻めたのですが,その後でかなり渋い展開になりましたから,この攻めはやり過ぎだったのだろうと思われます。以降は後手も我慢強く指したので,決定的な差はなかなかつきませんでしたが,後手の方が少しずつ苦しい展開だったのではないでしょうか。

7八の角が成った局面。銀取りですからここから▲7三歩成△同銀▲7四銀打までは変化の余地がないのかもしれません。
何か受ける必要がある後手は△7四同銀▲同銀△6三銀と進めました。先手は▲8三銀打△6二王と銀にヒモをつけておいて▲8九飛。△7八馬と逃げるのは仕方がないでしょうが▲8四飛と飛車が世に出ました。

第2図から後手が攻めるなら実戦の△6八歩成ですが,この手が二手スキでもありません。よって第2図は先手が勝ちの局面のようです。
第一局に続き,終盤で自陣の飛車をうまく使った里見名人が連勝。第三局は27日です。
予約時間の前には病院に戻り,10分前の午後2時50分には内分泌科の受付へ。しかしこの日は長く待たされまして,診察が開始されたのは午後3時50分頃になりました。ホールの工事の影響で人口密度が高くなっていると感じられたわけではなく,あるいは実際に患者の数も普段より多かったのかもしれません。診察室は4番で,最近はこちらの部屋に固定化されています。
このように待ち時間が長くなると,診察が開始される前に血糖値の計測機とサマリーが看護師から先に渡されます。前回は計測器を持っていくのを忘れてしまったため,概ね4ヶ月分の記録が出ていました。この間の血糖値の中央値は120.0となっていましたから,まあまあ良好に統御できていたことになるでしょう。しかし検査詳細情報はなぜかもらうことができなかったので,詳しい結果は分かりません。
HbA1cに関してはK先生から口頭で伝えられ,6.9%でした。この冬は,ここ数年と比べると,明らかに血糖値がコントロールできていましたから、厳寒期にしてもそこまで高くはならないのではないかと予想はしていましたが,6%台を確保できたのは驚きでした。昨年の2月は7.8%もありましたし,一昨年も同様でしたから,この冬はいつになく血糖値の高騰を防ぐことができていたことになります。今年の冬は昨年と比べればそこまで寒くはなかったと感じられましたが,このような結果が得られた原因のひとつを,あるいは構成していたかもしれません。
K先生は,その他ふたつの点をあげて,Ⅰ型糖尿病の中では僕はそんなに心配を要する状態ではないと説明しました。その指標のひとつはコレステロールの値が良好であるということで,もうひとつが尿蛋白が出ていないということでした。このうちコレステロールに関しては,とくにLDLコレステロールは下限値を下回るケースが出るくらいですから,おそらく体質的なものが関係していると思われ,今後もそう高くなることはないだろうと推測できます。一方,尿蛋白も過去に検出されたことはありませんが,糖尿病患者のどれくらいの割合で出るのかも分からないので,何ともいえません。
一昨日のNHKマイルカップを制したクラリティスカイ。母系を辿ると三代母に1988年にアメリカで産まれたパテントリークリアという馬がいます。1962年にアメリカで産まれたTamerettを基点とするこの牝系は,日本でも大成功を収めています。インヴァイトとウインドインハーヘアと同じでファミリーナンバーは2-f。

アメリカの大樹ファームで繁殖入り。したがって産駒はアメリカ産ですが,すべて日本でレースをしています。最初の産駒がタイキフォーチュンで,1996年に毎日杯を勝った後,第1回NHKマイルカップを制しています。南関東競馬でお馴染みの高橋華代子さんはこの馬を契機に競馬の世界に魅力を感じるようになったとおっしゃっていて,素晴らしい人材を競馬界に招いてくれた馬だといえるでしょう。
タイキフォーチュンの3つ下の半妹が1999年のクリスタルカップを勝ったタイキダイヤ。彼女がクラリティスカイの祖母になります。
さらに3つ下の半弟にはタイキリオンがいて,この馬は2002年にニュージーランドトロフィーを勝っています。産駒の3頭が重賞を制覇したのですから,パテントリークリアは名繁殖牝馬といっていいでしょう。その後,輸入され,2002年からは日本で繁殖生活を送りました。片仮名馬名になっているのはこのためです。
パテントリークリアの従妹にはサクラセクレテームがいます。この馬は日本で繁殖生活を送り,2009年に中京記念と函館記念を勝ったサクラオリオンを産んでいます。
別の血筋の従弟には競走馬として輸入されたエーピージェットもいます。1992年の京成杯を勝っています。
以前ほど活躍馬が出なくなっていた系統ですが,まだ活力は衰えていないということでしょう。
2月18日,水曜日。母がI歯科へ。定期検診です。母の上の前歯は刺し歯になっているのですが,この歯は詳しい点検が必要ではないかということで,そのために後日また通院することになりました。僕はこの日も川崎で,帰ったのは午後4時20分頃。川崎に行く場合は,帰宅時間がまちまちになりますが,これはかなり早い方です。
2月21日,土曜日。ガイドヘルパーを利用。この日はカラオケ。2月は1度だけの利用でした。
2月23日,月曜日。内分泌科の通院。この日は早くから屏風浦に行き,帰宅してからの通院でした。病院に着いたのは午後12時35分頃のことです。
病院に入ると,受付は左側にあるのですが,正面はロビーというかホールになっています。たとえば清算のために待たねばならないときには,そこに設置されているソファーに座ることになります。また,指導室の方向へ続く側,建物に入ってすぐ左側ですが,ここもロビーになっていて,こちらはテーブルも備え付けられていますので,昼食を摂ったりすることも可能です。僕も食堂があまりに混雑していたために,弁当を購入したことがありましたが,そのときはそこで食べたのです。
ところがこの日は,受付から指導室方面へ向う通路の間が,白い壁で閉鎖されていました。音は何も聞こえませんでしたが,その様子から考えると,ホールの改修工事を行っているのではないかと思えました。ただ,改修が必要な場所というイメージは少しも抱いていませんでしたから,やや不思議な気がしたのも事実です。この関係でロビーのソファーの数も減っていて,人が凝縮している,つまり普段よりも人口密度が高くなっているような印象を受けました。
中央検査室では,僕の前にふたりの患者がいましたので,この日も先に採尿をしましたが,前回と同様,この日も採尿が終了した時点で僕の採血の順番は回ってきていました。したがって,また注射針の処理が最後になっています。
この日も診察の予約は午後3時になっていましたので,小港まで出て外食しました。かなり時間に余裕がありましたので,少し外を歩き回ってから病院に戻りました。
地元の期待を集めた浅井が2日目に当日欠場となってしまった松阪記念の決勝。並びは鈴木-池田の関東,松谷-白戸-松坂-渡辺の南関東,吉本-渡部の西国で柴崎は単騎。
柴崎,松谷,吉本の3人が前に。誘導の後ろに入ったのは松谷で前受け。5番手に柴崎,6番手に吉本,8番手に鈴木の周回。残り2周のホームから鈴木が上昇。バックの入口で松谷の前に出ると,このラインに続いていた吉本が鈴木を叩いて前に。柴崎がスイッチして3番手,5番手に鈴木,6番手に松谷の一列棒状となって打鐘。ここから松谷が発進。吉本が突っ張ったのでホームから先行争いに。なかなか決着がつかず,隊列が短いところを後方から鈴木が発進すると,あっさりと捲りきり,そのまま後ろを寄せ付けずに優勝。池田が追えなかったため,渡辺が鈴木を追う形となって2車身差の2着。池田が1車身差の3着で大波乱。
優勝した新潟の鈴木庸之選手は記念競輪の決勝を走ること自体これが初めて。一気に優勝まで手にすることになりました。池田を後ろにつけているので,先行争いをする可能性はあるとみていましたが,僕の予測に反し,吉本と松谷の激しい争いに。この展開に乗じた結果ではあるのですが,捲ったときのスピードに池田がついていかれなかったくらいですから,潜在的な力というのは高いものをもっている選手と考えてよいでしょう。記念競輪では二次予選を突破できるかどうかというクラスの選手でしたが,この後,どれくらいの活躍ができるのか,楽しみなところです。
2月13日,金曜日。妹が作業所を欠勤しました。気持ちが悪いので休みたいと訴えたからです。基本的に,妹が休むことを明瞭に意志として表示したときには,休ませるようにしています。
この日は母の足つぼの予約が入っていました。現在の通例では足つぼは木曜日に予約を入れていたのですが,この週は前日が三者面談であったため,金曜に変更してあったものでした。予約時間は午後2時で,これはマッサージでもストレッチでも必ずこの時刻です。行かなければならないという性質のものではありませんから,予約を取り消すことも可能でした。作業所を休んでいるような状況で妹をひとりにするわけにもいきません。しかし,僕が何とかできそうな日でした。この日は本牧でしたが,午前中にすべてを済ませることも不可能ではなかったからです。ということで,午後は僕が待機することにし,母は予定通りに足つぼに行っています。
この日,本牧からの帰りにまだ時間に余裕がありましたので,I歯科にも寄って,予約を入れてきました。診察券の記入欄が一杯になっていましたので,新しいものに変えてもらいました。
2月15日,日曜日。妹のピアノのレッスン。妹が不調を訴えたのは1日だけだったので,レッスンを行うことには何の問題もありませんでした。予定では午後5時半からとなっていましたが,前夜に先生から電話で連絡があり,午後2時半開始に変更となりました。これは先生の都合で変わったというより,この時間でも大丈夫になったということです。僕たちとしては5時半よりは2時半の方があり難いですから,先生がそういう意を汲んでくれているものと思います。
2月16日,月曜日。13日に予約を入れておいた歯科検診に。この日もクリーニングだけ。すべての作業が終了した後,担当した歯科助手から注意を受けました。あまり堅い歯ブラシで強い力を入れて歯を磨かないようにというものです。この注意を受けるのは2度目。ただ気をつけるようにはしていますので,それ以上に何かできるわけではありません。
妹はこの日から2泊3日で南区内の施設へのショートステイ。この施設での2泊は久々でした。
3歳マイル王決定戦の第20回NHKマイルカップ。
先手を奪ったのはレンイングランド。タガノアザガルとアルビアーノが2番手併走。4番手もクラリティスカイとマテンロウハピネスで併走。その後ろはヤマカツエース,ダノンメジャー,ナイトフォックス,グランシルクの4頭が一団。さらにアルマワイオリ,ミュゼスルタン,ニシノラッシュの3頭が一団で続きました。前半の800mは47秒2のスローペース。このために団子状態となったものでしょう。
直線の入口ではレンイングランド,アルビアーノ,マテンロウハピネス,ダノンメジャーの4頭が雁行。この中からアルビアーノが直線に入ってすぐに先頭に。追ってきたのは雁行4頭の直後のインを回り,アルビアーノとマテンロウハピネスの間に進路を取ったクラリティスカイで,残り100m付近で粘るアルビアーノを捕えて優勝。アルビアーノが1馬身差で2着。中団から道中ではほぼ同位置にいたニシノラッシュの外から伸びたミュゼスルタンがクビ差まで迫って3着。
優勝したクラリティスカイは昨年10月のいちょうステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース制覇。クラシック路線に向いましたが,距離適性を考慮し,ダービーではなくこちらに出走。戦ってきた相手が強いので,勝ててはいませんでしたが能力上位の可能性は高いと思われました。パドックで非常に落ち着いていたのが印象的で,ここまでの経験が生きての勝利であったといえるでしょう。ダービーでなくこちらを狙ってきたということから,距離には限界があるタイプと理解しておくのが適当だと思います。父は第6回の覇者のクロフネで父仔制覇。母の父はスペシャルウィーク。祖母は1999年にクリスタルカップを勝ったタイキダイヤで,その半兄に第1回を制したタイキフォーチュンがいる,父系も母系もこのレースに所縁ある馬です。
騎乗した横山典弘騎手は先週の天皇賞に続いて2週連続の大レース制覇。第4回以来16年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している友道康夫調教師は昨年のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇でNHKマイルカップは初勝利。
2月12日,木曜日。妹の三者面談がありました。
ここでいう三者とは,施設の利用者とその保護者,そして担当者を意味するということは以前に書きました。つまり妹と母,妹の担当者です。この点についてもう少し詳しく説明しておきましょう。
施設の利用者は,少人数のグループに分けられます。このグループひとつにひとりの担当者が,施設の職員の中から選ばれます。学校の少人数クラスにひとりの担任がいるというイメージでよいかと思います。
妹は施設に通うようになって以降,ずっと同じ作業所に勤務しています。これを学校に喩えるなら,妹は通うようになってからずっと同じクラスに所属しているということになります。ただし,同じクラスだからといって担任,すなわち担当者も同じというわけではありません。施設の職員には異動も退職もあります。また,妹はずっと同じクラスでも,クラスのメンバーにも変更はあります。利用者が別のグループに移る場合もありますし,施設に通うのをやめるというケースもあります。また,施設は一種のコミュニティーですから,死亡してしまうというケースも発生するからです。
僕は三者面談には参加したことはありません。僕が妹の担当者とじっくり話したのは一度だけ。これは母が小脳出血で入院している期間に,妹の支援について話し合ったときです。そのときにははっきりと示しませんでしたが,相手はふたりいまして,ひとりが当時の担当者で,もうひとりが作業所の所長でした。作業所の所長の立場を学校で喩えるのは難しいですが,分校の校長といったところでしょうか。
三者面談は作業所の業務の終了後,原則的に施設に移動して行われますが,作業所で行われる場合もあります。業務終了が午後4時ですから,必然的にそれ以降。僕はこの日は長者町で,午後4時半に帰宅しましたが,当然ながら母と妹は不在でした。ただ,僕が帰った時点で,夕食の支度が概ね終了していましたので,先にそちらを済ませてから母は出掛けたのでしょう。だからといって僕が先にひとりで夕食を済ませるようなことにはなりません。午後5時40分頃にはふたりも帰宅しています。
一昨日の第8期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
加藤桃子女王の先手で上田初美女流三段のノーマル四間飛車。先手の居飛車穴熊に対して後手が積極的に動いていきました。

角筋を通しつつ飛車先を伸ばした局面。4筋の交換を避けるために▲4七銀と引きました。
後手は△7七角成▲同金と角を交換し,△7三桂。両取りを避けて▲7八金。これは最も考えられる進行だと思います。
後手はそれでも△6五桂と跳ねました。▲6六銀と逃げたので△4六歩▲同歩△同飛。

時間の関係で手順は追えなかったのですが,当日の午前中にこの局面を見たとき,先手はすごくつまらない指し方をしているのではないかという印象を抱きました。▲4八飛とぶつけて自信があったという感想ですが,実際には読み抜けがあって,実戦の手順では先手がまずく,第2図では金が逃げるほかなかったそうです。ただ,この将棋は先手の構想に問題があって,後手がうまく咎めたという一局なのではないでしょうか。
上田三段が勝って1勝2敗。第四局は19日です。
1月17日,土曜日。妹の土曜出勤。土曜出勤は事前に各家庭にプリントが配布され,何を行うのかが分かるようになっています。このときに受け取ったプリントには,チーム対抗クイズ大会を行うと記されていました。ただ,詳しいことが何も書かれてはいませんでしたから,このときに具体的にどんなことを行ったのかはさっぱり分かりません。少なくとも妹をみる限り,普通にクイズを出してそれに解答させるというのは不可能なのではないかと思われますので,たとえば三択形式のクイズを出して,札を上げて答えるといった内容ではなかったかと推測します。もちろんこの日も母が妹を施設まで送って行きました。
1月24日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後5時半からでした。
1月25日,日曜日。ガイドヘルパーの利用。この日もカラオケでした。
1月31日,土曜日。またガイドヘルパーを利用しました。この日はボーリング。必要があって利用しているわけではないので,月に1回の利用を原則としているのですが,最近はカラオケとボーリングの両方が予定に組み込まれているケースがあり,そういう場合は可能であれば両方とも利用することにしています。現在はそれだけこれが妹の楽しみのひとつになっているということです。
2月4日,水曜日。妹の歯科検診。僕はこの日は川崎で,帰ったのは午後4時50分頃。そのときには母と妹はすでに帰ってきていました。やはりこの日もクリーニングだけであったのでしょう。指定歯科がみなと赤十字病院ですから,渋滞が生じなくなったことは,こういうときにもよい影響を与えています。また,妹の作業所と施設も本牧ですから,いつも帰ってくるときの時間が大幅に遅れてしまうということもなくなっています。
2月7日,土曜日。妹の土曜出勤。この日はお菓子作りとありましたが,チョコレートだったようです。おそらく翌週がバレンタインデーであったことを考慮に入れたものでしょう。
2月8日,日曜日。母と妹が美容院へ。前回とは異なり,この日はいつもと同じように午後1時の予約で,またいつもと同じように午後4時前に帰宅しました。
一昨日の平塚記念の決勝。並びは新田-成田の福島,矢口-神山-岡田-朝倉の関東,村上-稲川の近畿で岩津は単騎。
新田がスタートを取って前受け。3番手に村上,5番手に岩津,6番手に矢口で周回。残り2周のホームから矢口が上昇すると,機先を制して村上も発進。新田の前に出て関東勢を行かせる作戦だったかもしれませんが,新田が突っ張る構えを見せたのでバックでまた3番手に入り直しました。岩津も上昇しようとしたものの,思い直したように下げてまた稲川の後ろに。打鐘で矢口が発進すると,引きつけた新田があっさりと併せきり,矢口はホームを過ぎて失速し関東勢は総崩れ。バックから村上が発進。稲川はつけきれずに成田の内に。新田と村上の力勝負は直線で新田が力尽き,村上の優勝。稲川を追い,直線は新田と稲川の中を割った岩津が4分の1車輪差で2着。立て直して外を伸びた成田が4分の3車身差で3着。力のこもったいいレースでした。

優勝した京都の村上義弘選手は1月の立川記念以来の優勝で記念競輪30勝目。平塚記念は初優勝。新田に突っ張られたのは意外だったかもしれませんが,無理をせずに3番手を確保したのが勝因になりました。矢口も出させずに新田にとっては消耗が大きかったレースであったのは事実ですが,堂々と力勝負を挑んでねじ伏せたのですから,40歳という年齢を考えても立派な優勝だったといえるでしょう。
一目で体調の悪さがみてとれるくらいなのですから,11日の夜に発熱して以降,このときが最も悪い状態になっていたのは明らかです。母に声を掛けてみると,熱は38.1℃あるとのこと。僕でもここまで熱が高くなるととさすがにいくらか苦しくなりますから,平熱が低い母にとってはひどく辛い状態であったかと思います。このままリビングで横になっていてもよいことはありませんから,寝室に移動して休むように促しまして,母も同意しました。母は普段は家族の夕食の支度をしていますか,当然ながらこの時点では手つかず。ただ,妹はショートステイのため家には帰ってきませんから,僕は自分の分だけを準備すればよかったので,大した問題とはなりませんでした。
1月14日,水曜日。最初の母の発熱があった翌朝と同じように,この日も僕が起きたときにはすでに母は起きていました。熱は下がったようです。咳は相変わらず出ていましたが,前日に僕が帰ったときと比較したなら,明らかに回復しているのが僕にも窺えました。場合によっては予定を中止しなければならないと考えていましたが,大丈夫そうだったので事前の予定通りに鶴見市場へ。帰ったのは午後5時。母は起きていて,この日は夕食の支度も済ませてありました。
1月15日,木曜日。母は鼻声になっていたものの,咳は良化していました。妹がショートステイから帰って来る日ですが,これなら何の問題もないだろうと思いまして,僕は長者町へ。午後4時過ぎには帰宅しましたが,母の体調がまた悪化するような傾向はありませんでした。この時間ですと妹の帰宅前になります。もしも何かあってはいけないと思ったので,少し早めに戻ったのです。翌日は妹を作業所まで送っていく必要があります。念のために僕が送っていくようにするか打診しましたが,母は自分で送っていくという答え。自分自身でもそれだけ体調の回復を実感していたのだと思います。
1月16日,金曜日。前夜の回答の通り,母が妹を作業所に送りました。一連の母の発熱と体調の悪化は,この日で完全に回復したということになります。僕はこの日は横浜へ。帰ったのは午後4時15分頃でした。
昨日の第29回東京湾カップ。
すっとハナに立ったのはヴィグシュテラウス。ナイキアフォードが追いましたが,鞭を入れられたドライヴシャフトが内から交わし2番手を確保。ナイキアフォードが3番手。この後ろはやや離れてクラヴィクトリーとハタノヴォラーレ。さらにアロマベールとマイカラー。そしてミッドストラーダとハニームーンとレイモンドヒッチが続きました。超ハイペース。
3コーナーを回るとヴィグシュテラウスとドライヴシャフトは雁行になり,離され出したナイキアフォードの内から,向正面でクラヴィクトリーとハタノヴォラーレの間から進出を開始していたマイカラーが交わして3番手。直線に入るとわりと馬場の外の方に出したドライヴシャフトがヴィグシュテラウスを交わして先頭に立ち,そのまま抜け出して優勝。マイカラーを追うような進路から最後は外に出したミッドストラーダが4分の3馬身差まで迫って2着。マイカラーが1馬身差の3着。
優勝したドライヴシャフトは南関東重賞初勝利。2歳時に北海道で3戦して南関東に転入した馬。当時の戦歴から考えると転入後ももっとやれていいと思われましたが,意外と苦戦していました。今日はトップクラスが不在でしたので,そういう相手関係では上位であったということでしょう。東京ダービーに向うなら,入着候補の域は出ないような気がします。祖母の従兄に1985年の日本ダービー馬のシリウスシンボリ。
騎乗した大井の的場文男騎手は昨年のクラウンカップ以来の南関東重賞制覇。東京湾カップは初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師も東京湾カップ初勝利。
12月27日,土曜日。この日から妹が冬休みに入りました。僕はゴールデンウィークとかお盆,年末年始といった期間はむしろ繁忙期になるのですが,この日は在宅していました。
1月3日,土曜日。母と妹が叔父の運転で大和の祖父と祖母の墓参りに行きました。時間に余裕があったようで,父が眠る日野の墓地にも行ってきたとのことです。僕は川崎へ。帰ったのは午後4時半頃でしたが,このときには母と妹はすべてを終えて帰っていました。
1月5日,月曜日。妹の仕事始め。月曜ですから迎えがありました。僕はこの日は休みでした。
1月10日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後5時半から。
1月11日,日曜日。母と妹は美容院へ。予約が午前11時。いつもは午後1時の予約なのですが,この日はその時間に空きがなかったためです。終れば正午を回ることになりますから,昼食も外で済ませ,午後1時25分頃に帰ってきました。
この日の夜、母が発熱しました。37.5℃あったとのこと。僕は平熱が高く,このくらいの体温であればほぼ平常時と同じような活動が可能ですが,母と妹は逆に平熱が低く,この程度でもそれなりの高熱になります。
1月12日,月曜日。午前8時頃に起きてみると,母はすでに起きていました。熱は下がったようです。ただ,喉の痛みはあり,咳も出ていました。おそらく風邪であろうと思われました。祝日のこの日は僕は休み。中央競馬の開催がありましたからWINS横浜まで馬券を買いに行き,帰りに薬局に寄って風邪薬を買って帰りました。
1月13日,火曜日。妹はこの日から磯子区内の施設に2泊3日でショートステイへ。母の咳は前日よりひどくなっていました。ただ,妹の荷物の関係で事前に迎えを依頼してあり,作業所まで送っていく必要がなかったのは幸いでした。
僕はこの日は伊勢佐木町。帰ったのが午後4時20分頃。母はリビングの掘炬燵に足を伸ばして横になっていました。もっともこれはいつもこの場所でテレビを視るときの母の体勢のひとつですから僕も驚きはしません。ただ,顔を覗き込んだら体調が優れないことは一目瞭然でした。
予定していたレースが頭数不足で不成立となったため,地元で7戦全勝のインディウムが出走してきた第16回兵庫チャンピオンシップ。
タンジブルはダッシュが鈍く最後尾から。先手を奪ったのはクロスクリーガー。可能なら逃げたいという構えに見えたリアファルが2番手でマーク。3番手にマキシマムカイザー。発走後の向正面ではこの後ろがかなり開き,コパノジョージ,インディウム,ノーブルヴィーナス,アウトドライブ,ワールドウェーブ,ポムフィリアと続きました。
1周目の正面で3番手と4番手以降は接近。1コーナーを回ると今度は前の2頭と3番手の差が開いていくことに。向正面ではインディウムが3番手に上がり,ノーブルヴィーナスとコパノジョージ,そしてポムフィリアに。3コーナー手前からクロスクリーガーがリアファルとの差を広げ始め,ここからは独走で9馬身差の圧勝。リアファルも離されましたが2着は楽に確保。5馬身差の3着には大外から脚を伸ばしたポムフィリア。
優勝したクロスクリーガーは前走の伏竜ステークスから連勝で重賞初勝利。そのときは2着馬と接戦だったのですが,今日は大きな差をつけました。前々走のヒヤシンスステークスで3着に敗れたときの勝ち馬がこの路線の3歳馬では最強かと思いますが,この馬もかなり高い能力をもっているのは間違いありません。大レースでの好走を期待していい馬だと思います。父は2007年のシンザン記念と弥生賞,2008年の京都記念を勝ったアドマイヤオーラ。その父はアグネスタキオンで母はビワハイジ。母の半兄に2005年の日経賞を勝ったユキノサンロイヤル。Kriegerはドイツ語で戦士。
騎乗した岩田康誠騎手は第8回,第12回と制していて4年ぶりの兵庫チャンピオンシップ3勝目。管理している庄野靖志調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。
僕が通院を始めた頃,帰りにどの程度の時間を要するか,読めないところがありました。バスは本牧通りを通って根岸駅に向うのですが,この本牧通りと産業道路が合流する間門の交差点から,根岸駅前を通過して国道16号線と合流する八幡橋の交差点までの区間は,ときにひどい渋滞が発生するケースがあったからです。これは病院の帰りだけでなく,本牧から帰る場合も同様で,最も時間を要したときで,本牧から家まで1時間以上も掛かってしまったことがありました。これなら歩いた方が早いくらいです。現在は,首都高速湾岸線の高架の下に,同じように高架の一般道が開通していて,本牧ふ頭から磯子方面へ直通できるようになっています。開通してからもう随分と時間が経っていますが,これができてからは渋滞が生じることはなくなっていて,病院や本牧に行ったときに,バスに乗ってさえしまえば家に着くまでに要する時間もほとんど一定になっています。
12月23日,火曜日。祝日です。母と妹は昼に眼鏡屋へ。妹の眼鏡の修理のためです。ついでに昼食も外で済ませてきました。僕はこの日は日吉へ。帰ったのは午後5時5分頃。母と妹が何時頃に帰ったのかは分かりません。

12月24日,水曜日。この日は川崎で,帰ったのが午後5時頃。大きな封筒が届いていました。開封してみると,グリーンチャンネルの開局20周年記念のカレンダーでした。20年前以降に走った競走馬の中から思い出に残る馬を選出するアンケートに解答していたのですが,その記念品でした。1年は12ヶ月ですから,紹介されているのは12頭。これまでに名馬のカテゴリーで紹介した馬も何頭か含まれています。12位のスペシャルウィーク,10位のグラスワンダー,8位のテイエムオペラオー,3位のサイレンススズカ,1位のディープインパクトです。まだこれから,何頭かは当ブログでも取り上げていくこととなるでしょう。よいクリスマスプレゼントになりました。
12月26日,金曜日。郵送を依頼しておいた注射針が届きました。この日は長者町で,帰ったのは午後4時半頃でしたから,帰宅したら届いていたということになります。
ホッコータルマエとコパノリッキーの現二強が不在でのレースになった第27回かしわ記念。
外からセイントメモリーがハナへ。発走後の正面ではベストウォーリア,ハッピースプリント,セイクリムズンの3頭,サンビスタとワンダーアキュートの2頭と続き,やや控えることになったクリソライトが離れた7番手。向正面に入るとセイントメモリー,ベストウォーリア,ハッピースプリントと隊列が定まり,サンビスタとセイクリムズンが併走。ワンダーアキュートが続き,クリソライトも直後まで追い上げました。前半の800mは48秒2のミドルペース。
3コーナーでベストウォーリアが先頭に立ち,マークするように外からハッピースプリント。サンビスタとセイクリムズンはペースアップに対応できず,ワンダーアキュートが3番手に。直線に入るところでハッピースプリントが外に膨れました。それでも一旦は先頭に立ったように見えましたがそこまで。開いた前2頭の中を伸びたワンダーアキュートが優勝。盛り返したベストウォーリアが1馬身差で2着。ハッピースプリントが1馬身4分の1差で3着。
優勝したワンダーアキュートは昨年の帝王賞以来の勝利で大レース3勝目。能力が極端に衰えた感はありませんでしたが,この距離でどうなのかという印象は抱いていました。体重の変動が大きい馬で,今日は減らしていました。気候や輸送の影響とも考えられますが,意図的に絞り込んだのかもしれません。距離に対応できた要因のひとつにはなっていると思います。二強に次ぐグループの一角は依然として構成していると考えてよいでしょう。半兄に2008年のアンタレスステークスと名古屋グランプリ,2009年の平安ステークスと東海ステークス,2010年の名古屋グランプリを勝ったワンダースピード。Acuteは鋭い。
騎乗した和田竜二騎手は2012年のJBCクラシック以来の大レース制覇。かしわ記念は初勝利。管理している佐藤正雄調教師は大レース昇格前の第13回以来,14年ぶりのかしわ記念2勝目。
中央検査室の状況をみて,先に採尿をしたのですが,その間に採血の順番が回ってきていました。ですからすぐに採血もして,注射針の処理が最後になりました。
診察の予約は午後2時半。少し時間があるので小港まで出て外食。時間前に病院に戻りましたが,実際に診察が開始されたのは午後2時55分頃でした。
HbA1cは6.9%でした。10月が7.0%でしたから,またK先生が目標値とする6%台までは下がっていたことになります。とはいっても7.0%と6.9%の差異にどの程度の意味があるのかは分かりません。
その他の検査で異常があったのは中性脂肪。43㎎/㎗でした。2014年2月に47㎎/㎗だったことがあり,それ以来の異常。それ以降だと最も高いときで71㎎/㎗,最も低いときで56㎎/㎗でしたから,10ヶ月ぶりの低い値です。ただどういう理由で増減しているのかは不明です。また,異常といっても心配しなければならないようなものでもありません。

帰途に薬局へ。この日は注射針の在庫が1袋だけ足りませんでした。インスリンならば取りに来ますが,注射針だけでしたから,郵送を依頼しました。なお,この郵送料金は薬局の負担になっています。
薬局に着いてから,K先生に言い忘れたことがあったのを思い出しました。僕が血糖値を記録する自己管理ノートは,年の初めが最初のページで,1年が経つと書き込むページがなくなります。つまりこの月でもう書けなくなりますから,もらわなければいけないと思っていたのですが,これを忘れてしまったのです。この日は病院への忘れ物も血糖値測定器でしたから,血糖値に関するふたつのことを忘れてしまったことになります。とはいえ現状は自己管理ノートも僕が記録するためだけのものになっていますから,絶対になければならないという性質のものではなく,あった方が便利というだけです。もらい損ねたとしても大事に至るわけではありません。1月以降は手元に書き残しておき,次の通院のときには忘れずにもらって,書き残しておいたものを書写するようにしました。
すべてを終えて帰宅したのは午後4時20分頃でした。
エーシンビートロンが出走取消で11頭での争いとなった第17回かきつばた記念。
枠順の差もあってハナを奪ったのはコーリンベリー。2番手にメイショウコロンボ,3番手にアイファーソング。そしてエナエビスとレーザーバレットが併走で続くという隊列。最初の600mは36秒2のミドルペース。
3コーナーではレーザーバレットが単独の3番手に上がり,ここからは前3頭でのレース。結局コーリンベリーは並び掛けられるというシーンもなく逃げ切って優勝。直線は最内に進路を選択したレーザーバレットが1馬身半差で2着。メイショウコロンボがさらに1馬身半差で3着。
優勝したコーリンベリーは重賞初制覇。ただここまで1400mのオープン特別で牡馬を相手に3勝。その馬が52キロの斤量で出走できましたので,地方の馬場を克服できれば最も有利な立場にいると思われました。距離が伸びることにどこまで対応できるのかは未知数な部分は残ります。今日は競られずに楽なペースで逃げられるという展開面の恩恵もあったのは事実ですが,まだ4歳ですから,この距離の重賞であれば勝つチャンスはこれからも多くあるだろうと思います。父はサウスヴィグラス。三代母の半弟に1994年の福島記念を勝ったシルクグレイッシュ。
騎乗した松山弘平騎手と管理している柴田政見調教師はかきつばた記念初勝利。
N伯父の納骨の後の会食も,僕なら絶対に行くことがないであろう店でした。たぶん従兄には叔父と同じような食へのこだわりといったものがあるのだろうと推測します。叔父は自身でそう言っていますから,それがあるのは確実ですが,従兄の口からは同じようなことばは聞いていませんから,あくまでも推測ではあります。墓地からこの日の店舗までと,この店舗から家まで,寺から墓地までと同様に父のすぐ上の伯父の自動車に同乗させてもらいました。散会となったのが午後3時15分頃,送ってもらった僕たちが帰宅したのは午後3時40分くらいのことでした。
この日は衆議院議員の選挙と最高裁判所裁判官の国民審査がありました。投票所は自宅のすぐ近くですから,こちらは従兄の迎えの前に投票を済ませてありました。
12月15日,月曜日。妹の遺伝科への通院。午後1時の予約。この日は診察だけだったようで,午後3時には帰宅できたようです。僕は屏風浦で,帰ったのは午後4時35分頃です。
12月20日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後2時から。年末ということもあり,先生も忙しかったようで,本当は前日の午後5時半が予定されていました。しかし事前に電話があり,この日のこの時間ならば大丈夫になったとのこと。金曜日ですと妹が作業所から帰った後でのレッスンということになり,負担は大きくなります。休日の土曜日の方が妹にも楽でしょうから,この日に変更しました。
12月21日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日もカラオケだったのですが,クリスマスが近いということで,参加者によるプレゼント交換も行われました。

12月22日,月曜日。通院でした。午前中に長者町に行き,家に戻ってまた出掛けたのが正午でした。病院に到着したのが午後12時40分頃。そのときになって,血糖値測定器を持参するのを忘れてしまったことに気付きました。とはいえこれは絶対に必要なものとまではいえませんから,取りには戻っていません。記録は器械の中に残っている筈で,それは次回の通院のときにプリントアウトできるであろうと判断したからです。
日本では最長距離の平地の大レースになる第151回天皇賞(春)。
押してクリールカイザーがハナへ。発走直後は押した分だけ後ろと差が開きましたが,先頭に立つとペースを落とし,その差は詰まりました。2番手はカレンミロティックとスズカデヴィアスの併走。さらにタマモベストプレイとラブリーデイの併走。正面ではおそらく掛かったアドマイヤデウスが外を上昇。ホッコーブレーヴとサウンズオブアースの2頭,ネオブラックダイヤとフェイムゲームとウインバリアシオンの3頭という隊列で追走。最初の1000mは61秒4のスローペース。
発走後は最後尾,正面ではデニムアンドルビーとキズナの前に出たゴールドシップが向正面で外を上昇し3コーナーではスズカデヴィアスとカレンミロティックの外の4番手まで上昇。一旦はそこで控えました。直線に入るとカレンミロティックが先頭に出て抜け出しましたが,ゴールドシップがその外から追い,最後は交わして優勝。ゴールドシップが動いた辺りでは鞭も入って何とか追走の感じだったフェイムゲームが,直線はウインバリアシオンと後方から追い込もうとしたキズナの間に進路を取って猛追するもクビ差で2着。最後は力尽きる形のカレンミロティックが4分の3馬身差で3着。
優勝したゴールドシップは前走の阪神大賞典から連勝。大レースは昨年の宝塚記念以来の6勝目。能力だけでいえば負けられない相手関係。ただ京都コースは苦手ですし,阪神大賞典の後,順調ではなかったので心配な面の方が多いと僕は考えていました。ラストが早くなるレースで苦戦の傾向にあり,京都はそういったレースになりやすいので苦戦が多かったものと思います。早くに動いてラストが掛かるレースを作ったのが勝因で,この好騎乗なしに今日の勝利を語ることできないでしょう。2着馬との能力差と通ったコースを勘案すれば,ここまで詰め寄られたのは,やはり得意とはいえないコースの影響があったものと思います。今日はゲートに入るのをかなりごねていましたが,我を出すときの方がレースに行っていい結果を出せるタイプの馬でしょう。父はステイゴールド。母の父は第103回と105回を連覇したメジロマックイーン。星旗系風玲の分枝。
騎乗した横山典弘騎手は昨年の宝塚記念以来の大レース制覇。第113回,129回に続き11年ぶりの天皇賞(春)3勝目。第140回の優勝もあり,天皇賞は5年半ぶりの4勝目。管理している須貝尚介調教師も昨年の宝塚記念以来の大レース制覇。天皇賞(春)は初勝利。第148回以来1年半ぶりの天皇賞2勝目。
12月10日,眼科検診へ。О眼科の開院は午前9時半なのですが,午前9時と勘違いしていたため,少し早めに到着してしまいました。ただ,もうすでにその時点で僕より前に7人が列を作っていました。なるほどこの眼科は混雑するわけだと思いました。この日は視力の調子が普段ほどよくありませんでした。といってもそれは裸眼でのこと。矯正すれば見えますから,何の問題もありません。網膜症の方も異常なしでした。帰宅したのは11時5分頃。それから長者町へ行きましたが,16時5分頃には帰っています。この日は午後1時からピアノの調律が予定されていました。実際に開始されたのは午後1時を回っていたようですが,僕が長者町から帰ったときにはすでに終了していました。

12月13日,土曜日。妹の土曜出勤。12月はクリスマス会です。母も一緒に行きまして,午後3時40分頃には家に戻りました。
12月14日,日曜日。N伯父の一周忌の法要。午前11時に開始されることになっていましたが,伯父の長男で僕の従兄が,午前10時くらいに自動車で迎えに来てくれることになっていました。僕は中央競馬の開催日には,今でも運動療法を兼ねてWINS横浜まで歩いていますが,この日はその時間に間に合わない可能性がありましたから行かず,馬券は前夜のうちにインターネット投票で済ませました。
従兄が迎えに来たのは午前9時55分頃。法要の開始には早いのですが,事前にしなければならないことが従兄にはあります。僕たちとしても自動車で行かれるのはありがたい話ですから,寺で少し待つことにはなりますが,迎えに来てくれるというのを断る理由はありませんでした。
予定通り,午前11時に法要が始まり,40分ほどで終了。その後は父のすぐ上の兄,僕の伯父の自動車に同乗させてもらい墓参。それが終ってから精進落しです。このときはこの年,つまり2014年の2月にオープンした大型の複合型マンション内にある和食料理店で。場所はN伯父が死んだときに住んでいたところの近くです。僕は食には詳しくありませんが,その僕でも知っている有名な料理人が経営している店舗でした。
スピノザは第四部定義八で徳と能動,人間の精神においては理性を同一のものと解しています。そしてもうひとつ,これと同一とスピノザがみなすのが至福beatitudoです。第五部定理四二で以下のようにいわれています。

「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて,反対に,至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである」。
この定理は神学と関係する要素があるので,やや特殊な証明が与えられています。そこでここでは,スピノザの証明とは別の仕方でこれを考えてみましょう。
第四部定理五二では,理性から生じる自己満足が存在する最高の満足だといわれています。理性は徳と同一視できるので,この自己満足が最高の徳であると理解して間違いでないでしょう。自己満足は感情で,基本感情のうち喜びに該当します。つまり第三部諸感情の定義二により,より小なる完全性からより大なる完全性への移行です。そしてこれが最高の満足いい換えれば喜びであるということは,それはそれ以上は大なる完全性へ移行するような喜びは存在しないという意味になります。つまり最高の徳とは最高の喜びであるということになるわけで,それを至福と記号化するのは変ではないと思います。よって理性と徳と至福は,同一視してよいことになります。
現世で徳を積むことが,来世の至福をもたらすという教えは,キリスト教に限らず宗教ではありがちです。至福が徳の報酬であるという意見について,おそらくスピノザはそのような宗教的見解を念頭においているものと推測されます。それに対してスピノザは,至福というのは来世のものではなく,現世のものなのだと主張していることになります。
たぶんこの定理には,上述したような二重の意味合いが含まれています。したがって至福は徳そのものであり,かつ現実的に存在する人間が手に入れるものであるというように解するのが,最もスピノザの意を汲んだ解釈になるものと考えます。
11月25日,火曜日。母はこの日が最後のボランティア。施設のバザーの後片づけです。バザーは22日だったわけですが,23日は日曜,24日が振替休日で連休となっていましたので,この日になったものです。また,妹はこの日から磯子区内の施設へ2泊3日のショートステイに行きました。ただしこの日は迎えは依頼せず,母が荷物を持って妹を送っています。というのもこの日は妹のインフルエンザの予防接種というのがありまして,作業所ではなく施設に通勤することになっていました。母も施設へ行くことになっていましたので,一緒に行ったのです。僕もこの日は本牧で,帰ったのは午後4時15分頃でした。
11月26日,水曜日。母がI歯科へ。抜糸です。これは午前11時の予約。つまり処置としては時間が掛からないと想定されていたことになります。実際に糸を切って消毒するだけだったようで,簡単に終了したそうです。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後4時45分頃でした。
11月27日,木曜日。妹がショートステイから帰りました。妹がひとりですべての荷物を持ち帰るのは困難ですから,この日は送ってもらうように手配してありました。僕はこの日は菊名。帰ったのは午後4時55分頃で,この時間ですと妹はすでに帰っていることがほとんどです。
11月28日,金曜日。妹が通っていた養護学校の保護者会があり,母が出掛けました。横浜での昼食会です。僕はこの日は長者町で,帰ったのは午後4時25分くらいでした。
12月6日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後3時からでした。
12月7日,日曜日。母と妹が美容院へ。いつものように午後1時の予約で,帰ってきたのは午後4時10分頃。前回は早かったのですが,概ねこれくらいの時刻に帰ってくることが多くなっています。
この日は僕の誕生日でした。例年のことですが,誕生日だからといって何か特別の感情が生じるわけではありませんし,特別のことをするわけでもありません。ただ,このときは44という年齢になったことに,ある感慨めいたものはありました。スピノザは44歳で死んでいるからです。